吉田生風庵

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吉田生風庵 露地

吉田生風庵(よしだしょうふうあん)は、愛知県名古屋市にある表千家流宗匠家の茶室の庵号。昭和の表千家の茶道研究者であった5代吉田堯文まで、吉田家では4人が表千家宗匠を務めた。昭和45年の堯文亡き後は50年以上、吉田家からの表千家宗匠は不在である。

来歴[編集]

江戸時代末期、吉田家初代・吉田紹和が茶の湯を好み、15歳の時に茶道修業のため上洛、表千家流堀内家の堀内不識斎に師事した。その後、不識斎の紹介で表千家10代家元吸江斎のもとへ入門し、表千家の宗匠となった。名古屋へ帰郷した後は、尾張藩家老石河氏専修寺大門主に茶の湯をもって仕えた[要出典]。吉田家の茶室庵号を「生風庵」と称し、当主は代々表千家家元千宗左のもとで内弟子「玄関」として修業してきた。

吉田家は、表千家一門の名古屋の菓子舗でもあり、名古屋の主だった茶菓子店に助言して茶菓子を作らせ、初釜や茶会、大徳寺豊川稲荷の献茶の際の茶菓子を供したことがある。

第4代吉田紹清は、名古屋市昭和区菊園町にあった茶室生風庵を、米国カリフォルニア州ロサンゼルスハリウッドワルツパークの日本庭園に寄付した。

第5代吉田紹村は愛知県名古屋市中区瓦町(新栄)に居を移した。吉田堯文は茶の湯文化の研究者として学問的な茶道の研究に先鞭をつけ、表千家で初めて一般向けの点前教本を著した宗匠であり、昭和の表千家の文筆者である。

堯文の時代から、吉田家は毎年1月6日に初釜、5月と11月に八勝館で生風大会を催している。また、7月には名古屋国際ホテルで納涼茶会も行っていた。

堯文の息子である6代吉田舜二は、宗匠になる前に40代で死去した。そのため、5代吉田堯文が昭和45年に亡き後は50年以上も、吉田家からの表千家宗匠は不在である。

歴代[編集]

  • 初代 吉田掃雪、方園斎紹和
  • 2代 吉田雪庭、耕々斎紹敬
  • 3代 吉田香穂(宗匠ではない)
  • 4代 吉田紹清、不知斎紹清
  • 5代 吉田堯文、暁々斎紹村(妻は伊予子)
  • 6代 吉田舜二(宗匠になる前に死去、妻はのり子)
  • 7代 吉田周一郎(表千家 玄関)

吉田堯文(5代吉田紹村)[編集]

5代吉田紹村(ジョウソン)は、本名:吉田堯文(よしだ たかふみ、明治41年(1908年)9月20日 - 昭和45年(1970年)9月17日)、通称:ヨシダギョウブン。妻の吉田伊予子は、出雲大社・千家から嫁ぐ。

愛知県名古屋市生まれ。4代吉田紹清の長男。旧制愛知一中第八高等学校を経て、昭和6年京都帝国大学文学部国文科卒業。在学中から表千家12代惺斎千宗左に学び、のち13代即中斎千宗左に弟子入りして、茶道の探究に努めた。恩賜京都博物館(現京都国立博物館)鑑査員を経て、昭和41年(1966年)父の死に伴い、5代目を継ぎ、昭和44年紹村と号した。戦前は雑誌『わび』の編集に従事、昭和26年から個人誌『生風』を刊行。また、『茶道全集』(全15巻)の編集や、七事式の点前をまとめた『七事式』など著書も多く、茶道の学問的研究に尽くした。昭和45年(1970年)9月17日、死去。享年61。吉田堯文の高弟・牧宗千が代稽古を務めていたが、堯文亡き後も、吉田家の初釜、八勝館や名古屋国際ホテルの茶会では、牧宗千が堯文の妻・吉田伊予子を支えて水屋を仕切った。

著書[編集]

  • 『表千家流点前(正篇)』(茶道文庫1) 河原書店、2000年改訂 ISBN 978-4761100018
  • 『表千家流点前(続篇)』(茶道文庫21)河原書店、1985年改訂 ISBN 978-4761100216
  • 『千家七事式』(茶道文庫14) 河原書店、1988年改訂 ISBN 978-4761100148

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度9分54.1秒 東経136度55分0.8秒 / 北緯35.165028度 東経136.916889度 / 35.165028; 136.916889