パルスア

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パルスア(PARSUA)は地図中央から半分ほど南下した、ザムアとエリピの中間(1の直上)に位置している

パルスアParsua、初期の表記はParsuashまたはParsumash)は、古代のイラン西部に存在した部族王国/首長国[1]。紀元前860年から紀元前600年まで、ザグロス山脈の中央部、ザムア英語版(旧称:ルルビ英語版)とエリピ英語版の間に位置し、サナンダジュの南西に位置していた。パルスアとは、古代ペルシア語Parsavaに由来する言葉で、原義は「国境」や「国境地帯(辺境)」だと推定されている[2]

パルスアは、南東に位置するペルシス(現在イランファールス州として知られている)とは異なる。いくつかの報告は、アケメネス朝の祖先であるテイスペスアケメネスの息子)はパルスアからペルシス(もとはエラム人の中心都市アンシャンの所在地)への移住を主導したことを示唆している。

紀元前一千年紀の前半から主にアッシリアの記録に登場している[3]。 この地には多数の小王国が存在し、それぞれに王がいた[3]

アッシリア王シャルマネセル3世(紀元前858年-紀元前824年)の碑文によれば、紀元前843年のディヤーラー川の源流域とザグロス山脈の中の地域への彼の軍事遠征によって、パルスアの国土と都市は破壊された[3]。次に紀元前835年に、同じ地域にもう一度遠征していた際に、27人のパルスアの王達が、自発的にシャルマネセル3世に貢納してきた[3]。紀元前828年には、アッシリアの将軍(タルタン)ダヤン・アッシュール(Dajan-Aššur)がパルスアの地での戦争を指揮していた時に、多数の王達が貢納を申し出た[3]。この王達の都市はいずれも、申し出を却下した将軍によって占領され略奪された[3]。翌年、ダヤン・アッシュールは再度パルスアに遠征して、城塞都市のPusztu、Shalahaman、Kinihamanを含む多数の都市を占領し破壊した[3]。シャルマネセル3世の息子で後継王のシャムシ・アダド5世(紀元前823年-紀元前811年)は、彼の3度目の巡幸でナイリ英語版の地に行った際に、パルスアの使節から貢納を受けた[3]

脚注[編集]

  1. ^ Eduljee (2012年). “Zoroastrian Heritage The Zagros”. The Heritage Site. 2014年4月9日閲覧。
  2. ^ Gershevitch, Ilya; Bayne Fisher, William; A. Boyle, J. (1985). The Cambridge History of Iran. II (reissue, illustrated, reprint ed.). Cambridge University Press. p. 62. ISBN 9780521200912. https://books.google.com/books?id=BBbyr932QdYC&pg=PA61&dq=Parsua#PPA62,M1 2009年1月15日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h hasło Parsua, w: Bryce T., The Routledge..., p. 529.

参考文献 [編集]

  • hasło Parsua, w: Bryce T., The Routledge Handbook of the Peoples and Places of Ancient Western Asia, Routledge 2013, p. 529.