文珠九助

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文珠 九助(もんじゅ くすけ、享保10年(1725年) - 天明8年1月3日1788年2月9日))は、江戸時代中期の一揆指導者[1]

経歴・人物[編集]

山城伏見の刃物鍛冶、町年寄[1]

天明5年(1785年)伏見奉行の小堀政方の苛政に反対し、丸屋九兵衛麹屋伝兵衛伏見屋清左衛門柴屋伊兵衛板屋市右衛門焼塩屋權兵衛の7人と共に江戸の寺社奉行へ越訴した(伏見町民一揆、天明伏見騒動)[2]。結果政方は職を免じられたが、九助を含む7人は吟味中に病死する[1][2]。死後、九助は無罪となった[3]

明治20年(1887年)7人の義民を祀る「伏見義民事蹟」が御香宮神社の境内に建てられた[2]。碑文は勝海舟の撰、題字は三条実美の書である[2]。毎年5月18日には伏見義民碑保存会により慰霊祭が開催されている[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『文珠九助』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e 京都観光Navi:伏見義民事蹟、2018年10月25日閲覧。
  3. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『丸屋九兵衛』 - コトバンク