フィリップ・ボイト
フィリップ・ボイト | |
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フィリップ・ボイト(2011年) | |
名前 | |
本名 | フィリップ・キメリー・ボイト[1] |
ラテン文字 | Philip Kimely Boit[1] |
基本情報 | |
国籍 | ケニア |
種目 | クロスカントリースキー |
生年月日 | 1971年12月12日(52歳)[1] |
生誕地 | リフトバレー州エルドレット[2] |
身長 | 180cm[1] |
体重 | 70㎏[1] |
ワールドカップ戦歴 | |
デビュー年 | 1996年 |
引退年 | 2011年 |
フィリップ・ボイト(Philip Kimely Boit、1971年12月12日 - )は、ケニアのクロスカントリースキー選手である。アフリカ大陸出身者として初めて冬季オリンピック(クロスカントリースキー)に出場したことで知られ、1998年長野オリンピックから2006年トリノオリンピックまで3大会連続で出場を果たしている[1][2][3]。1972年ミュンヘンオリンピックで陸上男子800メートル走の銅メダルを獲得したマイク・ボイトは彼の従兄にあたる[注釈 1][1]。
経歴
[編集]長野オリンピックを目指して
[編集]フィリップ・ボイトは大地溝帯近くのリフトバレー州エルドレットの農家の生まれで、もともとは陸上中距離走の選手であった[2]。生地には雪が降らず、スキーの経験もなかった[2][3]。
ボイトはスポーツウエアブランドナイキからのオファーに応じて、ヘンリー・ビトックという中距離走選手とともに1998年長野オリンピックへの出場を目指すことになった[2][6]。当初はケニア国内でローラースキーのトレーニングを重ね、さらに1996年2月、フィンランドに移動してトレーニングを行った[2]。
熱帯生まれのボイトにとって、フィンランドでの日々は驚きの連続であった[2]。初めて見た雪だけではなく、スキー板を履いたことさえない彼は雪上でのトレーニングにも驚いたという[2]。
ケニアは1998年長野オリンピックの出場枠を1つ獲得し、国内の代表選考を経てボイトがクロスカントリースキー競技で代表となった[2]。彼は唯一のケニア代表選手として、長野オリンピック開会式では旗手も務めている[2]。
1998年長野オリンピックのクロスカントリースキー競技では、10kmクラシカル(1998年2月12日)のみに出場した[7]。エントリー98人のうち完走は92人で、ボイトは最下位(47分25秒5)で優勝者のビョルン・ダーリ(ノルウェー)の記録(27分24秒5)から約20分遅れで完走した[2][3][7]。ダーリはボイトをフィニッシュラインで待ち受け、ゴールした彼を抱きかかえて「素晴らしい、君こそ真の勇者だ」と称賛した[2][8]。ダーリは「彼を励ましてあげたかった。あの厳しい状況でも、彼は決して諦めなかった」と、当時を回想した[2]。ボイトはダーリについて「僕のコーチがよく(ダーリのことを)話題にしていましたし、僕も彼のことをよくテレビで見ていました。でも、優勝した彼が、僕のことを待っていたなんて、信じられなかったです」と述べていた[2]。
日本の観衆も、ボイトの健闘を讃えた[2]。ボイトも「あの場にいた日本の人たちが、『ケニア、ゴー! 』とか『フィリップ、がんばって! 』って叫んでくれていた。最後にゴールをしたのに、まるでメダルが決まったかのような声援だったよ」と振り返っていた[2]。
長野オリンピックから数週間後、ボイトは男児の父となった[2][3]。その子にボイトは「ダーリ」と命名している[2][3]。
長野オリンピック後
[編集]ボイトは2002年ソルトレークシティオリンピックと2006年トリノオリンピックにも、ケニア代表として出場を果たした[1][2]。ソルトレークシティではスプリント競技(1.5㎞)と20キロメートル複合の2競技に出場し、前者では前半の10キロメートルクラシカルで敗退したものの完走70人(エントリー72人)のうち65位、後者では前半クラシカル(10キロメートル)で完走80人(エントリー83人)のうち77位とスキー技術の向上を見せた[2][9][10]
トリノでは15キロメートルクラシカルのみに出場した[1][11]。このときは完走96人(エントリー99人)のうち53分32秒4の記録で91位となり、最下位の選手(1時間7分15秒9)を10分以上引き離していた[11]。
ボイトは病気のため2010年バンクーバーオリンピック出場を断念した[2]。最後の国際大会となったのは2011年にオスロ(ノルウェー)で行なわれた世界選手権で、彼はダーリの応援を受けながら完走し、クロスカントリー・スキーヤーとしてのキャリアを終えた[2]。
2021年、ボイトの息子ダーリは自分の名の由来となった父の親友ビョルン・ダーリと初めて対面した[2]。2人は一緒にトレーニングをしながら、チャリティー・イベントなどの参加を通じて楽しい時間を過ごしたという[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j “Philip Boit”. Sports Reference LLC. 2024年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x “#世界親切デー : 冬季オリンピックの友情物語”. IOC. 2024年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e “ビョルン・ダーリ クロスカントリースキーの「王者」 【冬季オリンピック・パラリンピック大会】”. 笹川スポーツ財団. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “Mike Boit”. Olympedia. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “Mike Boit”. Sports Reference LLC. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “Just Do It? Just Let Them Be”. ワシントンポスト. 2024年2月5日閲覧。
- ^ a b “Cross Country Skiing at the 1998 Nagano Winter Games: Men's 10 kilometres”. Sports Reference LLC. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “Sport: Winter Olympics 98: Cross Country Skiing Kenyan finishes last, but wins respect”. BBC NEWS. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “Cross Country Skiing at the 2002 Salt Lake City Winter Games: Men's Sprint”. Sports Reference LLC. 2024年2月5日閲覧。
- ^ “Cross Country Skiing at the 2002 Salt Lake City Winter Games: Men's 10/10 kilometres Pursuit 10 kilometres”. Sports Reference LLC. 2024年2月5日閲覧。
- ^ a b “Cross Country Skiing at the 2006 Torino Winter Games: Men's 15 kilometrest”. Sports Reference LLC. 2024年2月5日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- フィリップ・ボイト - Olympedia
- フィリップ・ボイト - 国際スキー連盟のプロフィール
- ケニアのボイトが残した伝説 | Impossible Moments IOC