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ノート:クソゲー/記事本文の修正・語源

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記事本文の修正

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語源

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とりあえず「語源」の節について考えます。

出典の明記が必要と考えられる箇所は{{要出典}}を付加しましたので、出典をご存知の方はご協力をお願いします。出典に関する手がかりでもかまいません。 ある程度の期間たっても{{要出典}}がついたまま出典が付加されず、手がかりも全くないような場合はWikipedia:検証可能性に従い本文から除去(またはノートへ移動)することになるので、掲載を希望される箇所がある方は情報提供をお願いします(もちろん除去されたあとでも出典が見つかれば復活できます)。

サブセクション内の全ての記述に{{要出典}}を貼る必要があると考えたところは、代わりに冒頭に{{出典の明記S}}を貼っています。

かなりの量の{{要出典}}を貼りましたが、必ずしも全てに脚注形式で出典を明記する必要があるとは考えおらず、ある程度まとまった記述について単一の情報源で検証できるならば適宜省略してくださってかまいません。

まずクソゲーの由来に関する3つの説(みうらじゅん説、パソコン通信説、自然発生説)と関連エピソードにはそれぞれ出典が必要です。少なくともみうらじゅん説についてはみうらじゅんいっきの両方の記事に記述がありますしなんらかの出典はあると思います。

「『いっき』自体はミリオンセールスを記録している」という記述がありましたが、いっきの記事によると100万本は製造されていないと書かれており、まあそれも正しいかどうかはわからないのですがどちらにせよ出典が無い上にこの記事で書くべきことかどうかも微妙なため除去しました。

「…価値がある作品に対する(好意的な?)評価である可能性も見て取れる」というところはFLASHの記事によって客観的に検証可能な形に修正をお願いします。

「当時ゲームソフトが安くなかったことが関係しているかもしれない」という指摘については、典拠がなければただの推測にすぎないので除去しました(出典があるなら適切な表現に書き換えて復活させてください)。

さらに「ダメゲーム」「良ゲー」「神ゲー」について。ダメゲームについてはだれがいったかは書かれているのでおそらく出典はあるのだろうと思います。地雷・良ゲー・神ゲーについても、そのような俗称が使われていることを記している情報源が欲しいです。これらの用語の使用方法・ニュアンスの説明についてはかなり独自研究色が強いと思うので、しばらく待って出典がでなければいったん除去しようと思います。「~かもしれない」という曖昧な部分はすでに除去しました。

今回はここまでです。よろしくお願いします。--貿易風 2008年4月23日 (水) 15:27 (UTC)

まず除去ありきという姿勢を問題視したいところですが、それは貿易風さんの参加姿勢の別件なので一旦のけておきます。
発生源に関しては、みうらじゅん説は明確な出典が出る可能性はあります(これは孫引き的資料なら無数に見受けられます)が、パソコン通信説や自然発生説に関してはサブカルチャー研究者(いわゆる評論家の類)のコラムなどでもない限り明確な出典がない一方、ゲームファンの価値観に沿った表現という本語の性質を鑑みれば、その類型が無数に存在し、総体として非常に曖昧ながら、そのいずれもが常識的範疇の情報で妥当性を持ちうる問題を含んでいると思います。出典の要求は気長に行う観点で、これ全体に掛る{{出典の明記S}}を付与するのが妥当だと考えます。
『いっき』に関しては、ミリオンセールスはいっきの項に依っており、これはおそらく当時の発表に基づくものでありましょう。
FLASH関連は氏の対談における発言の詳細を検証できる側がいないとどうにも進みません。出典以前に同記事掲載の号を所有している側を捜索したほうがよさそうです。
当時のゲームが(当時の児童らの経済事情からみて相対的に?)高価だったことは、純粋に客観的な事実であり、これは事実を元に所定の考えを示す記事を読む読者への問いかけに近い表現ではないかと思います。
ダメゲームはファミコン開発史的な資料が得られるかもしれません。しかし「良ゲー」ないし「神ゲー」および「地雷ゲーム」はその類型が無数に存在する自然発生的な表現だとみなせ、実際ネット検索すればそれらの語がファン視点で使われている様子も観測でき「誰にでも容易にその妥当性に判断がつく」記述だと思いますので、出典が如何こうと述べるのも違うように思います。
ともあれ上に述べた「初めに記事の除去ありき」という姿勢では、当方としても今後の展開に応じかねますのでご配慮願います。--夜飛/ 2008年4月23日 (水) 22:31 (UTC)
とりあえず、Wikipediaは百科事典なんで読者に問いかけてはいけません。
それから「良ゲー」「神ゲー」「地雷」について。実際にこの言葉が使われていることはインターネット上のコミュニティなどで確認できますが、その事実をもってWikipedia上での出典にすることはできません。そういった言葉が使われているということを指摘している(紹介している)なんらかの情報源(なるべく紙媒体のもの)が必要です。検索すれば生の用例はヒットしますが、10年後や20年後にもこの言葉が使われているとは限りませんし、ある言葉がどのように使われているかということを観測・分析してその言葉の定義や用法を記すことは素人には無理ですので、信頼できる情報源上でどのように説明されているかを参考にする必要があります。また、もしもこれらの言葉がWikipedia外部の情報源で全く取り扱われていないのであれば、そもそも百科事典で取り上げるだけの特筆性があるのかという疑問が生じます。--貿易風 2008年4月24日 (木) 14:42 (UTC)
問い掛けそのものではありませんし、またそういった言葉を紹介しながらも、対義語として定着していないこと(明確な対義語が存在していないこと)を説明しているのであり、定義がどうとかというのではなく存在の有無のみが問われる性質の書き方であるため、それらの語がネットコミュニティ上に散見されることは誰でも簡単に検証可能である以上は「何が何でも出典が必要」というのは違うと考えます。今後使われている可能性という面に関しては、確かに不確実でしょう。ただ、私たちは預言者ではないので、不確定な未来を論じることは避け、過去にそのような表現が使用されていた様子が観測可能だというその一点のみをもって説明を完成させるべきだと考えます。特筆性に関しては、それらの語が小さなコミュニティに依存する(観測にテクニックを要する)など小さな社会現象であれば、わざわざ書く必要もないでしょうが、その類型現象を含めちょっと見回せば一般の人にも検証可能な事柄までもも小さい社会現象と同一視する必要があるとは思えません。
繰り返しとなりますが、クソゲーという概念自体が所詮は消費者観点の俗語から派生したものであり、辞書としてはゆるぎない定義を設けることはできても、百科事典としてはその周辺事象を拾っていった場合に、最終的には個々の消費者が持つ価値観という曖昧模糊とした総体的なものに吸収されてしまう、境界の不確実な(言い換えれば記述する上で非常に注意を要する)事物である以上は、「何が何でも出典がないとダメ」というのも異質だと考えます。まあ…どこで足切りするかは確かに悩ましいところですが。--夜飛/ 2008年4月27日 (日) 00:36 (UTC)

では、用法やニュアンスの部分については記述するなら出典が必要ということでよろしいでしょうか。ちなみに、そういった言葉が使用されているという事実だけを指摘するにしても、外部の情報源でふれられていないものにWikipediaがはじめて言及したとなればそれは独自研究ですので、そうでないということを示すための出典が必要だと思います。--貿易風 2008年4月28日 (月) 13:48 (UTC)

