ウィリアム・アスター (初代アスター子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
初代アスター子爵ウィリアム・アスター

初代アスター子爵ウィリアム・ウォルドーフ・"ウィリー"・アスター英語: William Waldorf "Willy" Astor, 1st Viscount Astor1848年3月31日 - 1919年10月18日)は、アメリカイギリスの実業家、政治家、外交官、貴族。アメリカの財閥アスター家の一族。

経歴[編集]

1848年3月31日アメリカ合衆国ニューヨークに生まれる。父はジョン・ジェイコブ・アスター3世英語版。母はシャーロッテ・オーガスタ・アスター(旧姓ギブス)(Charlotte Augusta Gibbes)[1]

コロンビア大学を卒業し、1875年にアメリカの弁護士資格を取得[1]1878年ニューヨーク州議会下院議員英語版に選出され、ついで1881年にはニューヨーク州議会上院議員英語版に選出された[2]。1882年から1885年にかけてはイタリア駐在の米国公使 (Minister) を務めた[2][3]

1890年に父が死去するとアスター家の家長となり、1億ドルともいわれる遺産を相続したが、同年にイギリスへ移住した[3]1893年には『ペル・メル・ガゼット英語版』と『ペル・メル・マガジン英語版』の所有者となった[2][3]。同年、ウォルドルフ=アストリアの前身の一つとなる「ウォルドルフ・ホテル」をマンハッタンに建設。

1899年7月1日に帰化してイギリス臣民となる[3]。慈善事業や大学への巨額の寄付を行った功績で[3]1916年1月26日には連合王国貴族爵位カウンティ・オブ・ケントにおけるヒーヴァー城のアスター男爵(Baron Astor, of Hever Castle in the County of Kent)[4]、1917年6月23日には連合王国貴族爵位カウンティ・オブ・ケントにおけるヒーヴァー城のアスター子爵(Viscount Astor, of Hever Castle in the County of Kent)に叙せられた[5][1]

1919年10月18日サセックスブライトンで死去した[2]。爵位は長男のウォルドーフ・アスターが継承した[1]

家族[編集]

1878年6月6日にジェイムズ・ウィリアム・ポール(James William Paul,)の娘メアリー・ダルグレン・ポール(Mary Dahlgren Paul, 生年不詳-1894)と結婚。彼女との間に以下の5子を儲ける[1]

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e Heraldic Media Limited. “Astor, Viscount (UK, 1917)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2017年12月16日閲覧。
  2. ^ a b c d Turner, John. "Astor, William Waldorf, first Viscount Astor". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/37131 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ a b c d e "Astor, William Waldorf" . Collier's New Encyclopedia (英語). 1921.
  4. ^ "No. 29454". The London Gazette (英語). 28 January 1916. 2021年8月15日閲覧
  5. ^ "No. 30156". The London Gazette (英語). 29 June 1917. 2021年8月15日閲覧

外部リンク[編集]

ニューヨーク州下院英語版
先代
エリオット・コーディン
ニューヨーク州議会下院議員英語版
ニューヨーク郡11地区選出

1878年
次代
ジェイムズ・バーナム
ニューヨーク州上院英語版
先代
ダニエル・B・セント・ジョン英語版
ニューヨーク州議会上院議員英語版
10地区選出

1880年–1881年
次代
ジョゼフ・コーク
イギリスの爵位
爵位創設 初代アスター子爵
1917年–1919年
次代
ウォルドーフ・アスター
初代アスター男爵
1916年–1919年