喜連川宜氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
喜連川宜氏
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 天保5年1月19日1834年2月27日
死没 文久2年5月3日1862年5月31日
改名 細川孝常(初名)→喜連川宜氏
別名 左近(通称)、左兵衛督
戒名 広源院
墓所 栃木県さくら市喜連川の龍光寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂
下野喜連川藩
氏族 肥後細川氏喜連川家
父母 父:細川定良、養父:喜連川煕氏
兄弟 宜氏細川孝典岡川寛美
正室:英子喜連川煕氏の娘)
養子:縄氏
テンプレートを表示

喜連川 宜氏(きつれがわ のりうじ)は、江戸時代後期の大名下野喜連川藩の第10代藩主。

細川定良肥後宇土藩細川興文の四男である孝応の次男)の長男で、初名は細川 孝常(たかつね)。

生涯[編集]

安政5年12月24日(1859年)、喜連川藩第9代藩主・喜連川煕氏の婿養子となる。もともと煕氏には同じ細川家から迎えた養嗣子の紀氏細川斉護の六男)がいた。しかし安政5年(1858年)4月、煕氏は紀氏との養子縁組を解消した。一説には紀氏が喜連川家を継ぐのを嫌がり、藩から脱走したためとされる。そこで煕氏は、あらためて同年12月に同じく宇土細川家から孝常(宜氏)を養嗣子に迎えたのである。

万延元年(1860年)12月1日、将軍徳川家茂御目見する。文久元年(1861年)12月、家督を相続する。文久2年(1862年)5月3日死去、享年29。

系譜[編集]

父母

正室

養子

宜氏の実父について[編集]

『下野喜連川足利家譜』『大武鑑』によれば、宜氏は細川雅楽助孝応男、一方『平成新修旧華族家系大成』では宜氏は細川定良(孝応の次男)男とあって、史料によって記述が異なる。『肥後宇土細川家譜』では孝応の子女として通固通称は外栄)と定良(通称は右賢)とあり、定良の子女に孝常(通称は左近、喜連川左馬守煕氏養子)、孝典(後政典、通称は茂手木、小笠原修理長光養子)、寛美(姓は岡川、通称は速水、養子先は不明)の3人が記述され、宜氏は定良の長男となっている。ちなみに祖父にあたる孝応は「江戸大名墓総覧」の775頁によれば、宜氏の生まれる以前の文政10年(1827年)1月25日(『系図纂要』は文政7年1月25日に作る)に死去している。

参考文献[編集]

  • 東京大学史料編纂所「下野喜連川足利家譜」【「栃木県史」史料編 近世4(1974同県)に当主略譜のみ抄録】
  • 東京大学史料編纂所「肥後宇土細川家譜」【未翻刻】
  • 秋元茂陽「江戸大名墓総覧」(1988著者刊)