なんでそういう方向にいきなり曲がるのやら…「Wikipediaがはじめて言及した」とすることは混ぜ返しに過ぎないと思いますが、逆にどこで発生した語だということが明確にならない性質のものある以上、それはもはや悪魔の証明であり、説明を無用に混乱させ結局はその調査自体が独自研究になるような結果を生み、こと本項の主テーマである「クソゲー」という事物の説明そのものを不能化させるだけだと思います。まあ、議論の攪乱を試みているのではないという前提を元に話を進めますが、それらは現象として観測可能だという一点のみをもって、それがどこで観測可能であるかまでは言及するが、それの具体的な量的側面には言及しない形で一連の説明を行う形態なのは扱われている事物の性質もあるため、最終的に何所かで落とし所を設ける必要があると考えています。--夜飛/ 2008年4月28日 (月) 15:30 (UTC)
うう。話がよくわからなくなってきました。そもそも「どこで発生した語か」などというような話はまったくしていないのですが…。悪魔の証明については、「Wikipediaがはじめて言及した」ということを立証するのは困難ですが(Wikipedia以前に言及した情報源の不存在を証明しようということになるので)、反証するのはたやすいはずです(情報源をひとつ提示すればそれが反証になります)。基本的になんらかの存在を主張する側(この場合ははじめての言及ではないと考える側)が立証責任を負うというのが悪魔の証明の考え方です。
対義語・類義語の箇所について夜飛さんが理想と考える記述の現物を見てみないことにはなんともいえませんが、いずれにしろ実際にその言葉が使われている生の現場をウィキペディアンが観察してわかったことを記事に書くわけにはいきません。Wikipediaはあくまでその対象を外部の情報源がどのように言及しているかということを参照して記述を進めるプロジェクトです。フィクション作品なんかの記事では作品そのものを参照することもありますが、「ある言葉がどのように使われているか」というような対象のはっきりしない極めて難しい事象に対してウィキペディアンが直接的な観測を行うのは無謀です。--貿易風 2008年4月29日 (火) 10:01 (UTC)
すみませんね、ちょっと上の文章を書いていた最中に漏電状態で「ナンかだだ漏れた」かもしれません。ただ「Wikipediaが初めて言及した語」を否定するためには、まず第一にWikipediaの履歴をたどって、その日付以前に使われていたモノを示せば良いようにも思われますが、それがそもそも「Wikipediaにそれを書いた者が以前から使っていた語かどうか」という新しい疑問点が浮上し、これは懐疑的になれば幾らでも記述に対して否定可能である問題を含んでいます。そしてこの非対称なやり取りで得るものは何もなく、云わばゲームを仕掛けた側の自己満足しか残りません。こと不特定多数が事物に関与している事柄に関しての記事の場合は、その根源的な部分ですべてがカオスの海に沈んでしまうため、それを持って全否定すら可能だという面もあり、それでは何も説明し得ない(いわば記事の存在理由も否定される)と思います。ゆえに落とし所は如何様にいっても必要かと。なお観測云々に関しては、観測するのはウィキペディアンではありません。記事を読んだ読者が観測することを述べております。そして概ね読者一般が観測した場合に読者が妥当性を判ずればよく、Wikipediaとしては曖昧性があることを記事の前提として説明することのみを説明し(これは可読性を損なう上にどのような性質で曖昧であるかが判じ難いテンプレートの付与によるべきではないでしょう)、その曖昧性を不特定多数の各々に内在する価値観であるが故だと説明しておけば良いだけの問題だと考えております。
なお小生としては「理想形態のWikipediaないし記事」とかいうものは、それは読者が読んで事物の正しい理解に役立てばそれが全てであり、記事各々に対しては共同作業という性質もあって、それは小生個人の思惑とは別のところで常に変化しているため、本項における理想形(完成形と言い換えてもいい)はなーんにも考えちゃおりません。なにせ小生の私物ではありませんので。--夜飛/ 2008年4月29日 (火) 12:52 (UTC)
えっと、
「Wikipediaが初めて言及した語」を否定するためには、まず第一にWikipediaの履歴をたどって、その日付以前に使われていたモノを示せば良い…
というところについて。そういう問題ではありません。Wikipedia外でその言葉(神ゲーやら地雷やら)が使われた形跡を示すのではなく、その言葉が使われているという事実や用法に言及した外部の情報源(雑誌や書籍など)を探さなければなりません。「『神ゲー』『地雷』という言葉がこれこれこのように使われている」という指摘をWikipediaが初めて行うことが(独自研究排除の観点から)問題なわけですから、そういった指摘を行っているWikipedia以外の情報源を探せばいいわけです。時系列はたいした問題ではありませんし(昨日出版されたものでもかまいません)、用例を探すのではなくその言葉を紹介・解説している情報源を探す必要があります。
これはゲームでもなんでもなく、それらの用語に関する記述が、独自研究すなわち「これまでの信頼できる媒体上に発表されたことのないもの」でないということを示すために必須なことです。これまでに『神ゲー』『地雷』に言及した資料が見つからなければ、Wikipedia上でもそれに言及できません。--貿易風 2008年4月30日 (水) 14:16 (UTC)
(インデント戻し)いや、論点はそこじゃありません。初出がWikipediaだと主張することがどんなに非論理的だったとしても、それを否定しきることはできない(元より確定的な情報はどこにもないかもしれませんが)という非対称性の問題を示しているのであり、その論拠が信頼できる情報源であろうとなかろうと、それを否定しようと思ったらどうとでも否定できると考えます。しかも「クソゲー」ないし「神ゲー」および「地雷ゲー」などの俗語は、その性質において公的に収集されることは社会現象として大きく取り上げられることは限られ、こと後者2つは現象としても限定的かつ共通認識として成立し得ないという性質から、まず肯定にせよ否定にせよこの議論には確定された答えが出ない問題だと思います。ただ、本稿の扱いは「主題であるクソゲーを説明する上でその対比概念を示して、そこからクソゲーに対して更に説明を続ける」という形態で、それら2語は文章の主体ではないことをもって許容されうる範囲だと考えています。まあ中2段目の記述は同2語に踏み入り過ぎていてどうかとは思いますが。--夜飛/ 2008年5月1日 (木) 13:05 (UTC)
話の流れがよくわからないのですが、なぜ夜飛さんは「Wikipediaが初出かどうか?」ということにこだわっているのでしょうか?どう考えても神ゲーや地雷ゲーという言葉がWikipedia以前に使われていなかったとは考えられないと思いますし、そういう主張をする利用者が実際にこのノートに現れない限り、それは無意味な議論だと思います。
問題となっているのは「Wikipediaが(その言葉の)初出かどうか」ではなく、「外部の情報源でふれられていないもの(神ゲー、地雷といった言葉が使われている事実やその用法)にWikipediaがはじめて言及したのかどうか」という一点ですので(「2008年4月28日 (月) 13:48 (UTC)」の発言を参照)、過去の用例をいくら探しても無関係です。もし神ゲー・地雷ゲーという言葉について解説した外部の情報源が存在しないにもかかわらずそれらの語の説明をWikipediaが行えば、「いままでだれも(どの情報源も)指摘しなかったことをWikipediaがはじめて指摘した」ということになりますので、独自研究に該当してしまいます。それを回避するには、「その指摘を行った人(情報源)はWikipedia外部に存在する」ということを検証可能な情報源を提示して証明(反証)しなければなりません。
検証可能性や独自研究の排除のルールは標準名前空間の記事内容全てに適用されますので、文章の主体でないからといって検証不可能な記述や独自研究は載せられません。むしろ文章の主体でないからこそ無理して載せる内容でないと思います。--貿易風 2008年5月2日 (金) 16:26 (UTC)
いやあ、ちっと漏電気味ではありますが貿易風さんのこの発言を特に貿易風さんが記事からも記述を除去するなど象徴として扱いやすい(具体的な)側面として、特にその部分から話を広げてみたんですが…。あと、事物を説明する上で明確な対比構造をイメージさせるのと、所定概念のみをそれだけをもって説明するのとでは、明らかに後者のほうが読者として「内在する他の概念との関係性を把握し難い」記述となり、まあこの辺りは小生の執筆姿勢にも絡むのですが、可能な限り周辺概念との関係性を示して事物の世界全体における位置づけを明確化させるうえで有効だと考えております。その上で、対比概念や類似語の提示は、事物の説明に有効な手段だと考えております。
その位置関係を示す上で、これが「神ゲー」ないし「良ゲー」ではなく「(読者自身の)お気に入りのゲーム」だろうが「ゲームレビュー誌で絶賛された作品」だろうが、なんだっていいのです。ただ、そういう「好評を得たゲーム」の呼び名ないし定義を無制限に列記しても冗長で読み難いだけだし、もはや文章としても煩雑なだけで、クソゲーの説明がしたいのかクソゲー以外の説明をしたいのかすら意味を失い、元よりクソゲーが一般的用法の範疇では個人に内在する価値観に関係する表現ないし区分である以上は、この水準に沿って対義語に目される語を並べるのが妥当と考えます。まあ神ゲーでは表現レベルで揺らぎがありゴッドゲームを示すケースも観測されますが。「無理に載せる」のではなく「そういう表現のほうが手っ取り早い」ということに過ぎませんのでお間違えのないよう願います。
なお、その各々の論説が独自研究だと断ずるのも、ちと観点が「まず出典ありき」という下手をすればNPOV以前の状態に陥る危険性を含んでいるのではないかと考えます。「クソゲー」に限らず事物を社会現象としてとらえた場合、これを説明するのであれば俯瞰視点からの見下ろしで、周辺事象を位置関係の情報とともにバランスよく示す必要もあり、出典が得やすい情報のみに偏ることは不適切かと考えます。もちろん、周辺事象を網羅した資料があればいいのですが、それは「まだ存在しないか未発見」であるため、字引ではなく百科事典の記事として事物を説明するために、一種の見切り発車みたいなものではありますが、それらは専門的に網羅された(またそれが特定視点を誘導するものではない・卑小でもない)資料がいずれ出た際にはこれに基づいて記事を再構築すればいいだけの話で、こと本項の「語源」だけに限定的に考えるにしても、所詮はサブカルチャーワードで確定された資料が見当たらない半面、その主体となる部分では一定の範囲内での妥当性が個人レベルでも「なんかそれっぽい話を聞いたことがある」という範疇で判断可能であり、これは事物に対して杓子定規に「検証可能性を絶対とし、出典が見当たらなければ独自研究に違いないと断じる」ような「事物に対する知識を持たないこと」に立つような判断基準を(貿易風さん個人の視点で)定めるべきでもないと思います。この辺りは、(特に妥当性のない)独自研究かどうかと判断するにしても、コメント依頼など他者の介在を求めるべき部分だと思います。--夜飛/ 2008年5月3日 (土) 11:42 (UTC)
まず最初に、僕はこの記事の記述を独自研究だと断じたことはありません(妥当性が無いともいっていません)。一貫して主張しているのは独自研究のおそれがあるということです。「これまでに信頼できる媒体で発表されたとのないもの」という定義上、ある記述を独自研究だと断ずるのは悪魔の証明であって不可能です。Wikipediaの記事に記述を掲載しようと考えるなら、その人が典拠を示して独自研究のおそれを解消する必要があります(出典を示す責任は記述を掲載しようとする側にあります)。Wikipedia:独自研究は載せないに「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」と明確に書かれていますのでご確認ください。
対比概念や類似語の提示が有効な説明であるということは否定していません。また、「『好評を得たゲーム』の呼び名ないし定義を無制限に列記するべき」とも考えていません。このへんの夜飛さんの発言は真意がわかりません。Wikipedia:検証可能性が議論の余地が無く個々のノートで覆せない公式方針として定められている以上、典拠不明の記述を掲載しようとするのは「無理して載せる」以外のなにものでもないと思います。
