朝鮮文人協会

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朝鮮文人協会
各種表記
ハングル 조선문인협회
漢字 朝鮮文人協會
日本語読み: ちょうせんぶんじんきょうかい
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朝鮮文人協会(ちょうせんぶんじんきょうかい)は、1939年に設立された総督府御用団体。後に朝鮮文人報国会となる。

概要[編集]

朝鮮文人協会は1939年10月29日に設立された。1940年代朝鮮文壇の暗黒期を象徴する団体である。会は総督府の御用団体として辛島驍津田剛が起こしたもので、創立総会で会長に李光洙、幹事に朴英熙金東煥鄭寅燮兪鎮午李箕永朱燿翰等の朝鮮人文士を指名し、朝鮮人の御用作家を育成する機関となる。朝鮮文人協会は「興亜の大業を成就させるべき島国の新文化創造」を掲げる。

1942年10月、太平洋戦争で日本の戦局が悪化すると、朝鮮文人協会は組織を拡充、総務部と文学部をおき、常任幹事を14名に増員、12名の幹事を定めて、新たに「皇民団結の精神的支柱となり、大東亜諸民族の先駆的役割を担う」ことを掲げた。具体的な綱領は①朝鮮文学界の日本語化促進、②朝鮮文士の日本的鍛錬、③作品の国策協力、④現地の作家動員の4項目である。1943年朝鮮俳句作家協会朝鮮川柳協会国民詩歌連盟等と合併し、朝鮮文人報国会となる。

朝鮮文人協会の活動は『国民文学』を媒体とした。『国民文学』は崔載端が主管する『人文評論』が土台であり、1941年11月以降、日本の文壇弾圧の中、朝鮮で唯一の文芸雑誌となった。『国民文学』は日本語版とハングル版があったが、1942年5月以後、ハングル版は廃止された。朝鮮人の皇民化を進めるためである。

当時、日本による言論弾圧により、朝鮮の文士たちは御用作家となるか、筆を折って引きこもるか、抗日作品を書いて投獄されるかの途を辿るのだが、文壇で活動するには総督府の操る朝鮮文人協会に従うしかなく、発表できる文芸雑誌は『国民文学』しかなかった。それも日本語での投稿となり、朝鮮語での執筆活動は不可能であった。また、朝鮮文人協会は朝鮮人文士の活動を監視し、積極的に時局小説を書いた文士を賞賛する一方、書きあぐねて沈黙した文士を非難し、日本の戦局を賛美する小説を書くことを強要した。1945年の解放までに作品を残した文士の多くは、後に親日派、転向作家として非難を受けることになる。

関連項目[編集]