三浦弘次
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政10年8月22日(1827年10月12日)[1] |
死没 | 明治19年(1886年)2月14日[1] |
別名 | 麟之助[1] |
墓所 | 岡山県真庭市勝山の安養寺 |
官位 | 従五位下備後守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜 |
藩 | 美作勝山藩主 |
氏族 | 三浦氏 |
父母 | 三浦誠次、三浦朗次 |
兄弟 | 峻次、義次、弘次[1]ら |
妻 | 戸村荘嶽娘[1] |
子 | 顕次 |
三浦 弘次(みうら ひろつぐ[1])は、江戸時代幕末期の大名。美作国勝山藩9代藩主。美作勝山藩三浦家14代。
生涯
[編集]文政10年(1827年)、第5代藩主・三浦誠次の四男[1]として生まれる。
安政7年(1860年)、先代藩主の朗次(実兄義次の養子)が死去したため、養嗣子として跡を継いだ。佐幕派として幕末期を行動し、元治元年(1864年)の第一次長州征伐では病気を理由に長男の顕次を幕府方として出陣させ、慶応2年(1866年)の第二次長州征伐でも幕府方として出陣した。慶応4年(1868年)5月6日、顕次に家督を譲って隠居し、明治19年(1886年)2月14日に死去した。享年60。
系譜
[編集]美作勝山藩主三浦家を実系で示せば以下のとおり。
三浦明敬 | |||||||||||||||||||
明喬 | 義理 | ||||||||||||||||||
明次1 | 矩次2 | ||||||||||||||||||
前次3 | 毗次4 | ||||||||||||||||||
誠次5 | |||||||||||||||||||
峻次6 | 義次7 | 弘次9 | |||||||||||||||||
朗次8 | 顕次10 | ||||||||||||||||||
- 実線は実子、点線は養子を示す。
- すべての人物を掲載してはおらず、また兄弟・姉妹の順に配列してはいない。
- 数字は美作勝山藩主の代数を示す。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)