周辺事象を網羅した資料についてですが、それがまだ存在しないか未発見であれば周辺事象を網羅的に説明するのは困難です。どうしてもやるなら以前にいったように断片的な情報をうまく整理してそれらしくまとめあげることになります。外部の資料で言及されていないことに対してウィキペディアンが勝手に妥当性などを判断するわけにはいきません。網羅的な資料が今後発表されたときにあらためて掲載すればいいだけの話です。何回もいってますがWikipediaの編集者に求められているのは「検証可能な情報を持ち寄り、整理し、中立的な記事としてまとめあげる」ということであり、独自に説明を行ってそれが妥当だとか妥当でないとか話し合うことではありません。そういった不要な判断を避けるための基準が検証可能性であるともいえます。
出典は読者や他の編集者が記事の内容を検証できるようにするためのものです。百科事典の読者として想定されるのは、解説されている主題をよく知らない人たちですので、「事物に対する知識を持たないひと」の立場にたち、そういった人たちに対してどうやって検証可能性を保障するのかという視点でお考えください。また、その記述が妥当であるかどうかにかかわらず、これまでにだれもしなかったような指摘や解説をWikipediaがはじめて行えばそれは(ノーベル賞クラスのものであったとしても)独自研究として排除されるということも理解してください。百科事典に載せるべきことであれば必ずだれかがどこかで言及しているはずですのでそれを出典としてください。
コメント依頼に出すのは賛成です。いろんな人の意見を聞いた方がいいでしょう。--貿易風 2008年5月4日 (日) 05:38 (UTC)
(インデント戻し)うーん、「僕はこの記事の記述を独自研究だと断じたことはありません(妥当性が無いともいっていません)」ですか?…おかしいな、独自研究などのテンプレート付与や一部記述の除去という行為を通して、記事内容にそういう側面があると指摘されているものとばかり思っておりましたが。「おそれがある」というのも穏当な表現であり、記事の所定記述に対して疑問を呈された訳ではなくほぼ全体的に掛かる冒頭にテンプレートを付与することで、クソゲーという記事全体が独自研究だとみなしていた(また独自研究テンプレートを外されても再設置することでその意思を強調した)んだとばかり。まあ可能性という範疇においてはその度合いが論点となり、(主観レベルで)「断じたかどうか」を論じるのは益が無いのでそういう(「断じたことは無い」)ことにしておきましょう。
「無理して載せる」という価値観に関しては、それを説明する上でそれに拠らない方法論が(より優れた手法として)確立されているというのであれば、なるほどそれは「無理」といえましょう。しかし記事による事物の説明においてその定型が存在し得ない以上、「無理」とみなすことには、貿易風さん自身の価値判断の介在が感じられます。小生としては、事物の説明において「ある所定の方向性を持つ概念」の説明上、この逆ベクトルの方向性を示すことは何ら不自然ではなく、また方向性を逆転する上で、同じ水準での概念を示すことは論理として水準を飛躍させても意味を成さないと考えれば、当然の理屈だと考えます。しかるに、俗語における対義語を同水準の俗語から選択することも「無理」があるとは考えません。
なお「事物に対する知識を持たないひと」を読者に想定することには何ら反対しません。しかし記事の内容に手を出す側(記述者・編集者)としてはこれほど不適切な属性はありません。編集者(=Wikipedia一般における利用者)に対しての検証性向上に出典を明記することは大事なことです。しかしこれと記事編集に携わる側が記事に扱われている事物に知識を持っていない(資料を与えられその内容を把握する必要がある)かどうかは別の話で、記事に携わる利用者自身が何も知らないために記事の内容が判らない・正しいかどうかも判断できないというのでは、記事の全てが事物を説明するために存在するとい百科事典としてのWikipediaの性質上で、まずその「百科事典である」という前提が成立し得ないようにも感じます。
こと問題を「クソゲー」という事物に限定すれば、これはゲームのユーザーないし消費者には一定の範疇で情報が(その密度には程度の差もあるだろうけど)共有されており、またこういった「俗的な雑知識」ではその範囲は曖昧な周辺情報が付きまとい、またそれらにも言及しないと相互の関係性がミッシングリングというか関係するのにそこに至る途中経路が欠落しているのでは「そもそもなんでその概念に言及しているか」が意味不明化するとも考えられ、これは百科事典としてのWikipediaにおいては自縄自縛に陥る愚だと思います。まあ、そういう愚を犯さないためにも「分別ある大人が」などの様々な落とし所を設けてるんだと思います。--夜飛/ 2008年5月4日 (日) 13:21 (UTC)
ところでコメント依頼に関しては、記述の内容をその各々で検討するというレベルか、それとも一旦「記事本文の修正」という全体の話に立ち返ってコメントを求めるか、あるいは更に現在続く対話の出発点である「「出典の明記」と「独自研究」について」よりのコメントを求めるかによっても依頼の内容も違ってきますので、どうしたものか思案どころです。各々の内容レベルでは議題が交錯するし、本文の修正云々では記事全体に掛るためコメントする側も具体性に欠けるかその一部のみに言及するに留まるかしかなくテーマが絞れなくなりそうです。まあ出典の明記と独自研究テンプレート付与関連の案件では話が戻り過ぎっぽくもあるし…とりあえず、議論活性化のためのコメントには提出しておきます。--夜飛/ 2008年5月4日 (日) 14:53 (UTC)
まず{{独自研究}}というタグの解説ページ(Template:独自研究)を見ていただければわかりますが、これは「独自研究のおそれのある記事」に付加するものです。これを付加するということは「独自研究のおそれがありますよ」という指摘であって、「この記事は独自研究だ」という断定ではありません(断定できるだけの自信がある人ならタグなど貼らずにさっさと該当部分を除去するでしょう)。そのような誤解をされた状態でテンプレ付加の責任についての議論をしていたのかと思うと正直脱力します。
「無理して載せる」の話については、検証可能な情報が集まらなければ「何も説明しない」という選択肢があるということを忘れないでください。僕はそれが最善だといっているのです。
「記事の内容が正しいかどうか判断できない」…といったところについては、検証可能性を満たさない情報が正しいどうかを判断するのはウィキペディアンの役割ではないと何度もいっています。そういった判断を避けるための基準が検証可能性であるとも述べました。
コメント依頼については、テンプレ付加のところまで話を戻すのはさすがに無益かと思います(そもそも直接クソゲーの記事に関する話題ではありませんし)。根本的な対立点としては、夜飛さんはこの記事の記述の大半を「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」(WP:NORより)に相当するものであるとお考えであり、僕は逆に記事の記述の大半がそれに該当しないと考えています。まずはその点について他のユーザの方の意見を聞いてみるのはいかがでしょうか?--貿易風 2008年5月5日 (月) 06:59 (UTC)
もちろん、おそれがあるのと断定することの間には天と地ほどの開きがあるでしょう。ただ、独自研究テンプレートの用法を見るに、この「虞(おそれ)」が誇大解釈され「何だか判んないが独自研究だと思うので貼り付けておけ」という、ほとんど記事内容ないし記事で扱われている事物に対する無知・無理解の延長でベタベタと貼り付けて回る行為自体が目的化している利用者もおり、これは警戒を要する問題だと思います。その一方で、他人の編集を尊重し、たとえ明確な理由から独自研究だと証明可能な場合にあっても、一定期間独自研究テンプレートを添付して記述記載者や記事編集参加者に注意を呼び掛けつつ、同じ利用者による記述から妥当な部分は残し、独自研究部分だけを注意深く取り除くために一時的に使用する利用者もおり、小生としては後者こそこのテンプレートの存在意義に見合った用法だと考えております。そしてそのどちらにしても、記事中に独自研究が存在すると考えての付与であり、これは有無でいえば「有る」と判断してることに他ならないと考えています。して「有るのかどうかも判らない」ということで付与されるというのであれば、もはや全ての記事に適用可能であり、それはWikipedia:免責事項で言及されているところと重なり、テンプレートの存在意義自体がなくなってしまいます(可能性としてはすべてがありうるので)。まあこの辺りは余りに原初的であるため、クソゲーの記事関連ではここまで話をまきもどす必要も無いと思いますが。
WP:NOR関係の「何処までを分別ある大人の判断によって検証できうる部分とするか」に関しては、上でも述べましたが「ヌルく考えましょう」という観点を推奨する次第です。なにせ「分別ある大人」という概念からして、定量を示してあるわけではないのですし。なお、検証可能性は独自研究を載せないとしたガイドラインと混同させるべきではないと考えます(「検証可能性を満たせば独自研究ではない」というものでもない)。検証可能性はその内容の検証が可能というだけで、独自研究かどうかは検証した後の判断の話にも掛かり、また中立性もこの両方と合わせて掲載の可否を判断する要素ですから。--夜飛/ 2008年5月6日 (火) 04:30 (UTC)
独自研究タグについては、拡大解釈するとほとんど全ての記事に適用可能であるということは僕自身もTemplate‐ノート:独自研究において指摘しています[1]夜飛さんもこのタグの使い方に興味があるならこちらの議論に参加されてはいかがでしょうか。
で、この記事についていえば、執筆者のひとりである夜飛さん自身が「包括的に研究する側が存在しない」「周辺事象を網羅した資料が存在しないか未発見」であると認めていらっしゃるにもかかわらず記事本文において詳しい解説が(出典抜きに)なされているため、記事内容は独自研究(=信頼できる媒体において未だ発表されたことがないもの)である可能性が極めて高いと考えています。
もし夜飛さんが独自研究でないとお考えであれば、記事内容が「信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないもの」(WP:NORより)であるということを示してください。--貿易風 2008年5月7日 (水) 15:49 (UTC)
テンプレート使用の議論に関しては、小生としては「使いどころの極めて困難な(というか滅多に使い処のない・使う場合には多大な努力を要する)テンプレート」とみなしている部分もあり、こと今回のような案件にも絡んで「設置される側の当事者」となることも多く、そこは当事者故の中立性の有無があるかどうか(恣意的に見れば小生の発言をどうとでも否定できうる)にも絡んで、不毛な応酬を発生させるのも避けたいところでもあるため、参加することにはあまり積極的にはなれません。
なお本稿で記述されている「詳しい説明」とのことですが、はっきりいってこれら記述がどの程度「詳しい」かどうかは疑問視します。というのも、小生としても既存の記述を解釈しながら、その一部では説明を丸めて断定を避けるなどしており、実際問題として様々な事例から他の事物にも関連させ、より広い範疇からの関係性を文中に盛り込むなどしているのですが、その主体であるクソゲーに関しては「主体性のない価値観念の総体」であることにも絡み、その実態を断定し明言することを積極的に回避している手前、結局は「含蓄ありげでたいしてなさげ」の域を出るものでもなく、そこは読者にしてゲームに関心のある側が長々と書かれた文章に何らかの自身に内在する価値観念を刺激されたり考えたりする要素を提示してあるだけだと考えます。
またそれら記述の断片は、やはり断片的ながら一般に広く示された情報断片(それらは単一資料で示すにはあまりに広く流布され認識されており、逆に決定的な資料は存在しない)で判断可能な側面もあり、独自研究と断定することすら不可能で、結果的にヌルく扱うほかない記事だと思います。いずれにしても…出典を示すことと独自研究ではないことを証明することをセットにするという観点はどうかと思います。これも堂々巡りなのであまり言いたくはありませんが。--夜飛/ 2008年5月8日 (木) 13:46 (UTC)

