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川崎肇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川崎 肇(かわさき はじめ、1884年11月11日 - 1948年1月23日)は、日本東京川崎財閥実業家ゴルファー川崎銀行副頭取、川崎信託社長、東武鉄道取締役阪和鉄道取締役などを歴任した。「駒沢育ち」を代表するゴルファーの一人。

概要

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初代川崎八右衛門の孫。八右衛門の娘なかとその婿の茨城県出身の川崎東作との長男で、叔父に2代目川崎八右衛門[1]。弟の川崎甲子男国華徴兵日華生命、帝国火災、福徳生命の社長や明和銀行頭取などを務めた[2]。妻のキヨは金子堅太郎の娘。

9歳で家督を相続[1]東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属高等学校)を経て[3]、1903年東京高等商業学校(現一橋大学予科入学[4]。1909年ペンシルベニア大学経済学部卒業[3]日本火災保険取締役川崎貯蓄銀行専務。1913年から14年まで再びイギリスドイツイタリアオーストリアフランスロシアなどを遊学[3]

川崎銀行副頭取、博多土居銀行頭取、博多銀行頭取、日本火災保険社長、日華生命保険社長、萬歳生命保険社長、川崎信託社長、日本橋ビルデイング代表取締役東武鉄道取締役阪和鉄道取締役等を務めた[5]川崎財閥のうち、主に火災保険、信託の事業を担当した[6]

1923年関東大震災で妻を亡くす[7]。1943年日本火災保険を勇退[8]日本アマチュアゴルフ選手権競技で通算3勝(1919年、1924年、1925年)を遂げた実績を持つが[9]、その後左目を事故により失明、それ以降思うように勝てぬまま急性心不全で亡くなった。

脚注

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  1. ^ a b 川崎肇『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  2. ^ 川崎財閥最高本部陣営『川崎・鴻池コンツェルン読本』 勝田貞次、春秋社、1938、p157
  3. ^ a b c 財界の名士とはこんなもの? 第1巻
  4. ^ 官報 1903年07月31日
  5. ^ 人事興信録第8版 [昭和3(1928)年7月]
  6. ^ 川崎肇『川崎・鴻池コンツェルン読本』 勝田貞次、春秋社、1938、p157
  7. ^ 日本火災海上保険(株)『日本火災海上保険株式会社70年史. 年表索引』([1964)]渋沢社史データベース
  8. ^ 日本火災海上保険(株)『日本火災海上保険株式会社70年史. 年表索引』([1964)]渋沢社史データベース
  9. ^ JGA 日本ゴルフ協会 【2011年度(第96回)日本アマチュアゴルフ選手権競技】
先代
二代目川崎八右衛門
日本火災保険会長
第2代:1913年 - 1920年
次代
(会長制廃止)
先代
川崎東三郎
日華生命保険社長
第3代:1921年 - 1929年
次代
川崎甲子男
先代
藤田謙一
帝国火災保険社長
第4代:1929年 - 1936年
次代
川崎甲子男