布勢人主
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位上・出雲守 |
主君 | 孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇 |
氏族 | 布勢朝臣 |
父母 | 阿倍御主人 |
布勢 人主(ふせ の ひとぬし)は、奈良時代の貴族。姓は朝臣。官位は従五位上・出雲守。
経歴
[編集]孝謙朝の天平勝宝2年(750年)遣唐判官に任ぜられ、天平勝宝4年(752年)に大使・藤原清河らと共に唐に渡る。天平勝宝5年(753年)11月に遣唐使の第四船に乗船して唐を離れ、道中で船が火災に遭うトラブルに見舞われつつ、翌天平勝宝6年(754年)4月に薩摩国石籬浦(現在の鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着し[1]、5月には渡唐の功労により従五位下に叙爵し、駿河守に任ぜられた。天平勝宝7歳(755年)駿河国防人部領使として防人歌10首を進上している[2]。
淳仁朝に入り、天平宝字3年(759年)右少弁に遷ると、天平宝字7年(763年)従五位上・右京亮次いで文部大輔に叙任されるなど京官を務める。淳仁朝末の天平宝字8年(764年)4月に上総守として再び地方官に転じたせいか、同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は不明。
称徳朝の神護景雲元年(767年)式部大輔として京官に復すが、神護景雲3年(769年)出雲守として三たび地方官に転じている。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平勝宝2年(750年) 9月24日:遣唐判官
- 天平勝宝6年(754年) 7月13日:従五位下、駿河守
- 天平宝字3年(759年) 5月17日:右少弁
- 天平宝字4年(760年) 正月21日:山陽道巡察使
- 天平宝字7年(763年) 正月9日:従五位上、右京亮。4月14日:文部大輔
- 天平宝字8年(764年) 4月11日:上総守
- 神護景雲元年(767年) 8月29日:式部大輔
- 神護景雲3年(769年) 6月9日:出雲守