(インデント戻し)独自研究とは「信頼できる媒体に未だ発表されたことのないもの」ですので、独自研究でないのであればこれまでに発表されたどの信頼できる媒体で確認可能なのか具体的に提示できるはずです。WP:NORにも情報源を明記することと独自研究を避けることは密接にかかわりあっていると書かれており、その続きには「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです」とあります。例外としては「専門知識がなくとも(略)検証できる解説」がありますが、これを適用するのでしたら上の節で述べたように、専門知識の無い分別のある大人が正確性を簡単に検証する方法が保証されている必要があります。

独自研究と断定することは不可能という指摘は、「独自研究=信頼できる媒体に未だ発表されたことのないもの」という定義上、全ての独自研究疑惑についてあてはまるものですので、指摘してもあまり意味がありません。--貿易風 2008年5月9日 (金) 16:04 (UTC)

具体的に提示できるはず」とのことですが、これは単一の資料にのみ依っている場合に言えることで、逆に資料が無数に存在し、そのいずれにも原典に関しては不明瞭な副次的情報しかなく、主題においては同じことを述べているならば、その正確性は一応の妥当性を持ちながら、検証可能性をこれらのうちの単一資料を示すことでは満たせません。ことクソゲーでは、所定のゲーム作品群に否定的感情を持つことやそれを表明することを「クソゲー」という明確な語で表すようになったのがビミョーに古いために、また現在もなお進行形の現象(用例の変化もありうるか?)でもあり、確定された記録として編纂されておらず、しかし概念としては俗語や用語として一応の共通認識が存在し、また周辺事象も無数に存在する原典の不明瞭な資料の複数によって相互補完の形で示されているなど「記事の存在理由には事欠かないが絶対的な出典として扱える資料は得難い」のが現状だと考えています。--夜飛/ 2008年5月10日 (土) 12:55 (UTC)
独自研究でないということを示すのであれば、この記事に書かれている情報がすでに信頼できる媒体上に発表されていることを示す必要があります。話を元に戻せば、「『神ゲー』『地雷』といった言葉が使われているという事実や用法」といったようなこと(これ以外にも独自研究っぽい記述はありますが)がこれまでに外部の情報源で考察の対象になったことがあるかどうかが問題であり、記述そのものが妥当であるかどうかは問題ではありません(僕は「この記事の記述が妥当でない」という主張をしているのではなく、「どの外部の情報源でも言及されていないことにWikipediaが言及している可能性がある」ということを問題にしています)。
資料が無数に存在するのであれば、夜飛さんが独自研究でないと考える情報について、それぞれ無数の資料の中からひとつでもその情報を裏付けるような信頼に足る情報源を提示してください。情報源の信頼性については「信頼できるor信頼できない」の2択ではないので、グレーゾーンなものについては「~によると…とされている」といった形で掲載できる場合もありますが、そういったことすらできないような情報であればいくら集めても独自研究でないと示す根拠にはなりません。
一般論としては、「専門知識がなくとも(略)検証できる解説」を持ち出すことによって外部の情報源でまだ言及されていないことについてもWikipediaで説明が行える可能性がありますが、この記述についていえば残念ながら適用できないでしょということです(これは上の節で述べました)。--貿易風 2008年5月11日 (日) 15:47 (UTC)
いや、これも堂々巡りというか既に述べたことですが、その「信頼できる媒体」というのが厳密には存在しえず、逆に信頼性の必ずしも高くない媒体複数の総体(これは一般に流布され誰でも入手可能な媒体群)によって一応の検証可能性が見いだせるという性質があると考えております。神ゲーや地雷などという言葉も、俗語の常として揺らぎを含む半面、大意が通じればその語の各々には主体性がないものでもあるし、それが何と呼ばれているかも記事主体性に影響しません(これは読者が脳内置換しても構わない)。その性質においてそれらの語が明確に使われていることに対して検証可能性を満たし求めることは、もはや意味を持ちません(その語が何であっても内包する意味が同じなら一向に構わないため)。この「語に主体性がなく何と呼ぶかも未定義」ということは文章として読めば読者にも伝わる範疇であり、逆にそれらの概念に所定の資料を示しその資料に示された表現を絶対だと定義してしまうことは、俗語が表現の幅を持つことを否定することでもありますが、そういった(絶対的な検証可能性を満たした)資料が存在するかどうかも疑問視するところです。なおその観点でいえば、1990年代に発行されたゲーム雑誌編集部やゲームライターが発行したようなゲーム本なんかにクソゲーを専門に扱った書籍もあったかと思いますが、その書籍のみに依ってクソゲーの定義を試みることは、おそらくなんのコンセンサスも得られず無謀以外の何物でもないと考えています。--夜飛/ 2008年5月12日 (月) 12:43 (UTC)
これは検証可能性というより独自研究排除の方針の問題であり、読者が記事を読んでどう解釈するかとかいう問題ではなく、信頼できる媒体で考察の対象になっていないものはWikipediaでも記述の対象にならない、という話です(対象がはっきりしていてだれもが正確性を検証できる場合を除いて)。
神ゲーやら地雷などの俗語については、結局のところWikipeia上では「~では…と定義されている」みたいな感じでしか書けないと思いますし、それが一番無難な書き方だと思います。ツンデレヤンデレセカイ系などの記事を見ても、どういった情報源でどういう定義がされているかということを紹介する、あるいはそれに近い形となっています。その情報源の定義や用法が絶対であるとして記事に書く必要はなく、あくまで外部の情報源でどのように触れられているかを客観的に述べるわけです。--貿易風 2008年5月12日 (月) 16:19 (UTC)
(インデント戻し)いや、俗語の性質としては既に決定された定義を持つ俗語が存在すると考えるほうが無茶かと(まあ辞書に掲載された俗語なら別ですが、その時点で流行語とか別概念になって俗語の範疇から外れ始めるし)。主体はクソゲーという概念を説明するというただ一点に収斂される本項において、それ(クソゲーという事物・価値観)を様々な側面から見る上で、まず視点を規定してそこから対象事物を見るというのがそれら記述の趣旨であり、これは読者に説明を行うという観点から、それら読者が節の起点となる場を想定しやすいよう俗語をもってイメージさせるという手法であり、その俗語がどういう性質のものかを併記してあるためにその性質に沿った他の俗語に読者が脳内置換しても一向に問題ない訳で、逆に「クソゲーの対義語は○○である」とか所定の資料をあげて規定したとしてもその○○という語が一般にコンセンサスを得てなければ意味を成さないし、そこで説明が止まってしまって先に進まないと考えます。
なお「ヤンデレ」は(よく判らんので)兎も角として、ツンデレやセカイ系とかはメディア提供側の仕掛けた一種のマーケティング用語としての側面があるように思います。その意味で「ゲームジャンル:クソゲー」とメーカー自ら主張すする作品もありますが、逆にそういう作品一つのみをもってクソゲーを説明し得ないし、またゴッドゲームを制作したメーカー自らが「神様ゲーム(略:神ゲー)」と称したことをもって本項に組み込んだらもはや何が何やら…すみません、良くない方向に漏電しました。ともあれ、俗語を明確に定義するということ自体が無謀ではないかと考えます。その上で「とりあえず意味が通じればOK」的な意味でそれらの語が出ているとはいえ、俗語がその出自も用法もすべてがマニアやユーザー層というカオス(ヲイ)から幾らでも浮かび上がってくるために、「類義語は多々あるが」などの含みを持たせて書くことは可能ではないかと考える次第です(まあ小手先の表現調整みたいなもんですが)。--夜飛/ 2008年5月13日 (火) 12:33 (UTC)
俗語を明確に定義することが不可能ってのはまったくその通りだと思います。僕は外部の情報源で行われている語釈をWikipediaに書いてそれを明確な定義として規定しろなどとは一言もいっていません。一般論としては、多くの場合Wikipedia上で俗語に対してなんらかの明確な定義を行うことは不可能なのであり、外部の情報源においてどのように多様な語釈が与えられているのかを示して明確な定義など存在しないということを読者に実感してもらえば十分です(上の節で述べたことともかぶりますが)。神ゲーや地雷という言葉については、(ゴッドゲームの意味で用いられるという特別なケースを除けば)ツンデレやセカイ系ほどは解釈がわかれない語句と思われるので、わざわざ複数の情報源での解説を参照しなくてもさほど問題はないと考えます。全く異なる語釈を行っている情報源が実際に見つかるようならあらためて追加すればいいことです。
この記事の説明に対して、夜飛さんが「それら読者が節の起点となる場を想定しやすいよう俗語をもってイメージさせるという手法をとっている」といった解釈をされるのはかまいませんし「読者が脳内置換しても一向に問題ない」と考えるのもかまいませんが、記事において具体的に「神ゲー」「地雷ゲー」という言葉を挙げてその言葉に対してなんらかの説明を行っている以上、それらの語句を考察の対象とした外部の情報源による裏づけが必要です。外部の情報源に基づくことなくこれらの語句に関する解説をWikipediaで行うのであれば、それはウィキペディアンが「神ゲー・地雷という語句が実際に使用されているさまを観察して知った情報」を記事に載せたことになり、これが独自研究に該当します。--貿易風 2008年5月14日 (水) 15:02 (UTC)
いやぁ、何ていうか…独自研究の概念を余りに細にわたって持ち込めば、何かの資料の引き写し位しか書けないんじゃないか(そしてそれは引用の枠を超えれば著作権に反する)とも思ったり。ちと漏電気味なんで余りうまくまとめられないんですが、俗語の説明中で使われている表現(それも俗語)の検証可能性を満たす資料の提示なんていうのは、記事の主題に関係ない資料を求めるという部分でもあり、まして記事中でそれを明確な対比語とはなっていない状況を説明している部分であるために、関係性が弱いことを説明するために関係して扱っている資料を求めるという何とも訳のわからないことなんではないかと。というか定義不能なことを説明するために定義されている資料を求めるよう…な?すみません、何が何やら訳が分かりません。--夜飛/ 2008年5月15日 (木) 12:17 (UTC)
えっと、細にわたって持ち込むもなにも、Wikipediaの記事でなんらかの解説を行うのであれば、それを考察の対象とした外部の情報源を確保してそれらで検証可能な範囲内で記述しなければならないという当たり前のことしかいってないつもりなのですが。俗語の解説のときだけ急に検証可能性を満たさなくて良いなどという話は聞いたことがないですし(そういうローカルな例外を勝手につくっちゃだめというのがいわゆる「議論の余地が無く、利用者間の合意で覆せない」ってところです)、むしろ俗語のような曖昧さを持つ対象こそなんらかの資料に頼らず勝手な記述を進めることは危険であって、信頼できる情報源上での考察や分析に基づいた慎重な記述が求められると思います。
特にこのケースのように語句の使用法やら「属するコミュニティによって意味が揺らぐ」「それは個人の価値観がまちまちであることに起因する」「ゲームのカテゴリーとするにはやや弱いが、…、インパクトに欠ける部分も関係するかもしれない」などとあれこれ分析や考察を加えるのであれば、その考察はこれまでに信頼できる媒体で発表されたものでなければなりません。
WP:NORでいう「検証可能な情報に解釈を加えるな」ってところをあまり厳密に考えすぎてしまうと本質的ではない表現のレベルまで画一化してしまい転載まがいの解説になってしまう危険性がありますが、この場合はそもそも外部の情報源を無視してWikipediaが独自に記述を進めている可能性が高いというパターンで、いわばそれ以前の問題です。
