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アーネスト・プロクター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アーネスト・プロクター
Ernest Procter
アーネスト・プロクター作、第一次世界大戦中のカマボコ型兵舎
生誕 (1885-03-22) 1885年3月22日
イギリス、タインマウス(Tynemouth)
死没 1935年10月21日(1935-10-21)(50歳没)
イギリス、ノース・シールズ(North Shields)
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'アーネスト・プロクター(Ernest Procter ARA、1885年3月22日 - 1935年10月21日)は、イギリスの画家、イラストレーターである。 イングランドのコーンウォールの漁村、ニューリンで「ニューリン派」の画家、スタンホープ・フォーブス夫妻らが開いた美術学校で学んだ画家である。後にグラスゴー美術学校の教師にもなった[1][2]

略歴

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イングランド北東部のタイン・アンド・ウィアのタインマウス(Tynemouth)で生まれた。父親のヘンリー・リチャードソン・プロクターは科学者でウェスト・ヨークシャーリーズ大学の教授を務めた人物である.[1][3]クエーカー教徒であった父親と同じく、ヨークのクエーカー教徒の学校で学んだ後、「ニューリン派」と呼ばれる多くの画家たちが集まっていたコーンウォールのニューリンでスタンホープ・フォーブスエリザベス・フォーブスが開いていた美術学校の生徒となった。優秀な学生として知られるようになり、フォーブス夫妻の助手を務めるようになり、学校の発行した出版物にも寄稿した[1][2] 。フォーブス家で後に結婚することになるドリス・(ドッド)・ショー(1890-1972)と知り合った[2][3]

1910年と1911年にパリに滞在しアカデミー・コラロッシで学んだ。同時期にドッド・ショーも母親とパリにでてアカデミー・コラロッシで学んでいた。1912年にドリスとパリで結婚式を挙げた[1][2][4]。第一次世界大戦が始まるが、プロクターは「良心的兵役拒否者」として、1918年までフランスに滞在し、クエーカー教徒によって組織された救護隊(Friends' Ambulance Unit)のメンバーとして働いた[5]

第一次世界大戦が終わると、ニューリンに戻り1920年に友人の画家ハロルド・ハーヴィー(Harold Harvey: 1874–1941)と、ニューリンに美術学校(Harvey-Procter School)を開いた[1][6]。水彩や油彩での静物画や人物画、風景画を教えた。1919年から1920年に妻のドッド・プロクターとビルマのヤンゴンの宮殿(Kokine Palace)の装飾の仕事をした。

1932年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの準会員に選ばれた。1934年にグラスゴー美術学校の工芸部門の部長(Director of Studies in Design and Craft)に任命された[1][3]が翌年タイン・アンド・ウィアのノース・シールズ(North Shields)で亡くなった。

作品

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参考文献

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  1. ^ a b c d e f Ernest Procter. Cornwall Artists. Retrieved 2 October 2012.
  2. ^ a b c d Ernest Procter. Brown University, The Modernists Journal Project. Retrieved 3 October 2012.
  3. ^ a b c Ernest Procter Archived 2 September 2012 at the Wayback Machine. Penlee House Gallery and Museum. Retrieved 3 October 2012.
  4. ^ Dod Procter Cornwall Artists. 3 October 2012.
  5. ^ Some of his records as a member of the FAU (indexed as Proctor <sic>) are now available at http://fau.quaker.org.uk/search-view?forename=&surname=proctor
  6. ^ Ernest Procter Archived 2 October 2012 at the Wayback Machine. Art Magick. Retrieved 3 October 2012.