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本多忠奝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
本多忠奝
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦5年9月11日1755年10月16日
死没 享和3年1月22日1803年2月13日
改名 駒之助(幼名)、忠奝、沢山・暮山(法号)
戒名 源徳院忠誉信岳義哲
墓所 東京都江東区白河の霊巌寺
官位 従五位下、伊予
幕府 江戸幕府
伊勢国神戸藩
氏族 本多氏
父母 父:本多忠永、養父:本多忠興
兄弟 忠賢忠奝内藤正識忠尹知一忠憲
忠建
正室:酒井忠恭の娘
継室:土井利里の養女(土井利剛の娘)
実子:なし、養子:忠升
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本多 忠奝(ほんだ ただひろ)は、伊勢神戸藩の第4代藩主。神戸藩本多家5代。

宝暦5年(1755年)9月11日、第2代藩主本多忠永の次男として生まれる。明和3年(1766年)に従兄で第3代藩主の忠興が死去した際、その養子として家督を継いだ。江戸城の門番を歴任し、日光祭祀奉行代にも任じられた。

享和3年(1803年)1月22日、江戸で死去した。享年49。跡を養子の忠升が継いだ。

系譜

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父母

正室、継室

養子