ツンデレでは記事本文でかなり直接的な引用が行われていますが、これはあくまでレアケースであって、「神ゲー」や「地雷」については必ずしも外部の情報源の定義の引用という形式をとる必要はないと思います。まあその前に、まずはそれらの語について言及した情報源を最低でも1つは見つけないことにはどういったかたちで記事に載せるのかを検討することすら不可能なわけですが。--貿易風 2008年5月16日 (金) 17:26 (UTC)
んーっと…そりゃあ貿易風さんの言われるところも判りますが、もとより検証可能性や独自研究を載せないというのも、その周辺ガイドラインまで含めると、学術分野として成立している事物ならまだしも、通俗的な事柄ではかなり微妙というか、フォローしきれない部分もあり、ここんところは結構方々のノートで落とし所を探ってるんですけど(これは俗語を扱った項目のノートで多かれ少なかれ見受けられるところですが)。こと価値観を示す俗語では、その価値観を表すのに価値観こそ同一ながら表現は無数に存在する訳で、これが流行語とかメディア上に用いられて共通認識として利用されていれば貿易風さんが仰られている状態で書きようがありそう…にも見えながら、結局はメディアのチャンネルが印刷媒体から放送番組まで様々あり、こと磨滅する媒体で伝えられた情報は発表時点で情報鮮度の関係から一意で元ソースが得やすいけど、クソゲーみたいに中途半端に古い現象では捜索困難かもはや不可能といっても過言ではない共通認識化した情報もあり…で、書きように困るんですよねえ。
「神ゲー」やら「良ゲー」やら「地雷ゲー」やらとかは、元より海の物とも山のものともはたまたどっかの泥濘から生えてきたものかも良く判らんような語ではありますが、果たしてこれに相当する概念(あるいは価値観)が存在していないかという観点からみれば、存在していないと見るほうが無茶なくらいではないかと考えます。その上で語には主体性がなく語の示す概念のみが(説明として)必要なのであって、その出自を求めるのはどうかと思うのですが。
またそれらの記述に付随する「かもしれない」など記述者の推測をうかがわせる語の結びを持つ一連の記述なのですが、これを他者が扱われている考えを抜きにして示された現象を元に考察した場合、その考えとは相容れない結論に達する可能性を含む性質があるのかということも考慮したいところです。まあこの辺りも「所詮は俗語の概念なのだから(大意において事物を知る側が妥当だと判断できるなら)余り厳密に考えても仕方ない」ようにも思いますけどね。--夜飛/ 2008年5月17日 (土) 12:58 (UTC)
(インデント戻し)情報源の信頼性とか、WP:NORで許容されうる「情報の整理」の範囲とかについては落としどころを探ることはありえるし、有効な資料の少ない分野であまり厳しい基準を設けてもしょうがないとは思います。ただ今回の例は、外部の情報源を参照することなくウィキペディアンが独自に説明をはじめている可能性が高いというケースで、「外部の情報源に基づいて記述を進める」というWikipediaの精神そのものに反しているわけです。
信頼できる媒体上に発表されていない可能性の高い考察・分析が記事に掲載されていることが問題なのであり、Wikipedia上で「事物を知る側」を自称する人が集まってその妥当性を判断しても意味がありません。ウィキペディアンが独自に妥当性を判断してよいのは、分析や考察などを行うことなくだれでも客観的に正確性が検証可能なような極めて限られたケースだけです。Wikipediaにおいて、編集者の事物に対する知識というのは、「その情報がどういった資料で検証できるのか知っている」「情報をどのようにまとめれば百科事典の記事として適切になるか知っている」というような形で間接的に記事に反映されるのであり、直接的には記事に反映されません。
「語には主体性がなく語の示す概念のみが(説明として)必要」ということであれば、その概念を扱った外部の情報源を確保し、それによって検証可能な範囲内で説明を行うようにお願いします。--貿易風 2008年5月18日 (日) 14:11 (UTC)
独自研究なのかどうかはいわゆる通説(複数メディア上の論説など)レベルとの突き合わせとか論理的に考えた場合に誤りがないかでも一定範疇で判断可能だと思いますけど…ことクソゲーは通俗的な分野なんだし、その価値観念はユーザーという一般側の視点に基づく訳ですから、それこそ専門分野(学術分野とか技術分野とか)の知識を必要としないかと。まあその辺りは出典がなければ何も書けないという観点からすれば受け入れ難いヌルさ加減なのかもしれませんが…分析や考察といっても学術分野の情報や技術分野の知識がなくても到達可能な論点で、またそこに至る道程においても強引な論理展開もなければ特定視点に偏重がみられるわけでもなく…とも思います。ともあれ堂々巡り風味なんで、そろそろ何か一区切り入れたい気がします。--夜飛/ 2008年5月19日 (月) 12:25 (UTC)
独自研究かどうかというのはこれまでにその考察・分析・アイディアなどが発表されたことがあるかどうかによって判断されるもので、誤りがあるかないかは関係ありません。
WP:NORでは単純な論理的演繹は禁じていませんが、いま問題となっている記述は(出典が示されない限り)「神ゲー・地雷ゲーという語句に関する実地調査」を行った上でその結果に分析や考察を加えたものが発表されているからだめということです。特に対義語の節の後半の「~かもしれない」という部分についてはもはや執筆者の個人的な感想のレベルであり、検証可能性とか独自研究とかいう以前の問題です。
Wikipediaで対象から直接情報を引き出すことができるのは、上の節で挙げた「コアラのマーチのパッケージは6角柱」やフィクション作品の記事で登場人物の紹介をするときのように、ある程度対象が定まった状態でだれもが客観的に納得できるようなことがらを記す場合だけです。対象がきちんと定まっていないような対象について調査・分析・考察を行った結果はWikipediaには発表できません。また、今回行われている調査・分析・考察はいずれも専門知識がなければ到達不可能ですし、多少の知識がある人にとってその分析や考察が納得できるものだったとしても、Wikipediaの記事に載せられるだけのものだと判断するためには、外部の情報源に発表済みであるというお墨付きが必要になります。
堂々巡り感は同感ですので、Wikipedia‐ノート:独自研究は載せないで議論参加を呼びかけようかなと思っています。コメント依頼は提出済みですし。--貿易風 2008年5月20日 (火) 15:34 (UTC)
(インデント戻し)うーん、なんだかー(漏電しまくり)。コアラのマーチはどうにも脱線風味というかメーカーのニュースリリースとか専用ページとか何かを引っ張ってくるだけで明確な資料を得られる(結果「コアラのマーチは六角柱のパッケージに収められたお菓子である」はティーパックや4連パックがある[2]ため必ずしも真とは言えないという結論に達する)んだけど、その一方でフィクション作品の人物紹介は如何様に言っても地雷風味です。というのも、作品描写中から視聴者視点での推察を含むケースも多々見出せ、作中で明確に言及されていない事柄を描写中に見られる性質から彼是「推測」していることも(これは余りに多いので割愛)。ただ、そういった事物の常として慣習的に結構ユルく判定されている部分なんスよね…余り突っ込んでもコミュニティが混乱するばっかりで益がないので。
そりゃ外部情報というお墨付き(ただ中立性という点では単一視点であることから記述の扱いにより慎重さを必要とするけど)があればそれに越したことはありませんが、あるかどうかもわからない聖杯を探しに砂漠に…じゃなかった、威厳付けが可能な専門家がまず見出せない分野における包括的な資料を「ある筈だ」として探すことも、またあったとしてそれのみに依った記事を書くことも、元よりクソゲーがユーザー視点の価値観であり確定した価値観念ではないこともあって、そのすべてを固定化された概念で示しようがないし。文中用語にしても形容の範疇において語の出典を求めることも視点が本文とは別のところで固定化されている気がします。--夜飛/ 2008年5月21日 (水) 12:42 (UTC)
コアラのマーチについては、4連パックがあるということであれば「コアラのマーチの通常版(?)は、…」とかいう文章にしてもいいですが、結局のところ検証したいと思う人が、手にとったパッケージが6角柱かどうかを判断するときに、専門知識を要さず、なにかの価値判断を行うこともなく明確かつ客観的に判断できるという例として挙げたわけです。あくまで適当に作った例ですので、実際に記事本文に書くんだったら、他に資料があるなら使うに越したことはありません(WP:NORで例として挙げられているアップルパイだって資料があればそれを使ったほうがいいですし)。
フィクション作品の登場人物の説明についても、上で述べたように「だれもが客観的に納得できるようなことがらを記す場合」に限って作品そのものが出典となりえます。作中で明確に言及されてないことを推測して書いちゃだめっていうのはあたりまえで、登場人物があるシーンで着ていた服の色とか、そういうだれがみてもあきらかなものは書けるということです(もっともWP:NORの観点からは問題ないだろうということで、それが百科事典の説明として必要かどうかは別の話ですけど)。
外部の情報源に発表済みであるということは、「あればそれに越したことはない」という問題ではなく、記事に情報を掲載するための必要条件です(十分条件ではありませんが)。WP:NORにおいて「記事に含められるのは、信頼できる情報源に基づいた、検証可能な内容に、解釈を加えていないものだけです」と定められています。外部の情報源でまったくふれられていないことであれば最初からWikipediaで説明の対象になりませんし、通俗的な記事ならウィキペディアンが独自の説明を試みていいという話にはなりません。
とりあえず話が抽象的になりすぎているので具体的な話に戻しますが、この記事での「神ゲー」「地雷ゲー」などの俗語の解説がWP:NORに抵触していないか合意を形成しましょう。Wikipedia‐ノート:独自研究は載せないでは議論参加をお願いしてきました。--貿易風 2008年5月22日 (木) 18:34 (UTC)
あーいえ、小生の言ってるのは「登場人物があるシーンで着ていた服の色」だとか一目瞭然な事柄のことじゃありません。服の色の例を使うのであれば「登場人物の服の色が赤なのはその登場人物が赤い色を好きなためだ」的な部分に関してなんですけど。で、これに近い「作中の描写から視聴者視点で推察したこと」全般は結構方々に見られるんですが。まあその極端な例はWikipedia:井戸端/subj/ただの言葉狩りを看過すべきかで出た「登場人物Aは頻繁に喫煙していたので喫煙依存だ」的な視点(要約・Mega stride氏の「2008年2月11日 (月) 15:56」の発言・そもそも架空の人物なんで医学的に検証しようがない)だったりもするんですが、こういった無茶な主張はともかくとしても、公開されているキャラクター設定とか作中で明確に言及ないし明示されたこと以外も、けっこう載ってるし一応は妥当な範疇なら強硬に除去するのも混乱のもとだし大目に見られているって話なんですけどね(この辺りは脱線なんで以後引きずるつもりもありません)。
で、架空の人物の紹介云々は脇に置いといても、元より共通認識も定義しようという目的意識もない曖昧模糊としたユーザー視点的な価値観なんぞ、あんまりタイトに扱っても扱えるものじゃないというのが本項クソゲーの説明における「ユルさが必要ではないか」とする論拠なんですが…まあこれも堂々巡りなんですけどね。--夜飛/ 2008年5月23日 (金) 12:37 (UTC)
フィクション作品については、「明確かつ客観的に判断できるものは作品自体を出典にできる、ただし推察したことを含めたりしないように注意が必要」ということで意見は対立していないようですので、脱線でもあるのでこれで終わりにしましょう(余談ですがちょうどWikipedia‐ノート:ネタばれに注意で議論されているようです)。--貿易風 2008年5月24日 (土) 15:58 (UTC)

