市川高麗蔵

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三升の中に
髙の字
四つ花菱
浮線蝶

市川 高麗蔵(いちかわ こまぞう、旧字体:髙麗藏)は、歌舞伎役者の名跡屋号高麗屋定紋は初代と二代目が三升の中に髙の字、二代目以降が四ツ花菱、八代目以降の替紋は浮線蝶。当代で11代目をかぞえる[1]

解説[編集]

本来は高麗屋の門人が名乗っていた名跡だが、二代目高麗蔵が宗家を継いで四代目松本幸四郎となったことから、これが松本幸四郎に先立って襲名される名跡となった。

松本幸四郎はそもそも、市川宗家で市川團十郎の跡継ぎが絶えたときには養子に入ってこれを継ぐという、控えとしての性格を持ちあわせた名跡だった。したがって、いずれ幸四郎になる高麗蔵は、あるいは團十郎になる可能性もある大名跡になった。いずれ團十郎になる市川海老蔵とほぼ同格の重みをもつようになったのである。

これを裏付けるかのように、子福者だった七代目團十郎はその次男・三男を次々に高麗屋に出して六代目高麗蔵・七代目高麗蔵とした。七代目高麗蔵はのちに成田屋に出戻って七代目市川海老蔵を襲名している。さらに七代目幸四郎の長男として生まれた九代目高麗蔵は、市川宗家に望まれて養子に入り、九代目海老蔵を経て十一代目團十郎を襲名している。

ところがこのあと突然風向きが代わる。高麗屋では市川染五郎がいずれ松本幸四郎になる名跡に固定化し高麗蔵を駆逐。成田屋でも市川新之助がいずれ市川海老蔵になる名跡として固定化し高麗蔵の居場所をなくした。この結果、つづく十代目高麗蔵は九代目團十郎の門人だった三代目坂東秀調の次男、十一代目高麗蔵は八代目幸四郎部屋子(実父は日本舞踊の花柳泰輔)という、本来の門人系の名跡に戻ってしまった。

市川高麗蔵代々[編集]

六代目高麗蔵と七代目高麗蔵はともに「三代目市川新之助」を名乗っているが、新之助代々に数えるのは七代目高麗蔵の方。詳細は「市川新之助」の項を参照。

  • 三代目 市川高麗蔵
    • 二代目の子、1764–1838。
    • 市川純蔵 → 三代目市川高麗蔵 → 五代目松本幸四郎

出典[編集]

  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、117頁。