善淵愛成

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善淵愛成
時代 平安時代前期
生誕 不明
死没 不明
官位 従五位上大学博士
主君 清和天皇陽成天皇光孝天皇
氏族 六人部(無姓)→善淵朝臣
兄弟 永貞愛成
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善淵 愛成(よしぶち の ちかなり)は、平安時代前期の貴族儒学者氏姓は六人部(無姓)のち善淵朝臣官位従五位上大学博士

経歴[編集]

清和朝前半に讃岐少目少外記を歴任し、貞観10年(868年従五位下・大外記に叙任される。この間、貞観4年(862年)兄の永貞と一族の行直と共に六人部から善淵朝臣に改姓。また、貞観9年(867年)には永貞と共に本拠地を美濃国厚見郡から左京に改めている。

のち、従五位下・山城権介に叙任される。貞観17年(875年)清和天皇が『群書治要』の講読を行った際、都講(尚復)を務める。貞観19年(877年)夜間に日食が発生したため、廃務(忌日に朝廷が政務を停止すること)を行うことの是非について、明経博士文章博士明法博士に議論が命じられた際、愛成は助教・善淵永貞らと共に、『経書』においては日食月食は昼夜関係なく国家の大忌であるとして、廃務すべき旨を言上している[1]

元慶2年(878年)に始まった日本紀講筵では博士として講義を行った。元慶8年(884年)従五位上に叙せられ、仁和2年(886年)には大学博士に任ぜられている。またこの間、元慶3年(879年)に完成した『日本文徳天皇実録』の編修にも参画した。

仁和4年(888年)4月28日、阿衡についての勘文を上り、10月9日に周易を進講、寛平2年3月には、天皇が蔵人を遣して、病を慰問している。

官歴[編集]

日本三代実録』による。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本三代実録』貞観19年4月1日条
  2. ^ a b c 『外記補任』

参考文献[編集]