「クソゲー」以外の俗語について

[編集]

WP:NORのノート及びWP:RFCからきました。私は別に「クソゲー」などに詳しいわけでもなく、ましてやゲームの専門家ではありませんが、こんなものを書いてるぐらいなので、多少はそういう関係のほうで役に立てるコメントができるかなと思っています。で、「神ゲー」「地雷ゲー」等の解説についてですが、私の意見としては貿易風さんと同じくウィキペディアのルールに合っていない」と思います。理由は、出典がない独自研究になってるからです。例えば「>「地雷ゲー(単に地雷とも)」なる呼称も見られる」については「一体誰が呼称されてるのを見たのか?(この記事を書いた執筆者が勝手にそう見てるだけじゃないの?)」などがいい例ですが、この記事全体について「一般的なことみたいに述べているが、実は誰が一般的だと判断してるのか不明」な記述が散見しているように思います。これはWP:AWWに反している記述です。また、断定的な記述であっても、その「断定を誰がしたのか」のかが一切不明です。上記「情報つむぎ(こんなもの)」にも書きましたが、jawpにおいては「~だ」と述べるためには「『~だ』と信頼できる情報源」を参照することで確認できることが必要条件です。Amazon.co.jpでの検索結果を見る限り「クソゲー」に関するRSは少なくなさそうですから、もし載せたい記述があるならそこから出典を探してはいかがでしょうか(本来とは逆ですけどね)。ちなみに、出典がいつまでたっても示されない記述は除去しても問題はないので、{{要出典}}などを付加の後、一定期間後(個人的には1ヶ月程度で十分だと思います)に除去するのは構わないと思います。--青子守歌会話/履歴 2008年5月23日 (金) 10:53 (UTC)

まあ小生の視点としては「余り強硬に出典を求め不明確なものは削っても、記事本文が破綻する虞を含むためどーかと?」という範疇を超えるものではありません。故に「何が何でも要出典」というのであれば、記事内容を破綻させない限りにおいて余り云うところもないんですけど…ただ、既存記述の除去のみに重点を置いて、事物を説明する文章として整合性をもった内容で成立させようという視点がないのでは困ります。
また記事で扱われている事物の性質が記事の性質にも影響しうる余地があるとも思っており、ことサブカルチャー分野でも末端視点の価値観などという…言い換えれば「益体無い価値観」(ヲイ)なんぞは周辺事物が様々な水準で広域にわたっているため、相応にヌルく広い範囲で扱うほかないんじゃないかと思います。出版物とかマスメディアで明確な形で扱われたことは、現象としては本来主体となる末端の価値観の上澄みを汲み取ってメディア提供側の価値観に沿う形に加工したものであり、その態を説明する資料としては「これはイメージ映像です」的な虚構を含み扱い難いもののようにも感じ、またそれのみに依っては説明し得ないもののようにも思います。まあ青子守歌さんいうところの「こんなもの」も、一ウィキペディアンの視点からすれば共感を覚えるところも見出せ、またその理念にも関心を示すところではあるんですけどね…それを全幅の信頼をおいて扱うかどうかはともかくとして(漏電中)。--夜飛/ 2008年5月23日 (金) 12:37 (UTC)
後半部分について。Wikipediaは、その対象について外部の情報源がどのようなことを述べているかをまとめた場所であって、その事物の真実の姿を映し出す鏡ではないわけです。そういう意味で、出版物とかマスメディアで扱われていないようなクソゲーの側面があるとすれば、それはWikipediaとしては守備範囲外であり、語りえぬことです。メディア提供側の価値観に沿う形に加工されている可能性はないわけではありませんが、もしそうであったとしても、加工前の状態をウィキペディアンが推測して書くことはできません。「~の発表によると…である」のように書いて読者に注意をうながすくらいならできます。誤解を恐れずにいえば、実際に黒かったとしても、「白い」と述べている情報源しか見つからないのであればWikipediaでは白いと書くことになります。--貿易風 2008年5月24日 (土) 15:58 (UTC)
脇道っぽいが。誰でも黒いと確認できる物を白いと書いてる文献があったら、そんな情報源は信頼できないとノートレベルで合意していいでしょう。黒いか白いかくらいなら、文献がなくても一次資料に基づいて書いていいでしょうね。本題については、「結局一般的には使われていない」用語の説明としては長すぎるし、その為に独自研究色が強くなっているとは感じます。しかし、それらの用語が「この雑誌で使われてた」なんて出典をいちいち示しても意味がないでしょう。使用例があっても極めて稀であるなら記述すべきではないですし。個人ブログなどにしか見られないような俗語についてなら、ウィキペディアで解説すべきではないでしょうね。--Dark Eyes 2008年5月25日 (日) 07:38 (UTC)
「黒か白か」については、まあこれは比喩的な意味で書いているので、本当に実際の物体の色を想定しているのではないです。純粋に黒か白か書くだけなら、Wikipedia:独自研究は載せないにある「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」に相当するため、対象そのものを情報源をみなせると思います(ちょうど上でフィクション作品の登場人物の服の色の話をしていたところですが)。--貿易風 2008年5月26日 (月) 17:49 (UTC)

こんにちは。独自研究のノートから来ました。

んーと、必ずしも記述を除去しなくていいとも思うけれど、このままでオッケーと認めてくれといわれても、それは受け入れられんな、という感じでしょうか。テンプレ類は残さないといけないと思うし、せめてもう少し資料探してから、大変なんです、と言ってほしいかな。せめて97~98年ごろの『超クソゲー』やおたくウィークリーあたりは、すぐ見つかるはずなのに。先行研究がなくて、俗語的な記事を書くってのは、すごく大変なことなんだから、覚悟を決めて取り掛かっていただけるのはうれしいことですが、そこに手をつけずに、むしろ学術的な項目とされる範囲の基本的なところを執筆することにすれば、もっと書きやすいのにー、と思う。

独自研究というのは、基本的には検証可能性を満たしていて、それでもなお検証可能性を満たす事柄の組み合わせから、本来の文脈にない見解を生み出すことを指すのだと理解しています。方針上は、独自に、なんらかの定義をウィキペディアで示すようなものも、独自研究に含まれますが、それは検証可能性と重複する領域ですし。で、今のところ、この記事は、情報源がないのですから、検証可能性を満たしていない記事であり、独自研究です。その判断は、書かれている内容が一般的に言う「独自の研究」かどうか、ということはまだ問題ではなくて、ウィキペディアの外側で誰かが考えたことなのか、投稿者の独自の研究なのか、という判断ができない、ということが問題なのだと思います。文章はそのままでも、ただ単に、出典を見つけ、それを本文に加えることで、「独自研究」ではなくなる可能性はあるけれど、今はそうなっていない。

他方、出典がないからといって、その記述を除去しなければならないというものではなく、方針では、除去できる、にとどまります。今の記述のまま、要出典なり独自研究なりのタグやテンプレートを取り除くことは、適当ではないですが、テンプレ類を残して、記述も残すという選択肢はあるでしょう。

夜飛さんがいう「そういった事物の常として慣習的に結構ユルく判定されている部分なんスよね…余り突っ込んでもコミュニティが混乱するばっかりで益がないので」というのは、状況認識としては理解できますが、コミュニティが、混乱することなく、ちゃんと調べる方向に進む、ということになっていくのが、より好ましいわけで。

んで、まずは、情報源を加えていくところからはじめるしかないと思います。それで、その確認には手間がかかるので、多くの人が問題ないとしている間は、まあいいだろうとして将来的に出典が示されることを待つという立場と、確認された後に復帰することで記事の信頼性を高めるという立場があって、加えて、あまり高い水準を求めすぎると参加者が増えないとか、いろんな観点があって、検証可能性のノートでもあれこれ議論が続いているという状態です。「神ゲー」「地雷ゲー」は、検証可能性を満たさない記述なのは、間違いないでしょう。用例はグーグルで拾えるでしょうが、それが独自研究かどうかというよりは、百科事典の記述として有用なほど一般に広まっているかどうかについての検証可能な情報源があるかどうか、というところが、次の問題となるでしょう。

