木山紹宅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
木山紹宅
時代 戦国時代
死没 慶長2年(1597年[1]
別名 惟久(諱)、太郎、備後守、左近大夫
主君 黒田孝高長政
氏族 木山氏
父母 木山惟貞
甲斐親英の娘
信連
テンプレートを表示

木山 紹宅(きやま じょうたく)は、戦国時代の武将。実名は惟久(これひさ)といい、肥後国益城郡木山城主。連歌師として著名。

生涯[編集]

清和源氏新田氏の後裔を名乗る国人領主で、九州下向後は阿蘇氏の傘下勢力として、木山城および赤井城を拠点に肥後国益城郡木山一帯を治めた。のち子の木山信連(紹印)に家督を譲り、自身は上洛して当代随一の連歌師・里村紹巴の高弟となった。その後は京都に滞在したとも帰郷したともされるが、天正13年9月19日1585年木山神宮例祭の日、北進する南九州の大名・島津義久軍の攻撃に曝され木山城は落城した。

豊臣秀吉による九州平定後、豊前国を拝領した黒田孝高(官兵衛)に客分として招かれた。これ以降、孝高はたびたび連歌会に参加しており、紹宅は連歌の師として遇された。天正18年(1590年)に中津で開催された連歌会では、孝高・長政父子に続いて3人目として歌を詠んでいる。

慶長2年(1597年慶長の役が起こると、黒田家にも朝鮮への出陣の命が下り、孝高および家督を継いでいた長政が出兵した。豊前中津には孝高の次男・熊之助が残っていたが、後に熊之助自身も朝鮮へ渡海しようとした。紹宅はそれに従って共に海を渡ったが、その途上海難事故に遭い、熊之助ら共々死亡した。

脚注[編集]

  1. ^ 一説に、死亡したのは1度目の朝鮮出兵で文禄2年9月2日1593年10月25日)とも言うが、一般的に黒田熊之助の海難事故は2度目の朝鮮出兵の事とされる。

参考文献[編集]

  • 天草郡教育会 編『天草郡史料』
  • 益城町史編さん委員会 編『益城町史』
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』
  • 諏訪勝則『黒田官兵衛』
  • 講談社 刊『日本人名大辞典』