クロード2世 (オマール公)

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ヴェルサイユ宮殿の戦士回廊に置かれたオマール公クロードの胸像

クロード2世・ド・ロレーヌClaude II de Lorraine, marquis de Mayenne, duc d'Aumale, 1526年8月18日 - 1573年3月3日)は、フランスの上級貴族ギーズ公爵家の一員で、マイエンヌ侯爵及びオマール公爵(在位:1550年 - 1573年)。スコットランドジェームズ5世マリーは姉、ギーズ公フランソワ、ロレーヌ枢機卿シャルルは兄、エルブフ侯ルネ2世は弟。

生涯[編集]

ギーズ公及びオマール公クロード1世とその妻でヴァンドーム伯フランソワの娘であるアントワネット・ド・ブルボンの間の4男として生まれた。

1544年より従兄のロレーヌ公フランソワ1世の軍隊に入り、1545年のブローニュ包囲戦(Siège de Boulogne)や、1551年のフランス軍によるピエモンテ遠征に参加した。翌1552年メストゥールヴェルダンの3司教領(Trois-Évêchés)の占領にも加わったが、この時神聖ローマ皇帝カール5世の側に寝返ったブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスの捕虜となり、1555年までクルムバッハプラッセンブルク城に幽閉されていた。1558年、兄のギーズ公フランソワの指揮したカレー占領に参加している。

クロード2世はその後、フランス王アンリ2世によってブルゴーニュ地方の知事に任命された。1572年サン・バルテルミの虐殺にあたって甥のギーズ公アンリ1世が中心的な役割を果たした際には、甥を支援している。1573年のラ・ロシェル包囲戦の戦場に、アンジュー公(後のフランス王アンリ3世)のお供として随行した際、大砲の弾に当たって戦死した。

子女[編集]

1547年8月1日、アンリ2世の愛妾であるヴァランティノワ公爵夫人、エタンプ公爵夫人ディアーヌ・ド・ポワチエとその夫のモレヴリエ伯ルイ・ド・ブレゼの間に生まれた娘ルイーズ(1518年 - 1577年)と結婚し、間に11人の子女をもうけた。

  • アンリ(1549年 - 1559年) - ヴァランティノワ伯
  • カトリーヌ(1550年 - 1606年) - 1569年、メルクール公ニコラと結婚
  • マドレーヌ(1554年)
  • シャルル(1555年 - 1631年) - オマール公
  • ディアーヌ(1558年 - 1586年) - 1576年、ピネ公爵フランソワ・ド・リュクサンブールと結婚
  • アントワネット(1560年)
  • アントワネット・ルイーズ(1561年 - 1643年) - ソワソン女子修道院長
  • アントワーヌ(1562年)
  • クロード(1564年 - 1591年) - シャルトルのサン=ペル修道院長
  • マリー(1565年 - 1627年) - シュル女子修道院長
  • シャルル(1566年 - 1568年)

脚注[編集]

参考文献[編集]

関連項目[編集]

先代
フランソワ
オマール公
1550年 - 1573年
次代
シャルル