個人的には、学術的な先行研究がない分野は、学術的な、とまではいかないにしても、実証主義的に資料を漁るという作業をしてほしいなと思っています。検証可能性の方針てのは、そういうものかなというのが、ぼくの理解です(上記の通り、コンセンサスがあるわけではないです)。「用例」ならば、学術的な研究じゃなくても探せるはずで、そのかわり、膨大なゲーム雑誌のバックナンバーを掘り返す必要がある。

分野的に無理だからこのままでよしとすべき!と言われたら、ちょっとマテと思うし、難しいから許してと言われても許すとは言いたくない。ぼく自身が除去だの削除だのするつもりはないけど、除去されてもしょーがない。あれこれ考えるくらいなら、国会図書館で検索しろ、と。語源を書くなら、辞書を書いている人たちがやるように、ひたすら関連しそうな文献をあたる、ということになる。たとえば数学の概念の記事を書こうと思って、その内容と前提とされている知識をすべて得たうえで情報源となる本を理解することと比べたら、それは単純な作業なので、やる気さえあれば専門的に何かを勉強しなくても、こつこつと進められるものなわけで。青子守唄さんが挙げている書籍、そこから、ゲーム雑誌のバックナンバーを探す。ネットでいくらか記述がみつかるなら、そこから、いつごろのどの雑誌で「クソゲー」なり「神ゲー」なりという表現が出ていたのかを推測することもできるかもしれません。その前段階として、ぼくは個人ブログのようなものでも出典として使うほうが、情報源を示さないよりはいいと考えています。用例として、なら。

書き方の問題というのもあって、この記事では比較的断定を避けて、あいまいな用語であることを状況的に示そうとしている書き方になってますから、状況を示す情報源が必要だけれど、確固とした分析を情報源とするほどではないように思います。「俗称としては「良ゲー」や「神ゲー」などの言葉が用いられている」なら、挙げるべき情報源は、複数のサイト、できれば雑誌などから用例を示せば十分だと思います。「ただこれらは「クソゲー」ほどには一般化されておらず」と書くなら、「クソゲー」という言葉の拡散として書籍のタイトルや雑誌の特集タイトルになっていることをこれ以前の記述で触れていれば、同等の出典を挙げられないことで、暗に示すことはできるでしょうが、同時に、クソゲーほどではないが記事の中で取り上げる必要がある程度には一般化していると思わせる程度に、きちんと取り上げられている情報源も必要となります。「「クソゲー」以上に属するコミュニティ(ネットコミュニティや個人間の交友関係)によって程度や意味的な揺らぎを含む」については、複数の用例を比較する必要がありそうです。--Ks aka 98 2008年5月25日 (日) 08:12 (UTC)

(貿易風さん2008年5月24日 (土) 15:58 (UTC)に対して)いや、Wikipediaは百科事典として事物を説明するところであり「まとめサイト」みたいな集積所じゃないと…ああ、繰り返しなんで割愛。小生が言いたいのは現象として消費者一般とかの動向を観察したものがメディア側から示されているなら、それを出展として使うこともできようが、クソゲーという価値観に呼応して、メディア側(に携わる者たち)が自身の価値観におけるクソゲーを示したとしても、それは元々の価値観とは別に発生したものであるため、これ(メディア側の抱くクソゲー概念)をもって消費者サイドのクソゲーを語ることはできなかろうということです。--夜飛/ 2008年5月25日 (日) 12:14 (UTC)
「集積場」だとはひとこともいってないんですが…。単に情報を集めただけでは「集積場」でしょうが、それが整理されているからこそ事物を説明する記事として成立するわけです。僕はWikipediaはある意味で「究極のまとめサイト」であると思っています。下で青子守歌さんがおっしゃっているように、わかりやすく情報が整理されているという点が単なる集積場とは異なるわけです。
「消費者サイドのクソゲー」については、それを説明するための手掛かりとなる情報源があればWikipediaに書けるだろうし無ければ書けないだろうということです。この世に存在する事象全てがWikipediaで説明可能であるとは限らないわけですから。--貿易風 2008年5月26日 (月) 17:49 (UTC)
(Dark Eyesさん2008年5月25日 (日) 07:38 (UTC)に対して)「「結局一般的には使われていない」用語の説明としては長すぎる」に関しては、確かにちと後からの付け足しとかもあって説明が際に分け入り過ぎ断定し過ぎ…という問題も含みそうです。まあ俗語や造語には軽く概念的に大雑把な説明を付与する必要もあるとは思いますので、長過ぎず・かといって意味不明化させずという匙加減は必要かも。--夜飛/ 2008年5月25日 (日) 12:14 (UTC)
(Ks aka 98さん2008年5月25日 (日) 08:12 (UTC)に対して)「コミュニティが、混乱することなく、ちゃんと調べる方向に進む、ということになっていくのが、より好ましいわけで。」に同意です。まあ小生としては過去に(鬼のように関係していながらも)コンシューマーゲームからスッパリ抜けちゃったところもあるので、その手の資料になりそうなものを手元に残していなかったりもして、また本稿のためだけに蒐集したりするのも面倒というか無駄っぽい気がするし、どーにも。そんなこんなで小生としては本項に関わるにしても「断定せず、しかして妥当性は計りつつ(妥当だと思えるために)残せそうな記述は表現を調整しながら組み込み」を行ってきた訳で、(一応大丈夫そうだと判断して残した記述の)出典を示すのは「俗な事象だし、たぶんその方面に今なお情熱をもってあたる人の方面から、なんかの形で出てくるだろ」的な他人任せというか未来に期待する楽天主義とゆーか…でもあるところです。そのために「今出典が示されてないから今消してしまえ」というのには、どうにも賛成しかねるんですよね…そりゃ「資料が出てからまた書けばいい」というのも一理ありますが、二度手間でしかありませんから。--夜飛/ 2008年5月25日 (日) 12:14 (UTC)
ちょっと遅くなりましたが。とりあえず(他言語版がどうか知りませんが)jawpの基本精神としては『出典がない記述を除去しなければならないことはないが、除去してもいい』というのは、誰もが認めることだと思います(c.f.WP:V)。ここまで見ている感じですと、夜飛さんは『クソゲーのようなサブカルチャー的項目にきちっとした出典を求めるのはナンセンスだ』と主張されてるように思えます。それも理解できなくはないですが、だからといって例外的に「サブカルチャーの項目は曖昧でもOK」なんてのは許されないと思います。それと、どうにも誤解があるようですがウィキペディアは「自分の知っていることではなく、他人の知っていることを書く」という、ある意味においては「まとめサイト」的な存在であると私は思います。もちろん、一般的なまとめサイトとは違い「情報は整理され分かりやすくまとめられる」のですが。なので、原理的にはウィキペディアに書かれている記述は誰かの主張であり、その主張をした情報源(書籍、新聞、論文etc)があるわけで、そもそも「今、出典がない」という状況自体がおかしなものです。なんだかフィロソフィカルな主張になりますが「ウィキペディアでは、出典が示されることで初めてその記述は『情報』として認識され、出典がない記述はただの文字の羅列と本質的に差がない」ものでしょう。出典がない以上、たとえ二度手間であってもその記述の除去に文句は言えないのですし、単に出典を示せば(ウィキペディアンならそんな難しいことではないはずです)いいだけの話ですから、ここで議論しているぐらいなら調べて出典を示されてはいかがでしょうか。--青子守歌会話/履歴 2008年5月25日 (日) 12:59 (UTC)
いえねえ、サブカルチャー全般ではなく「クソゲーという価値観念と俗語」に出典を求めることは極めて困難、かつそれを強硬に求めれば混乱しか生まないというのが小生の述べるところなのですが。まあ俗語や価値観の範疇では、多少の差こそあれ概ね流行語(汎社会的現象として)的に用いられる段階にあるモノは「百科事典的には掲載される余地があるが明確な出典は得難い」性質を持ち合わせていると思うんだけど(ググるとか)。ヌルい小生としては、そういう性質が多分にあるクソゲーという項目は、確定した資料(出典)が出たらその段階で記述をそれらに沿った形で成形するか、明らかにその出典に反する部分は除去するなり整形して扱えばいいように思います。--夜飛/ 2008年5月25日 (日) 13:28 (UTC)

んー。おれは除去しろとは言わないんだけど、このままでは埒があかないと思うですよ。未来を信じましょう、は、いいんだけど、この程度のぬるさで勘弁してください、は、何度言っても受け入れられないと思う。ほんとに「クソゲーという価値観念と俗語」に出典を求めることは極めて困難」なら、ウィキペディアには掲載できないとしかいいようがない。難しいけど不可能じゃないなら、未来を信じてもいいのだけれど。で、ゲーム関係者・愛好家にとっての評価はわからないのだけど、『超クソゲー』から、多少の「価値観念」だの定義だのは引っ張ってこれると思うのですね。それをやって、やむを得ず出典がついていない部分があるとか、それだけでは適切ではないと思われるところを独自研究で補ってしまっているとか、その程度まで持ち込むことはできないのかな。--Ks aka 98 2008年5月25日 (日) 13:40 (UTC)

たぶんその辺りが落とし所でしょうねえ…ちょっと今、Amazonで『超クソゲー』を注文しようとして、Amazonの古書扱いではクレジットカードしか受け付けず、前に銀行口座として作ったカードがだいぶ前から口座が空でカード失効していたことに気付いて挫折中(漏電中)。神保町の古書店では扱いないみたいだし、どうしたものか。--夜飛/ 2008年5月25日 (日) 14:17 (UTC)

まずはいろんな方に意見を寄せていただけてありがたいです。

僕としては、夜飛さんが(あるいは他の方が)いまから出典探し(用例探し?)をはじめるということであれば、すぐに俗語についての記述を除去しようというつもりはないです。手間のかかる作業だと思うので、ゆっくりであったとしても着実に進行しているのであれば、たとえ上で青子守歌さんが提案されている「1ヶ月」という期間を過ぎても問答無用で除去するつもりはありません(僕より厳しい基準を持った人がいるのであれば、その人がいますぐ除去するのをとめようとは思いませんが)。ただ、出典を探す気のある人がいないのであれば、あるいは出典探しが始まったとしても途中で挫折してそのまま長期間放置されているようであれば、WP:Vにもとづいて除去を提案します(掲載を希望する立場からしても、いったんリセットしてから改めてやり直したほうがやりやすいんじゃないかとも思いますが…)。

