スタンウェル・プレイス

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スタンウェル・プレイス
Stanwell Place
1944年撮影
地図
概要
用途 下塗り煉瓦造
所在地 スタンウェル
座標 北緯51度27分32秒 西経0度29分28秒 / 北緯51.459度 西経0.4912度 / 51.459; -0.4912
完成 19世紀はじめ
解体 1960年代
寸法
他の寸法 およそ30室
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スタンウェル・プレイス (Stanwell Place) は、かつてミドルセックス州(現在はサリー州)スタンウェルの集落の西にあった屋敷(マナー・ハウス)、ないしは、それに付随した広大な土地(エステート)、小作農場の総称。17世紀から建設が始まり、20世紀半ばに大部分が貯水池建設のために売却されたほか、小さな区画に分割売却されて無くなった。

スタンウェルの集落から半マイルほど西へ離れた、パーク・ロードの北側にある敷地には、17世紀にはマナー・ハウスが存在していた[1]。この敷地にあった最後の建物は、1754年から1933年までマナーの諸権利を保有していたギボンズ家 によって、19世紀初めに建てられたとされている。建物は2階建てで、セメントが塗られ、パラペットの背後には緩い傾斜の屋根があった。後から増築された西翼は煉瓦作りで、付随する小屋などの中には主屋より古いものもあった。

周囲の庭は18世紀に作庭された。スタンウェル・プレイスへのいくつかの門があったあたりでパーク・ロードが大きく曲がっているのは、おそらくは、1760年にサー・ジョン・ギボンズ (Sir John Gibbons) がこの道の線形を変更したためであろう。1771年にギボンズ家はバラ・フィールド (Borough Field) を囲い込み、庭の範囲は東はオークス・ロード (Oaks Road) まで、北はバラ・グリーン (Borough Green) まで広がり300エーカー (1.2 km2)以上の広さになった。しかし、その後は徐々に規模が縮小した[2][3]

ギボンズ家は1933年に、土木技術者ジョン・ウィルター・ギブソン (John Watson Gibson) に、スタンウェル・プレイスを売却した。ギブソンはスタンウェルに移り住み、リトルトン (Littleton) で、(当時は世界最大の貯水池であった)クイーン・メアリ貯水池 (Queen Mary Reservoir) の建設に従事していた。ギブソンは、当初スタンウェル・ロッジに住んだが、90エーカー(36ヘクタール)のスタンウェル・プレイスと、付属する261エーカー(104ヘクタール)の農場(Stanhope farm、Hammonds farm)を購入した[4]1936年、首都水道局 (Metropolitan Water Board) はギブソンのエステートの大部分にあたる、契約書によれば346エーカー(138ヘクタール)の土地を買い上げた[5]。.1947年には、この土地を使ってジョージ6世貯水池 (King George VI Reservoir) が開発された[4]

第二次世界大戦中の1943年から1944年にかけて、ギブソンは軍需省で土木技術担当の事務総長特別補佐 (deputy director-general civil engineering (special)) となり、当時極秘事項であったマルベリー・ハーバー (Mulberry harbour) の建造に関わった中心人物のひとりとなった。こうした経緯から、ギブソンは自宅であったスタンウェル・プレイスを連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force, SHAEF) の司令官たちに提供し、ノルマンディー上陸作戦の決行日 (D-Day) に向けた最高級の会議が2回、ここで開催された。出席した米軍司令官たちヘンリー・スティムソン陸軍長官)、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長、大将)、ドワイト・D・アイゼンハワー(連合軍最高司令官、元帥)、アーネスト・キング(海軍作戦部長、合衆国艦隊司令長官、大将)、ヘンリー・アーノルド陸軍航空軍、大将)らは、会議の期間中スタンウェル・プレイスに滞在した[6]

1947年にギブソンが亡くなると、翌1948年に、スタンウェル・プレイスの住居部分22エーカー(9ヘクタール)はイラク王国の国王ファイサル2世 (King Faisal II of Iraq) に売却された[3]。ギブソンの息子たちは、スタンホープ農場 (Stanhope farm) の17エーカー(7ヘクタール)を引き続き所有した[5]。1958年に国王が暗殺され[3]、エステートはその後、砂利採取場とするために売却された。地域住民による保存運動もあったものの屋敷は荒廃し、1960年代に建物は撤去された。

出典・脚注[編集]

  1. ^ Google Maps – Location of Stanwell Place (Map). Cartography by Google, Inc. Google, Inc.
  2. ^ A History of the County of Middlesex: Volume 3: Shepperton, Staines, Stanwell, Sunbury, Teddington, Heston and Isleworth, Twickenham, Cowley, Cranford, West Drayton, Greenford, Hanwell, Harefield and Harlington”. pp. 33-36 (1962年). 2012年3月21日閲覧。
  3. ^ a b c A History of the County of Middlesex: Volume 3: Shepperton, Staines, Stanwell, Sunbury, Teddington, Heston and Isleworth, Twickenham, Cowley, Cranford, West Drayton, Greenford, Hanwell, Harefield and Harlington”. pp. 36-41 (1962年). 2012年3月21日閲覧。
  4. ^ a b Local List - Statement of Public Consultation. Stanwell Borough Council. (December 2003) 
  5. ^ a b Reynolds, Susan (1962年). “A History of the County of Middlesex: Volume 3”. british-history.ac.uk. 2010年1月2日閲覧。
  6. ^ "Burial Monument of Sir John Gibson" inLocal List of Buildings and Structures of Architectural or Historic Interest” (PDF). Spelthorne Borough Council (2004年2月). 2012年3月21日閲覧。