ジェイムズ・ダグラス (第2代ダグラス侯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェイムズ・ダグラス
James Douglas
第2代ダグラス侯
在位 1660年 - 1700年

出生 1646年
死去 1700年2月25日
配偶者 バーバラ・アースキン
  メアリ・カー
子女 ジェイムズ
ウィリアム
アーチボルド
ジェイン英語版
家名 ダグラス家
父親 アーチボルド・ダグラス英語版
母親 アン・ステュアート
テンプレートを表示

第2代ダグラス侯爵ジェイムズ・ダグラス(James Douglas, 2nd Marquess of Douglas、1646年頃 – 1700年2月25日[1]は、アンガス伯爵英語版で、初代オーモンド侯爵となったアーチボルド・ダグラス英語版(初代ダグラス侯爵ウィリアム英語版の息子)と、レディ・アン・ステュアート(Lady Anne Stuart)の間に生まれた息子。

生涯[編集]

第2代ダグラス侯爵ジェイムズは、1646年に生まれ、1660年に祖父のダグラス侯爵位を相続し、チャールズ2世ジェームズ7世(イングランド王ジェームズ2世)の下でスコットランド枢密院英語版議員を務めた。第2代侯爵ジェイムズは、 1700年2月25日に、数えで54歳で亡くなった。長男ジェイムズ英語版、後のアンガス伯爵は1671年に生まれ、長じて1689年に国への奉仕に従い、今では第26歩兵連隊とかキャメロニアン連隊英語版と呼ばれている1,800人の連隊で、同年4月19日に大佐に任じられた。彼は数々の活躍をした後、1692年8月3日ステーンケルケの戦いに倒れた。数えで21歳、独身であった。彼の異母弟で第2代侯爵の次男ウィリアム(William)もアンガス伯爵位にあったが、1694年に夭折した。このため第2代侯爵の3番目の息子アーチボルドが第3代の侯爵となった[2]

ダグラスの最初の結婚は1670年で、相手は第20代マー侯爵ジョン・アースキン(John Erskine, 20th Earl of Mar)とジーン・マッケンジー(Jean Mackenzie)の娘、レディ・バーバラ・アースキン(Lady Barbara Erskine)であった。後に、ダグラスは、初代ロジアン侯爵ロバート・カーとレディ・ジーン・キャンベル(Lady Jean Campbell)の娘、メアリ・カー(Mary Kerr)と再婚した。

ジェイムズ・ダグラスとバーバラ・アースキンの結婚が破局する話は、人気の高いバラッドワリー・ワリー(Waly Waly)」によって伝承されており、このバラッドは、「Jamie Douglas」、「When Cockleshells Turn Silver Bells」、「Water Is Wide」など多数の異なる題名でも知られ、多数の異なる歌詞や旋律で歌われている。歌詞の内容を信じるなら、1681年にローリー・オブ・ブラックウッド(Lowrie of Blackwood)から、ダグラスの耳に、妻アースキンが他の男と寝ているという噂が伝えられ、ダグラスは即座に妻を離縁したのだという。妻は実家の父に連れ帰られ、その後にも再婚しなかった[3]

ダグラス侯爵は、若い男、結婚すべき許嫁がいた お相手は、ウィドウ・ジャック(Widow Jack)という名のパースの宿屋の主人の娘だったが アバ・ハウス(Aba House)で、レディ・バーバラ・アースキンというマー伯爵の娘と結婚した

これは、レディにとっては不幸な結婚だった。侯爵は 道楽者で、取り巻きのローリー・ オブ・ブラックウッド(かつてレディに求婚して拒まれた男とされる)から 夫人の不貞を吹き込まれ、その挙げ句に夫妻は 夫人がひとりの息子を生んだ後に、離婚することになった。悲しみの ダグラス侯爵夫人は、人々の間に広まった、当時のバラッドで描かれ その歌詞の一部は広く愛唱される「ウェイリー・ウェイリー」となっている。

‘O wherefore should I busk my head,
Or wherefore should I kaim my hair,
Since my true love has me forsook,
And says he‘ll never love me mair.
Now Arthur’s Seat shall be my bed,
The sheets shall ne’er be pressed by me,
St Anton’s Well shall be my drink,
Since my true love’s forsaken me.
O Martinmas wind, when wilt thou blaw,
And shake the green leaf aff the tree?
O gentle death, when wilt thou come,
And take a life that wearies me?’


この物語の散文的な事実は、侯爵夫人の側が、自身に有利な枢密院の布告を徐々に獲得して、夫の資産の一部を得たというのが実際であった。侯爵は、再婚によって、精神にある程度の障害があった初代ダグラス公アーチボルドと、高名なレディジェイン・ダグラス英語版の父親となった[4]

出典[編集]

  1. ^ David Menarry, ‘Douglas, James, second marquess of Douglas (c.1646–1700)’, Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004.
  2. ^ Anderson, William (1863). The Scottish Nation or the Surnames, Families, Literature, Honours and Biographical History of The People of Scotland. http://www.electricscotland.com/history/nation/douglas.htm 
  3. ^ Grant, James (1885). Cassell's Old and New Edinburgh. 4. London, Paris & New York: Cassell Petter, Calpin & Co. pp. 319,320 
  4. ^ Chambers, Robert (September 1670). Domestic Annals of Scotland. II. http://www.electricscotland.com/history/domestic/vol2ch4d.htm  Website of Electric Scotland
スコットランドの爵位
先代
ウィリアム
ダグラス侯爵
1660年 - 1700年
次代
アーチボルド