「本稿のためだけに蒐集したりするのも面倒というか無駄っぽい気がする」「他人任せというか未来に期待する楽天主義」という程度の気力しかないのであれば、出典の無い記述の除去は素直に受け入れるべきなんじゃないかと思ってますが、とりあえず上の発言を読む限り夜飛さんが『超クソゲー』の入手を試みられているということで、それを元に記事を改善してくださることを期待してもうしばらく様子をみようと思います。--貿易風 2008年5月26日 (月) 17:49 (UTC)

ちょっと古本屋を3軒はしごして『超クソゲー』ないしそれに類する書籍がないか探してみたんですけどねえ…どーも近所じゃ無いらしい。ついでに本件には関係ない高めの本買っちゃたし(漏電中)。まあ小生としても「1ヶ月かそこらで如何こうする様なほどに積極的に資料収集するような気にもなれない(どーせ銭にならん事柄だけに積極的に散財して資料収集する気にもならない)」し、なんだかなー…--夜飛/ 2008年5月27日 (火) 14:21 (UTC)
情報源を探す方法は何も「散財」するだけではなく、例えば図書館とかを使う手もありますが・・・。どちらにしても、貿易風さんが言われてるように「この記事のためだけにそこまで頑張るのもメンドイ(やる気が出ない)」と思われるのでしたら素直に記述の除去を受け入れられるのがいいかと思います。--青子守歌会話/履歴 2008年5月27日 (火) 17:24 (UTC)
(2008年5月27日 (火) 14:21 (UTC)の続き)なんかなー、市の図書館にいって調べてもらったんだが、県内の図書館にないのな…『超クソゲー』。現在図書館側には県外の図書館に蔵書を得られないか捜索の範囲を広げてもらっているところだけど、この水準(県立レベルの公的図書館では見向きもされない)の書籍を果たして出典扱いして全幅の信頼を置いて執筆できるかどうか懐疑的になってきました…せいぜい「参考書籍」レベルなんじゃなかろうか。捜索手続きをしてくださった市図書館の職員さんに感謝するところではありますが…--夜飛/ 2008年5月28日 (水) 11:17 (UTC)
(青子守歌さん2008年5月27日 (火) 17:24 (UTC)ぶんへ)…えーっと、その発言は全く論理的ではない(それじゃ究極的には「粘ったモン勝ち」にしかならない)んですけど(=不毛)。貿易風さんは「クソゲー」という記事及び扱われている事物に何ら予備知識も情報もなく自ら捜索しないという一貫した立場で対話を精力的に続け「クソゲーの情報を持たない側」という視点を提供してくださったわけですし、Ks aka 98さんは一つの見解と具体的な図書名を示してくださるなど、堂々巡りのまま停滞してしまった議論に新風を吹き込んでくださったわけですが…青子守歌さんの場合は他人に出費や労力(時間もコストのうちですよ)を求めるような口を挟むばかりで、なんかモチベーションをごっそり持っていかれた気分です。図書館なんて手元に資料を購入し難い段階で誰でも思いつくって…(かなり無駄な時間を費やした気がしている今日この頃)--夜飛/ 2008年5月28日 (水) 11:17 (UTC)
とりあえず、私個人の言動に対する批判へのレスをここでしてしまうと話が「クソゲー」と関係なくなってこじれてしまうのでココでは触れないことにします(どうしても必要なのでしたら会話ページへお願いします)。ところで、今日ある本を買いに紀伊国屋書店に行ったのですが、ついでに何かいい情報源はないか探してきました。そしたらゲーム関係のコーナーに「超クソゲーrevolutions」を見つけたのですが、持ち合わせが少なかったのと他に買いたい本が見つかったので結局は手に入れられませんでした。が、一般の本屋にも置いてあるほどなのですから、そこまで悲観されるほどのものじゃないと思いますし(中身は見てないので信頼性についてはよく分かりませんでしたが・・・)、どちらにしても中身の信頼性はあってもなくてもご存知の通り「~には~書いてあった」と書くことが出来るわけですから資料探しは決して無駄にはならないと思います。それと、「記述の除去を受け入れたほうがいい」と言うのは「その記述を書くな」というわけではありません。後からきちんとした形で再投稿することは可能なわけですし、現時点で「ウィキペディアとしての情報水準」になってないわけですから、除去するのに反対する理由が私には見つけられません(『除去しろ』ではありません)。これが私の、この議論(あるいはこの記事全体)に対する立場だと理解してもらえればと思います。で、そういう立場から1点、夜飛さんへ質問があります。「サブカルチャーに厳格な出典を求めるのは困難だから」という以外で(これについては却下せざるを得ない、というのは理解いただけるかと思いますが)、他に何か「存続しておく必要がある」積極的理由があれば教えてください(一番最初にも書きましたが、私自身クソゲーの専門家でもなんでもない素人ですから、分かりやすく箇条書き等で書いていただけると助かります)。そうすることで、「その理由が妥当かどうか」という論点に絞っての議論が可能になるかと思います。--青子守歌会話/履歴 2008年5月28日 (水) 12:10 (UTC) (追記)上記質問はあくまで「情報源探しなどをしていない」場合においての質問なので、もし現時点で出典探しを熱心にされていて「返事する必要がない」と判断される場合は答えられなくても結構です。--青子守歌会話/履歴 2008年5月28日 (水) 16:56 (UTC)
少なくともAmazonで「超クソゲー」で検索してでてくる6つの資料([3])については、どれも国会図書館にあるようですのでだれでも閲覧できるはずです。
お金を払えば1つの著作物の半分までは複写してもらえたと思いますが、それぐらいなら中古をAmazonで注文したほうがよさそうです。
ある情報源がWikipediaで出典にできるかどうについては、アクセシビリティと情報源の信頼性という2つの観点が考えられますが、前者に関しては国会図書館に所蔵されている時点でクリアしてると思います(国会図書館になくたって国内のどこかしらの図書館や施設で閲覧可能な状態になっていればいちおうなんとかなるかと。revolutionsについては普通の本屋にもあるとのことですし)。信頼性については、青子守歌さんがおっしゃっているように、よほどひどいものでなければ「~では…とされている」という形で記述を載せられる余地があるので、やはり無駄にはならないと思います。--貿易風 2008年5月28日 (水) 16:37 (UTC)
(インデント戻し・青子守歌さんへ)「「サブカルチャーに厳格な出典を求めるのは困難だから」~「存続しておく必要がある」以外の積極的理由」に関しては何処をどう短絡したらそうなるのか頭を抱えます。せめて直近の発言くらいは(自分には関係ないなんぞと思わずに)読んでもらえないかな2008年5月27日23:21の小生の発言。ついでに言うと、最新刊を見かけたんなら小生が古本屋や図書館で浪費した時間の60分の1にも満たない2~3分程度ででも中身を確認してくれりゃよかったのに…とか思うことしきり。ナンか実がないことこの上ないので、本気で口挟まないでほしい気がします。--夜飛/ 2008年5月29日 (木) 11:45 (UTC)
(インデント戻し・貿易風さんへ)うーん、『超クソゲーrevolutions』は現在進行形で『超クソゲー』を図書館に頼んでいる手前、内容確認も後回しにしたいなーとか思ってます。というか現状では買うほどの価値が見いだせない(後で立ち読み程度はする可能性はないとは言えないけど)。少なくとも1998年刊行の書籍なら、前に貿易風さんが言及した「Wikipediaが初出じゃないのか」とかいう問題は除外できるでしょ?ところで単一の書籍を出展として全面的に記述することは如何様にいっても避けたいところ。過去に関与した場の空気という記事では、なんかとある方が単一資料に重点を置いて記述を差し替えられた結果、かなりビミョーというか悩ましい記事になっちゃったので…場の空気という概念(広辞苑の「空気」の項に3義目に「雰囲気」との説明があるが)が書籍としては1977年の『「空気」の研究』を初出とするということだが、本当に初出かどうかは自身の襟首引っ掴んで飛んでいくような話(その書籍自身を初出であることの出展として扱っている)になってるし。まあ見てない本の内容やそれを始点として行えそうなアクションに関してを現時点で論じるのもどうかと思うので、『超クソゲー』を実際にこの目で確認するまでは本案件に関しての事項を一時中断とします(ただし未決案件につき現状維持という前提で)。--夜飛/ 2008年5月29日 (木) 11:45 (UTC)
事実誤認があるようなので書きますが、「Wikipediaが初出か?」という話をはじめたのは僕じゃなくて夜飛さんの方です(「2008年4月28日 (月) 15:30」の発言([4])で、いきなり「どこで発生した語か」という話がでてきます)。その直前の「2008年4月28日 (月) 13:48」の発言([5])で、僕は「Wikipediaがはじめて言及した可能性」について述べていますが、これは文章を読んでもらえばわかるとおりに「外部の情報源でふれられていないもの(神ゲー、地雷といった言葉が使用されているという事実)に言及するのがWikipediaが初かもしれない」ということですので、言葉そのものの初出とは関係がありません。「2008年5月2日 (金) 16:26」の発言([6])でも書きましたが、言葉自体の初出がWikipediaってのは、出典を探して議論するまでもなくふつうに考えてありえないでしょう。
で、この問題についてはKs aka 98さんから「状況を示す情報源が必要だけれど、確固とした分析を情報源とするほどではないように思います」という見解をいただいています。それをふまえた僕の(いま現在の)意見としては、「『こういうところではこれこれこのように使われている』という事実をWikipediaで指摘するだけなら主要な用例だけでいいかもしれないけど、それ以上の分析・考察を加えるのであればそれについての出典を示して欲しい」と考えています。
前にも述べましたが現在進行形で出典を探されているのであればすぐに除去するつもりはないんで引き続きお願いします。
「単一の書籍を出展として全面的に記述することは如何様にいっても避けたい」については同意します。Wikipedia:信頼できる情報源にも複数の情報源を参照することを推奨する文章があったと思います。--貿易風 2008年5月29日 (木) 16:19 (UTC)