守谷吾平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

守谷 吾平(もりや ごへい[注釈 1]1866年12月12日慶応2年11月6日〉 - 1929年昭和4年〉4月8日)は、明治から昭和初期にかけての日本実業家[2][3]

専門商社守谷商会の創業者[2]

生涯[編集]

備中国浅口郡本庄村(現在の岡山県浅口市)に、守谷金八の長男として生まれた[3]

幼少期から林李渓に学んだ[3]1885年岡山県師範学校中等科を卒業し[4]、県下の小学校(1886年からは尋常小学校)に勤務した[注釈 2]

その後上京して慶応義塾本科で学ぶ[3]。慶應義塾への入学は、『慶応義塾入社帳 第4巻 入社帳24号-29号』(慶應義塾、1986年)によると1891年10月だった(同書p.174)。1892年に慶應義塾を卒業する[3]。卒業後は三井組に入り、地所部から、芝浦製作所の工場事務、三井銀行の本店や支店に勤務した[3][7]。その後王子製紙で経理課長を4年間務めた[3]

1902年[注釈 3]、守谷商会を設立する[3]。鉱山機械や銅・ゴムの製造販売を手がけた[3][7]。守谷商会は1918年に株式会社化して社長となる[3]。社外では棚倉電線の取締役や東洋ゴムの監査役など、複数の企業で役員を務めた[3][7]

1929年4月8日没[2][3]。墓所は多磨霊園[要出典]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 読み仮名は本記事の出典として使用した各種人名事典・人事興信録による。守谷商会のウェブサイトでは姓の読みを「もりたに」としている[1]
  2. ^ 守谷が勤務した学校について『20世紀日本人名事典』は「玉島尋常小学校訓導を3年間」と記す[3]。これに対して、小田郡教育会(編)『増訂 小田郡誌 下巻』(小田郡教育会、1941年)には1885年12月から1887年6月まで「用之江小学校」(現・笠岡市立城見小学校[5]) に勤務したと記され(pp.251 - 252)、さらに笠岡市立笠岡小学校の『百年誌』(笠岡小学校創立100周年実行委員会事業部、1973年)には1887年6月から1888年5月まで同校(当時の名称は「笠岡小学」)に勤務したことが記されている(p.90)。『浅口郡誌』(浅口郡、1925年)には、「尋常玉島小学校」の教員として守谷が勤務したことが記載されているが、時期については「不詳」と記されている(同書p.687[6])。
  3. ^ 守谷商会ウェブサイトでは1901年創業とする[1]

出典[編集]

  1. ^ a b 企業情報 - 守谷商会(2023年1月13日閲覧)。
  2. ^ a b c "守谷吾平". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2023年1月12日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m "守谷 吾平". 20世紀日本人名事典. コトバンクより2023年1月12日閲覧
  4. ^ 岡山県師範学校同窓会(編)『岡山県師範学校同窓会員名簿』岡山県師範学校同窓会、1930年、p.5
  5. ^ 学校案内 - 笠岡市立城見小学校(「沿革史」の「明治」の節を参照)2023年1月15日閲覧。
  6. ^ 浅口郡誌 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ a b c 守谷吾平 - 『人事興信録』第4版(1915年、リンク先は名古屋大学大学院法学研究科の「人事興信録データベース」)