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マフムード・シャー1世 (マールワー・スルターン朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マフムード・シャー1世
マールワー・スルターン朝君主
マフムード・シャーの墓廟
在位 1436年 - 1469年

全名 マフムード・ハーン・ハルジー
死去 1469年
子女 ナーシルッディーン・シャー
王朝 マールワー・スルターン朝(ハルジー朝)
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マフムード・シャー1世(Mahmud Shah, 生年不詳 - 1469年)は、インドマールワー・スルターン朝の君主(在位:1436年 - 1469年)。即位前はマフムード・ハーン・ハルジー(Mahmud Khan Khalji)といった。彼は王朝の中で最も強力な君主であり、争いに生きた君主でもあった[1]

生涯

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1436年、宰相であったマフムード・ハーン・ハルジーは君主ムハンマド・シャーを毒殺し、王座を奪った[2]。ここにゴール朝に代わるハルジー朝が成立した[2]

マフムード・シャーはその治世、グジャラート・スルターン朝デカン地方バフマニー朝オリッサガジャパティ朝、ゴンドワナといったヒンドゥー諸王朝と争った[3]。また、彼はデリー・スルターン朝サイイド朝)の内政にも関与し、数名の貴族とも連絡を取り合い、彼らはデリーを制圧するように要請した[4]

マフムード・シャーは南部ラージプーターナーを制圧することに力を入れ、メーワール王国と激しく争った[3]。メーワール王クンバーはマフムード・シャーと敵対する人物を保護し、マールワーの君主にこの人物をつけようとした。これに対して、マフムード・シャーはクンバーの兄モーカルに保護を与え、しきりに内部の反乱を起こそうとした[3]。 あるとき、マフムード・シャーの軍勢はアジュメールにまで進撃し、そこに地方長官を任命したが、これは追い返された[5]

また、マフムード・シャーはフーシャング・シャーからの宗教的融和策を捨て、メーワール王クンバーやヒンドゥー諸国との戦いの間、ヒンドゥー寺院を多く破壊した[3]。ただし、これらの行動の多くは戦争中に行われたことであって、ヒンドゥー教の全面的な破壊政策の一部ととることはできない[3]

1469年、マフムード・シャーは死亡し、息子のナーシルッディーン・シャーが王位を継承した。

脚注

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  1. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、pp.175-176
  2. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.160
  3. ^ a b c d e チャンドラ『中世インドの歴史』、p.176
  4. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151
  5. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.177

参考文献

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関連項目

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先代
ムハンマド・シャー
マールワー・スルターン朝
1436年 - 1469年
次代
ナーシルッディーン・シャー