デイヴィッド・オグルヴィ (第5代エアリー伯爵)
第5代エアリー伯爵[注釈 1]デイヴィッド・グラハム・ドラモンド・オグルヴィ(英語: David Graham Drummond Ogilvy, 5th Earl of Airlie KT、1826年5月4日 – 1881年9月25日)は、イギリスの貴族、政治家。スコットランド貴族代表議員(在任:1850年 – 1881年)、スコットランド教会総会への勅使(在任:1872年 – 1873年)を務めた[2]。
生涯
[編集]第4代エアリー伯爵デイヴィッド・オグルヴィと1人目の妻クレメンティナ(Clementina、旧姓ドラモンド(Drummond)、1835年9月1日没、ギャヴィン・ドラモンドの娘)の次男(長男ウォルターは1824年に夭折)として、1826年5月4日にロンドンで生まれた[2]。1843年11月9日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1847年にB.A.の学位を修得した[4]。1849年8月20日に父が死去すると、エアリー伯爵位を継承した[2]。
1850年1月31日にスコットランド貴族代表議員に当選[5]、以降再選を繰り返し、1881年に死去するまで務めた[2][6]。
1847年6月5日、フォーファーシャーの副統監に任命された[7]。1856年5月3日、フォーファーシャー・ヨーマンリー連隊の大尉に任命された[8]。1860年9月17日、第12フォーファーシャー・ライフル志願兵連隊(12th Forfarshire Rifle Volunteers)の大尉に任命された[9]。1865年3月14日にフォーファーシャー・ライフル志願兵連隊第2大隊(2nd Administrative Battalion of Forfarshire Rifle Volunteers)の副隊長(中佐)に任命され[10]、1868年7月に辞任した[11]。
1872年5月1日と1873年5月3日にスコットランド教会総会への勅使に任命された[12][13]。
1878年時点でフォーファーシャーに約65,000エーカーの、パースシャーに約5,000エーカーの領地を所有し、合計で年収28,000ポンド以上相当だった[2]。
1879年、グラスゴー大学よりLL.D.の学位を授与された[2]。
1881年9月25日に米国コロラド州デンバーで死去、息子デイヴィッド・スタンリー・ウィリアムが爵位を継承した[2]。
家族
[編集]1851年9月23日、ヘンリエッタ・ブランシュ・スタンリー(Henrietta Blanche Stanley、1830年7月3日 – 1920年1月5日、第2代アルダリーのスタンリー男爵エドワード・スタンリーと妻ヘンリエッタ・マリアの娘)と結婚[2][14]、2男4女をもうけた[1]。
- ヘンリエッタ・ブランシュ(1852年11月8日 – 1925年4月23日) - 1873年9月28日、サー・ヘンリー・モンタギュー・ホジアーと結婚、子供あり[1]
- クレメンティナ・ガートルード・ヘレン(1854年6月19日 – 1932年4月30日) - 1874年12月31日、初代リーズデイル男爵アルジャーノン・フリーマン=ミットフォードと結婚、子供あり[1]
- デイヴィッド・スタンリー・ウィリアム(1856年1月20日 – 1900年6月1日) - 第6代エアリー伯爵[2]
- モード・ジョセファ(Maude Josepha、1859年11月16日 – 1933年4月3日) - 1886年10月12日、セオドア・ジョージ・ウィリアム・ワイト(Theodore George William Whyte、1903年3月29日没、ジョン・ジェームズ・ワイトの次男)と結婚、子供あり[1]
- ライルフ・ギルクリスト(Lyulph Gilchrist、1861年6月25日 – 1947年4月) - 1902年8月27日、イーディス・ガートルード・ブースロイド(Edith Gertrude Boothroyd、フィリップ・ヘンリー・ブースロイドの娘)と結婚、1男1女をもうけた[1]
- グリゼルダ・ジョハンナ・ヘレン(1865年12月20日 – 1934年2月12日) - 1897年12月22日、ジェームズ・チープ(James Cheape、1943年7月21日没)と結婚、子供あり[1]
注釈
[編集]- ^ エアリー伯爵位は3代伯爵の長男ジェームズがジャコバイトとして1715年ジャコバイト蜂起に参加して、1716年に私権剥奪されたため、1717年に3代伯爵が死去したときにジェームズが爵位継承を認められなかった経歴がある[1]。ジェームズの弟ジョンの曽孫デイヴィッド(1785年 – 1849年、本項で「4代エアリー伯爵」とされる人物)の代になって、1826年の議会立法により1716年の私権剥奪が取り消され、デイヴィッドが爵位継承を認められた[1][2]。『完全貴族名鑑』と『バーク貴族名鑑』第106版(1999年)は1717年と1826年の間の爵位請求者を数えず、本項の人物を「5代エアリー伯爵」とした[1][2]。『スコッツ貴族名鑑』では1717年と1826年の間の爵位請求者のうち、エアリー伯爵の称号を使用した人物のみを数え、本項の人物を「7代エアリー伯爵」とした[3]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i Mosley, Charles, ed. (1999). Burke’s Peerage and Baronetage (英語). Vol. I (106th ed.). London: Burke's Peerage Limited. p. 45. ISBN 2-940085-02-1。
- ^ a b c d e f g h i j k l Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 74–75.
- ^ Paul, James Balfour, Sir, ed. (1904). The Scots Peerage (英語). Vol. I. Edinburgh: David Douglas. p. 131.
- ^ Foster, Joseph (1888–1892). . Alumni Oxonienses: the Members of the University of Oxford, 1715–1886 (英語). Vol. 3. Oxford: Parker and Co. p. 1037. ウィキソースより。
- ^ "No. 21064". The London Gazette (英語). 1 February 1850. p. 278.
- ^ "No. 25050". The London Gazette (英語). 20 December 1881. p. 6757.
- ^ "No. 20744". The London Gazette (英語). 15 June 1847. p. 2179.
- ^ "No. 6615". The Edinburgh Gazette (英語). 18 July 1856. p. 627.
- ^ "No. 22428". The London Gazette (英語). 28 September 1860. p. 3516.
- ^ "No. 22953". The London Gazette (英語). 31 March 1865. p. 1801.
- ^ "No. 23399". The London Gazette (英語). 10 July 1868.
- ^ "No. 23854". The London Gazette (英語). 3 May 1872. p. 2146.
- ^ "No. 23973". The London Gazette (英語). 6 May 1873. p. 2287.
- ^ Cokayne, George Edward; Hammond, Peter W., eds. (1998). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Addenda & Corrigenda). Vol. 14 (2nd ed.). Stroud: Sutton Publishing. p. 14.
外部リンク
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