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吉弘政宣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉弘政宣
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 寛文2年5月28日1662年7月13日
改名 松市(幼名)、政宣、鎮起
別名 傳次、加兵衛(通称)
戒名 松巌院龍譽樹白大居士
主君 立花宗茂
筑後柳河藩
氏族 吉弘氏
父母 吉弘統幸志賀親守
兄弟 政宣正久(統吉、加左衛門)、正勝(筑紫大膳)[1]、清太夫、
米多比鎮信室、栗山利安継室、石川傳右衛門室
吉弘幸宣十時惟次室、堀実(堀六右衛門慶雲)室
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吉弘 政宣(よしひろ まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大友氏一族である吉弘氏嫡流の当主。筑後国柳河藩士。は政宣[2]、鎮起[3]

略歴

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吉弘家分家の系図で父を吉弘統幸、母を志賀道輝の娘の長子とされている人物である。「慶長五年侍帳」(1600年)に「同(千石) 吉弘加兵衛」とある。同年10月20日、対鍋島軍の江上八院の戦いで戦功を立てた[4]

「寛永十五年寅五月九日 有馬御陣二而御公儀~之御扶持方銀割符帳」(1638年)が作成された頃の吉弘氏当主でもあり、本人も島原の乱鎮圧に出征している。


武家名誉

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徳川家康による江戸時代に至って、朱槍が許されていた武家は、長坂信政[5]の長坂氏と伊賀倉氏、そして吉弘統幸の吉弘氏3家に限られている[6]


脚注

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  1. ^ 筑紫上野介広門の養子。
  2. ^ 柳河藩享保八年藩士系図・上
  3. ^ 「寛永十五年寅五月九日 有馬御陣二而御公儀~之御扶持方銀割符帳」
  4. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)128 吉弘(重代)家文書 九 立花尚政(宗茂)感状写 今度於江上表一戦之刻、其方手之者或被疵或戦死之衆、着到銘々令披見感入候、必取静至伝次一稜可賀之候、恐々謹言 十二月二日 吉弘伝次(政宣)殿 P.410。
  5. ^ 長坂血槍九郎
  6. ^ 『舊柳川藩志』第十八章 人物 第十二節 柳川人物小伝(二)吉弘統幸 825頁。

参考文献

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  • 『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・上』 柳川市史編集委員会編・ 福岡県柳川市 1996年平成8年)発行
  • 柳川市史編集委員会「柳川歴史資料集成第三集 柳河藩立花家分限帳」(福岡県柳川市、平成10年3月)