ヴィットーリア・テージ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アントニオ・マリア・ザネッティによるカリカチュア(1740年)

ヴィットーリア・テージ(Vittoria Tesi、1701年[注 1]2月13日 - 1775年5月9日)は、イタリアアルト歌手。

ムラート女性として最初に舞台に上がったオペラ歌手だった[2]

フィレンツェ出身であるためにフィオレンティーナ(la Fiorentina)、またアフリカの黒人の血を引くためにモレッタ(la Moretta)のニックネームで呼ばれた。

生涯[編集]

テージの父はアフリカ系で、トスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチのお気に入りのカストラートであるフランチェスコ・デ・カストリスに仕えていた[2]。テージははじめフィレンツェでフランチェスコ・レーディに、1715年に一家とともにボローニャに移ってからはフランチェスコ・カンペッジ、ついでアントニオ・ベルナッキに歌を学んだ[2][1]。最初はパルマ公アントニオ・ファルネーゼに庇護され、1731年のパルマ公の没後は短期間トスカーナ大公ジャン・ガストーネ・デ・メディチ、ついでモデナフランチェスコ3世・デステに仕えた後、最終的にマリア・テレジアとその夫のフランツ(後に皇帝フランツ1世)に仕えた[2]

テージは1716年にパルマでデビューし[1]、ボローニャ、ドレスデンマントヴァヴェネツィア、フィレンツェ、トレヴィーゾヴェネツィアジェノヴァミラノナポリファーノフェラーラトリノピアチェンツァルッカマドリードなどの各地で歌っている。1737年にナポリのサン・カルロ劇場が落成したとき、こけら落としに上演されたドメニコ・サッロ『シーロのアキレス』でタイトルロールのアキレウス役を歌っている[2][3]。1748年にはウィーンで歌い、翌1749年からはウィーンに定住した[2]

1754年まで歌った記録がある[2]。歌手を引退した後は舞台衣装の監督および教育者として働いた[2]。1775年に肺炎によってウィーンで没した[2]

テージは男性役と女性役の両方をこなした。カストラートのファリネッリとは親しい友人だった[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1700年とされることもあるが[1]、これは3月25日を年初とする数え方による[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c Gerhard Croll, “Tesi (Tramontini), Vittoria [‘La Moretta’, ‘La Fiorentina’]”, Grove Music Online, doi:10.1093/gmo/9781561592630.article.27735 
  2. ^ a b c d e f g h i j k Francesco Lora (2019), “TESI, Vittoria, detta la Fiorentina o la Moretta”, Dizionario Biografico degli Italiani, 95, https://www.treccani.it/enciclopedia/tesi-vittoria-detta-la-fiorentina-o-la-moretta_(Dizionario-Biografico) 
  3. ^ Achille in Sciro, Corago, http://corago.unibo.it/evento/0000359388