吉弘政宣
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 寛文2年5月28日(1662年7月13日) |
改名 | 松市(幼名)、政宣、鎮起 |
別名 | 傳次、加兵衛(通称) |
戒名 | 松巌院龍譽樹白大居士 |
主君 | 立花宗茂 |
藩 | 筑後柳河藩士 |
氏族 | 吉弘氏 |
父母 | 吉弘統幸、志賀親守娘 |
兄弟 |
政宣、正久(統吉、加左衛門)、正勝(筑紫大膳)[1]、清太夫、 米多比鎮信室、栗山利安継室、石川傳右衛門室 |
子 | 吉弘幸宣、十時惟次室、堀実(堀六右衛門慶雲)室 |
吉弘 政宣(よしひろ まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。大友氏一族である吉弘氏嫡流の当主。筑後国柳河藩士。諱は政宣[2]、鎮起[3]。
略歴
[編集]吉弘家分家の系図で父を吉弘統幸、母を志賀道輝の娘の長子とされている人物である。「慶長五年侍帳」(1600年)に「同(千石) 吉弘加兵衛」とある。同年10月20日、対鍋島軍の江上八院の戦いで戦功を立てた[4]。
「寛永十五年寅五月九日 有馬御陣二而御公儀~之御扶持方銀割符帳」(1638年)が作成された頃の吉弘氏当主でもあり、本人も島原の乱鎮圧に出征している。
武家名誉
[編集]徳川家康による江戸時代に至って、朱槍が許されていた武家は、長坂信政[5]の長坂氏と伊賀倉氏、そして吉弘統幸の吉弘氏3家に限られている[6]。