ヤラ (スループ)
艦歴 | |
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発注 | コカトー島造船所 |
起工 | 1934年5月 |
進水 | 1935年3月28日 |
就役 | 1936年1月。 |
除籍 | |
その後 | 1942年3月4日に大日本帝国海軍により撃沈。 |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:1,055トン 満載:1,480トン |
全長 | 81.2m |
全幅 | 11.0m |
吃水 | 3.07 |
機関 | アドミラリティー式重油専焼水管三胴缶2基 +パーソンズ式ギヤードタービン2基2軸推進 |
最大出力 | 2,000hp |
最大速力 | 16.5ノット |
航続距離 | 15ノット/5,500海里 |
重油 | 347トン |
乗員 | 海軍士官:29名 水兵:375名 パイロット:38名 |
兵装 | アームストロング 10.2cm(45口径)単装高角砲4基 オチキス 4.7cm(43口径)単装機砲4基 ヴィッカース 4cm(39口径)単装ポンポン砲4基 爆雷15発 |
ヤラ(HMAS Yarra)はオーストラリア海軍のスループ。グリムスビー級。
艦歴
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
1934年5月28日起工[1]。1935年3月28日進水[1]。1936年1月21日就役[1]。
1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、「ヤラ」は同年12月16日にアレクサンドリアを出て極東へ向かい、コロンボを経由して、1942年1月11日にジャカルタのタンジュン・プリオク港へ進出した[2]。同地で東インド戦隊に配属された「ヤラ」は、船団護衛任務に従事した。1942年2月初めには、シンガポールへ最後の増援部隊を運ぶBM.12船団(輸送船5隻・護衛は軽巡洋艦「ダナエー」以下3隻)を護衛し、目的地到着直前の2月5日に日本軍機の空襲を受けるが損害は極めて軽微で、1機撃墜確実・2機不確実の戦果を報じた[2]。さらに、この空襲で撃沈された客船「エンプレス・オブ・エイジア」の乗船将兵ら1804人を救助した[2]。
沈没
[編集]1942年2月27日、スループ「ジュムナ」とともに宿泊船「アンキン (HMS Anking)」、タンカー「ウォー・サーダー (War Sirdar)」、「ブリティッシュ・ジャッジ (British Judge)」、「フランコル (Francol)」、掃海艇「Gemas」、「MMS.51」からなる船団を護衛してジャワ島タンジョン・プリオクから出発[3]。途中で「ウォー・サーダー」は座礁し、「ブリティッシュ・ジャッジ」は被雷して脱落したが、3月2日にチラチャップ沖に着いた[1]。だが、そこでチラチャップには入港せず「ジュムナ」はコロンボへ、「ヤラ」は船団とともにフリーマントルへ行くよう命じられた[1]。3月3日、オランダ船「Parigi」の生存者を救助[1]。また同日夜、潜水艦探知の報告により爆雷2発を投下した[4]。
3月4日、「ヤラ」、「アンキン」、「フランコル」、「MMS.51」は日本の重巡洋艦「愛宕」、「高雄」、「摩耶」、駆逐艦「嵐」、「野分」に捕捉攻撃された[4]。「ヤラ」艦長は船団に分散を命じ、敵との間に入って煙幕を張った[1]。だが、「アンキン」、「MMS.51」、「フランコル」と撃沈され、最後に「ヤラ」も沈んだ[5]。「ヤラ」乗員は3月9日にオランダ潜水艦「K11」によって13名が救助されたが、艦長以下138名が死亡した[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h HMAS Yarra (II)
- ^ a b c Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy - Volume Vol1, pp.527-529
- ^ Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy - Volume Vol1, p.617
- ^ a b Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy - Volume Vol1, p.629
- ^ Australia in the War of 1939–1945. Series 2 – Navy - Volume Vol1, p.630