イェス・エブゲン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

イェス・エブゲンモンゴル語: Yes ebügen中国語: 也速也不干、生没年不詳)は、オゴデイの息子のコデンの子孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では也速也不干(yěsùyěbúgān)と記される。

出自[編集]

『元史』宗室世系表によると、コデン家のクルク(曲列魯)の息子のベク・テムル(別帖木児)の息子として生まれたという。

クルクは『元史』宗室世系表ではコデンの息子とされるが、ペルシア語史料の『集史』や『五族譜』などの記述からコデンの孫とするのが正しいと考えられている[1]。クルクの事蹟については不明な点が多く、僅かに大徳7年(1303年)に鈔幣を与えられたことが記録されているに過ぎない[2]

クルクの息子のベク・テムルについては更に情報が少なく、延祐7年(1320年)に「汾陽王」に封ぜられたことしか知られていない。なお、『元史』宗室世系表ではトルイ家のソゲドゥの家系に「荊王也速不堅(イェス・エブゲン)」の名を入れるが、これはソゲドゥの孫で「シリギの乱」の首謀者であるトク・テムルとコデン家の荊王トク・テムルを同一人物と誤解したもので、史実とは異なる[3]

生涯[編集]

イェス・エブゲンが史料上に登場し始めるのは延祐4年(1317年)からで、この時3月分の糧食を与えられている[4]

泰定元年(1324年)、イェスン・テムルがカアンに即位すると、イェス・エブゲンは最高位の荊王に封ぜられ、金印を与えられた[5]。泰定4年(1327年)には古くから領土を接しているコンギラト部チグゥ家の岐王鎖南管卜から領地を侵していることを訴えられ、朝廷の介入を経て領地を返却させられている[6]

天暦元年(1328年)、イェスン・テムルが亡くなりカアン位をめぐって天暦の内乱が勃発すると、イェス・エブゲンは大都派として参戦し、襄陽一帯を確保した[7]斉王オルク・テムルらの上都攻略により大勢が結した頃、イェス・エブゲンは河南白馬寺に駐屯し、上都派の降伏を受け容れた[8]。結果として内乱は大都派の勝利に終わり、即位したジャヤガトゥ・カアン(文宗トク・テムル)の下でイェス・エブゲンは息子のトク・テムルとともに地位を保つことができた[9][10]

至順2年(1331年)には雲南における叛乱軍の残党の活動を抑えるため、雲南に駐屯することになった[11][12]

ジャヤガトゥ・カアンの死後、リンチンバルを経てウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)が即位して直後、イェス・エブゲンも亡くなり息子のトク・テムルが後を継いだ[13]

コデン王家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 杉山2004,465-469頁
  2. ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳七年秋七月]乙酉……賜諸王曲而魯等部鈔幣有差」
  3. ^ 杉山2004,460-462頁
  4. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐四年正月]戊辰、給諸王也速也不干・明安答児部糧三月」
  5. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年]九月乙酉、封也速不堅為荊王、賜金印」
  6. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年秋七月]癸亥……岐王鎖南管卜訴荊王也速也不干侵其分地、命甘粛行省閲籍帰之」
  7. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年十一月]丁丑……荊王也速也不干遣使伝檄至襄陽、鉄木哥引兵走」
  8. ^ 『元史』巻137列伝24阿礼海牙伝「[至正十四年五月]会有使者自京師還、言斉王已克上都、奉天子宝璽来帰、刻日至京矣……西人殺其従者之半、械都護以送諸荊王所。荊王時在河南之白馬寺、以是西人雖未解散、各已駭悟」
  9. ^ 『元史』巻34文宗本紀3,「[至順元年春正月]丁丑……召荊王之子脱脱木児赴闕」
  10. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年二月]甲戌……荊王也速也不干貢犛牛」
  11. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[至順二年夏四月]壬戌、枢密院臣言『雲南事已平、鎮西武靖王搠思班言、蒙古軍及哈剌章・羅羅斯諸種人叛者、或誅或降、雖已略定、其餘党逃竄山谷、不能必其不反側、今請留荊王也速也不干及諸王鎖南等各領所部屯駐一二歳、以示威重』。従之」
  12. ^ 『元史』巻35文宗本紀4,「[十一月]癸未……荊王也速也不干犛牛四百」
  13. ^ 『元史』巻38順帝本紀1「[至元元年閏月]壬辰、詔宗室脱脱木児襲封荊王、賜金印、命掌忙来諸軍、設立王府官属」

参考文献[編集]

  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
  • 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
  • 新元史』巻111列伝8
  • 蒙兀児史記』巻37列伝19