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山田古麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山田 古麻呂(やまだ の こまろ)は、奈良時代官人のち官位従五位下主税助

経歴

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淳仁朝天平宝字3年(759年播磨大掾正六位上の時に天皇の詔に応えて、以下のような意見封事を行っている。

正丁の百姓(人民)が5人以上の男子を生んだとして、その男子の年齡が20歳以上になれば、調を納め父子ともに課役を従わなくてはなりません。このような場合、いくらか優矜(優遇)があるべきです。庶民が正丁5人以上を生む場合には、その課役を免じることをお願いしたい。

この奏上は、担当の所司に付託して施行された[1]。なお、この奏上は『政事要略』にもにも「国史云」として引用されているほか[2]、制度そのものは『延喜式』に継承されている[3]

同年12月に一族の山田白金ら74人がから改姓していることから、古麻呂も同時に改姓したものと想定される。天平宝字5年(761年従五位下に昇叙され、翌天平宝字6年(762年主税助に任ぜられた。その後の記録はなく、藤原仲麻呂の乱における去就は不明。

官歴

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続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『続日本紀』天平宝字3年6月22日条
  2. ^ 『政事要略』巻59,交替雑事
  3. ^ 「凡(およ)そ人五男を生み、皆正丁と成らば、父の課役を免じ、一人闕(か)けると雖(いえど)も、猶(なお)免除に従ふ」『延喜式』巻22「民部省式上」41条

参考文献

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