トク・テムル (荊王)

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トク・テムルモンゴル語: Toq temür中国語: 脱脱木児、生没年不詳)は、チンギス・カンの息子のオゴデイの子孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では荊王脱脱木児(tuōtuōmùér)と記される。

概要[編集]

オゴデイ・カアンの息子のコデンの玄孫のイェス・エブゲンの息子として生まれた[1]

後至元元年(1335年)には父のイェス・エブゲンの「荊王」位と、父が雲南方面に出征していた際に率いて居たマングライ(前衛)軍の指揮権を引き継ぎ、王府の官吏を設置した[2][3]

後至元3年(1337年)にはトガチの統治していたコデン・ウルス本国を受け継ぎ、妻のクルクイ(忽剌灰)とともにウルスを治めた[4]。後至元4年(1338年)には「元徳上輔広中宣義正節振武佐運功臣」の号が与えられた[5]

至正3年(1343年)以前にトク・テムルは亡くなり、後継者がいなかったためにコデン・ウルスの領地には永昌等処宣慰使司都元帥府が設置された[6]。至正14年(1354年)には「荊王ダルマシリ(答児麻失里)」が「コデン・アカ(闊端阿合=コデン家当主)」に代わって河西方面を治めたという記録が残る[7]が、この人物がどのような出自であるか、コデン家とどのような関係にあるか不明である[8]

コデン王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』に記されるトク・テムルに関する記述は錯綜しており、トク・テムルの出自・生涯については諸説ある。『元史』宗室世系表は「荊王脱脱木児」がトルイ家のソゲドゥの孫であるとするが、「荊王」はオゴデイ家のコデン・ウルス当主が帯びる称号であって、この記述は誤りである。また、同表は「荊王脱脱木児」の息子に「荊王也速不堅」がいるとするが、『元史』の本紀は「荊王也速不堅」の方が「荊王脱脱木児」よりも先に「荊王」として活躍していることを記録しており、実際には「荊王イェス・エブゲン(也速不堅)」が「荊王トク・テムル(脱脱木児)」の父にあたる。『元史』宗室世系表はソゲドゥの孫で「シリギの乱」の首謀者として名高いトク・テムルとコデン家のトク・テムルを同一人物と取り違え、更にその親子関係も間違えるという二重の誤謬を冒している(杉山2004,464頁)
  2. ^ 『元史』巻38順帝本紀1「[至元元年閏月]壬辰、詔宗室脱脱木児襲封荊王、賜金印、命掌忙来諸軍、設立王府官属」
  3. ^ トク・テムルが「荊王」位を受け継いだ時期についても諸説ある。『元史』には「[至元元年閏月]壬辰、宗室のトク・テムル(脱脱木児)に詔し荊王を襲封せしむ」と「トク・テムル(脱脱木児)に詔しトゴチ(脱火赤)の荊王位を襲わしむ」という記述があり、「トク・テムルが荊王になった」と記す記述は2つ存在する。この記述の整合性をとるため、屠寄は『蒙兀児史記』で前者の「脱脱木児」が「脱火赤」の誤記であるとし、「荊王」位はイェス・エブゲン→トガチ→トク・テムルと受け継がれたとする(杉山2004,461-462頁)。しかし杉山正明は屠寄の説を批判し、前者の記事はイェス・エブゲンの率いるマングライ(前衛)軍の指揮権を引き継いだことを、後者の記事はトガチが統治していたコデン・ウルスの本領を引き継いだことを示しているのであろう、と述べている。
  4. ^ 『元史』巻39順帝本紀2「[至元三年十一月]丁巳……詔脱脱木児襲脱火赤荊王位、仍命其妃忽剌灰同治兀魯思事」
  5. ^ 『元史』巻39順帝本紀2「[至元四年十二月]庚戌、加荊王脱脱木児元徳上輔広中宣義正節振武佐運功臣之号」
  6. ^ 『元史』巻91志41百官7「永昌等処宣慰使司都元帥府。至正三年七月、中書省奏『闊端阿哈所分地方、接連西番、自脱脱木児既没之後、無人承嗣。達達人口頭匹、時被西番刼奪殺傷、深為未便』。遂定置永昌等処宣慰使司都元帥府以治之、置宣慰使三員・同知二員・副使二員」
  7. ^ 『元史』巻43順帝本紀6「[至正十四年五月]是月……命荊王答児麻失里代闊端阿合鎮河西、討西番賊」
  8. ^ 杉山正明は仮説の1つとして西安王アラトナシリの弟のダルマと同一人物ではないかと述べている(2004,464頁)

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 新元史』巻111列伝8
  • 蒙兀児史記』巻37列伝19