井上廉
井上 廉(いのうえ きよし[1] / れん[2]、1846年5月15日(弘化3年4月20日[1])- 1914年(大正3年)2月18日[1][注釈 1])は、幕末の幕臣、明治期の官僚。元老院議官。諱・直義、通称・廉八(れんぱち)、維新後に廉と改名[1]。
経歴
[編集]幕臣で砲術家の井上範之丞、さち夫妻の長男として生まれる[1]。嘉永元年(1948年)に父が、嘉永5年(1852年)に勘定方普請役の祖父・井上貫流左衛門が死去し家督を相続[1]。安政3年5月(1856年6月)数え11歳で勘定奉行所筆算吟味に合格[1]。在方担当の普請役を務め[1]、和宮下向の供奉公家衆賄い、英国公使館建設などを担当した[1]。
明治維新後、新政府に出仕し、慶応4年6月4日(1868年7月23日)会計官御普請役に就任[3]。以後、同筆生、同書記を歴任[3]。明治2年8月29日(1869年10月4日)大蔵省出納少佑となり、以後、行啓御用掛、出納権大佑、出納司十二等出仕、正算中令史、正算権大令史、正算大令史、大蔵省検査大属、検査寮七等出仕、同六等出仕などを務めた[3]。
1874年(明治7年)2月12日、左院に転じ六等出仕となり、四等議官、権少内史、権少史などを歴任[3]。1877年(明治10年)1月18日、太政官少書記官に発令され、以後、調査局専務、太政官権大書記官、会計部第六部勤務、兼二等検査官、会計検査院長心得代理、太政官第一局勤務、内閣大書記官、太政官会計主務、第一局兼務、兼会計局長、内閣書記官、内閣会計局長などを歴任[3]。
1890年(明治23年)6月10日、元老院議官に就任[3]。同年7月1日、内閣恩給局長と同会計局長を兼任[3]。同年10月20日、元老院が廃止され非職となり[3]、1893年(明治26年)10月19日、非職満期となり退官した[1]。
栄典
[編集]親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『幕末維新大人名事典』上巻、167頁では「10月18日」。