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ギュンター兄弟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ギュンター兄弟
Siegfried and Walter Günter
ジークフリート(左)とエルンスト・ハインケル(右)(1941年)
生誕 (1899-12-08) 1899年12月8日
ドイツの旗 ドイツ帝国
テューリンゲン地方
死没 (ジークフリート) (1969-06-19) 1969年6月19日(69歳没)
(ヴァルター) (1937-09-21) 1937年9月21日(37歳没)
西ドイツの旗 西ドイツ
西ベルリン(ジークフリート)
国籍 西ドイツの旗 西ドイツ
教育 ハノーファー大学
業績
専門分野 航空エンジニアリング
勤務先 ドイツ・バウマー航空社
同・ハインケル
設計 ハインケル社の各種機体
ほか
成果 楕円翼機の実用化
ジェット機の世界初飛行
有人ロケット機の世界初飛行
超音速V/STOL機を開発
ほか
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ジークフリート・ギュンター(Siegfried Günter, 1899年12月8日 - 1969年6月19日)とヴァルター・ギュンター(Walter Günter, 1899年12月8日 - 1937年9月21日)の双子の兄弟は、ドイツの航空技術者である。

来歴

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戦前

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ジークフリートとヴァルター・ギュンターは1899年12月8日に生まれた。2人とも第一次世界大戦に従軍し英軍の捕虜になった。戦後、兄弟はハノーファー大学で工学を学んだ。

2人は、友人のヴァルター・メルテンス(Walter Mertens)、ヴェルナー・マイヤー=カッセル(Werner Meyer-Cassel)と共にグライダー製作し、ヴァッサークッペ(Wasserkuppe)で飛行させた。その様子を見て感銘を受けたバウマー航空(Bäumer Aero)の代表パウル・バウマー(Paul Bäumer)は、4人の才能を認めて、ベルリンにある自分の会社に招いた。彼らはそこでモーターグライダーや、流行し始めていた高速スポーツ機を設計した(この中の1機でバウマーは1928年に事故死した)。

ハインケル入社
He70の模型
1931年エルンスト・ハインケルは、ギュンター兄弟をロストックハインケル社に招聘した。兄弟はそこでHe51He70He111を含む、ハインケル社で特に有名な機種の幾つかを設計した。特にHe70は、楕円翼機の雛形として評価された。また、発展型としてHe112も試作している。しかし出世途上半ばの1937年9月21日、ヴァルターが交通事故に遭い亡くなってしまう。

戦中〜戦後

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試作型 He100V-1
大戦期
社内の地位を確立したジークフリートは、先進的な機体の設計にも携わるようになる。大戦前にチーフデザイナーとして従事した試作機He100は、670km/hという当時としては驚異的な速度を記録した。ジェット機ロケット機開発にも関わり、He178He280He162He176などがある。しかし採用競争でメッサーシュミット社に敗れる場合が多く、野心作の域を出なかった。ほか、大型機では、He177He219などが制式採用されている。
戦後
V/STOL試作機 EWR VJ 101
戦後ジークフリートは、ベルリンで義父の経営するカーショップで働いていたが、1948年ソビエト連邦のエージェントに誘拐・連行されて、同国の航空機設計の協力を強いられた。これによりジークフリートがソビエトのMiG-15戦闘機の開発に携わったという、冷戦時代の都市伝説が生まれたが、本人は常にこれを否定していたエピソードがある。
1952年東ドイツに帰国。1年後には西ドイツに移り、再びハインケル社で働き始めた。彼はそこで世界初の超音速V/STOL機のEWR VJ 101とV/STOL輸送機VC 400の開発に携わった。両機ともに試作の段階までで量産には至らなかった。
1969年6月19日、ジークフリートは西ベルリンで死去。

伝記

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Siegfried Günter