全国大学生代表者協議会
略称 | 全大協 |
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設立 | 1987年 |
種類 | 学生運動団体 |
目的 | 自主的民主政府樹立 |
本部 | 韓国 |
公用語 | 朝鮮語 |
全国大学生代表者協議会 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 전국대학생대표자협의회 |
漢字: | 全國大學生代表者協議會 |
発音: | チョングク テハクセンテッピョシャ ヒョンウィフェ |
日本語読み: | ぜんこくだいがくせいだいひょうしゃきょうぎかい |
全国大学生代表者協議会(略称、全大協)は、韓国の学生運動の団体で、親北団体[1]。
概要
[編集]1987年7月5日、延世(ヨンセ)大学にて6月民衆抗争(大統領直接選挙制実現などを求めた民主化運動の名称)に参加した際、戦闘警察による催涙弾の直撃を受け、意識不明の後に死亡した延世大学学生の李韓烈(イ・ハンニョル)の葬儀方法について論議するために集まった学生代表が、全国的な大衆組織結成の必要性に合意し、3回に渡る協議の末、1987年8月19日に発足した。
全大協は発足宣言文で「青年学徒の全国的大同団結は、軍事独裁政権と帝国主義者を韓国から一掃するだろうし、それによって歴史の巨大な変化がもたらされよう」と宣言し、活動方針案として
- 自主的民主政府樹立のために外勢を排撃し独裁を収束させること
- 祖国の自主的平和的統一の促進に寄与すること
- 民衆が主人となる世界を作るため、彼らとの強力な連帯を強めること
- 学園の自治と自由を取り戻すこと
- 「全国学生総連合」設立の基礎を作ること
などを明らかにした。その後、全大協は宣言文に書いてあるように、反独裁・反米闘争や平和統一の論議、学園民主化、労働問題を始めとする社会民主化運動に積極に参加した。また、1988年に南北学生会談を2度にわたって実行しようとしていた。1989年に全国大学生代表者協議会3代目議長の任鍾晳になった頃から組織は急速に親北の主体思想派の路線に傾いていった[2]。全大協は1993年4月に発展的解消として、韓国大学総学生連合(韓総連)に名称変更した。2004年4月に行なわれた総選挙で盧武鉉大統領与党の開かれたウリ党(ウリ党)が過半数を獲得し、勝利したが、全大協の第一期(李仁栄、高麗大学総学生会長)、第二期(呉泳食、高麗大学総学生会長)、第三期(任鍾晳、漢陽大学総学生会長)までの議長経験者もそろってウリ党で当選[3]した。しかし、2008年2月に李明博(ハンナラ党)が大統領に就任した直後の、4月に行われた総選挙では、3人ともウリ党の後身である統合民主党から出馬したが、いずれも落選した[4]。
脚注
[編集]- ^ INC, SANKEI DIGITAL (2017年8月21日). “【大統領からみる韓国(8)】ICBM発射後も笑み…親北朝鮮の元学生運動家が、要職に続々”. 産経WEST. 2020年7月4日閲覧。
- ^ “[http://www.koreaii.com/nknews/nk20170605.html 文政権の太陽政策バージョンアップ人事 コリア国際研究所所長 朴斗鎮]”. 2020年7月4日閲覧。
- ^ 民族時報 第1033号(04.4.21)短信韓国情報の宝庫 韓統連 民族時報メニュー[1]
- ^ 太陽政策を否定した韓国の民意;2008年4月15日付。コリア国際研究所所長 朴斗鎮
出典
[編集]- 韓国史編纂委員会 金容権編著『朝鮮韓国近現代史事典』日本評論社
関連項目
[編集]- 民衆歌謡
- 386世代-2000年当時、30歳代で、80年代に学生生活を送った、60年代生まれの世代を指す。この世代は80年代の民主化運動へ積極的に係わった世代でもある。
- 林秀卿-韓国外国語大学校の学生で、1988年に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の平壌で開催された第13回世界青年学生祭典に全大協代表で参加した。
- 新全国大学生代表者協議会-「全大協」の名を風刺し使用する保守系の若者たちによる団体。全国の大学に文在寅政権を批判する壁新聞を貼りつけている。