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アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルク
Anna Maria von Pfalz-Neuburg

出生 (1575-08-18) 1575年8月18日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
プファルツ=ノイブルク公領、ノイブルク・アン・デア・ドナウ
死去 (1643-02-11) 1643年2月11日(67歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=アルテンブルク公領、ドルンブルク
埋葬 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=アルテンブルク公領アルテンブルク、兄弟教会
配偶者 ザクセン=ヴァイマルフリードリヒ・ヴィルヘルム1世
子女 本文参照
家名 プファルツ=ノイブルク家
父親 プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒ
母親 アンナ・フォン・ユーリヒ=クレーフェ=ベルク
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アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルクドイツ語:Anna Maria von Pfalz-Neuburg, 1575年8月18日 - 1643年2月11日)は、

生涯

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アンナ・マリアはプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒと、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世の娘アンナとの間の長女である。

1591年9月9日にノイブルクにおいてザクセン=ヴァイマルフリードリヒ・ヴィルヘルム1世と結婚した。結婚の際には夫妻の肖像を刻んだ金貨が鋳造された[1]。1602年に夫フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が死去し、1604年にアンナ・マリアは子供たちと共にヴァイマルからアルテンブルクに移り、アルテンブルクは独立した公国としてヴァイマルから分離された。未亡人となったアンナ・マリアは「深い憂鬱」に陥ったと言われ、1612年以来、寡婦財産として与えられていたドルンブルク・アン・デア・ザーレの町で子供たちと離れて暮らした。1631年、三十年戦争においてティリー将軍の下でクロアチア人が居城を攻撃したとき、アンナ・マリアは攻撃に抵抗したが、城は略奪されアンナ・マリアは頬を負傷した。城に駆けつけた市民の助けにより攻撃は撃退され、アンナ・マリアは感謝の気持ちを込めて教会に台付き杯を寄贈した。

アンナ・マリアは1643年に死去し、アルテンブルクの兄弟教会の王室の地下室に埋葬された。現在、墓所は城壁で囲まれている[2]

子女

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脚注

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  1. ^ Johann G. Gruner: Geschichte Friedrich Wilhelms I., 1791, p. 71
  2. ^ Christian Häutle: Genealogie der erlauchten Stammhauses Wittelsbach, 1870, p. 183

参考文献

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  • Luise Hallof, Klaus Hallof: Die Inschriften des Landkreises Jena, Akademie Verlag, 1995, p. 159 f.
  • Verein für Thüringische Geschichte und Altertumskunde, Jena: Zeitschrift des Vereins für Thüringische Geschichte und Altertumskunde, Band 6–7, G. Fischer., 1865, p. 248 f.
  • Johann Samuel Ersch: Allgemeine encyclopädie der wissenschaften und künste, Band 50, J. f. Gleditsch, 1849, p. 81