コンテンツにスキップ

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (ザクセン=アルテンブルク公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世
Friedrich Wilhelm II.
ザクセン=アルテンブルク
在位 1639年 - 1669年

出生 (1603-02-12) 1603年2月12日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=ヴァイマル公領、ヴァイマル
死去 (1669-04-22) 1669年4月22日(66歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン=アルテンブルク公領、アルテンブルク
配偶者 ゾフィー・エリーザベト・フォン・ブランデンブルク
  マグダレーナ・ジビュレ・フォン・ザクセン
子女 クリスティアン
ヨハンナ・マグダレナ
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
家名 ヴェッティン家エルンスト系
父親 ザクセン=ヴァイマルフリードリヒ・ヴィルヘルム1世
母親 アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルク
テンプレートを表示

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世ドイツ語:Friedrich Wilhelm II., 1603年2月12日 - 1669年4月22日)は、ザクセン=アルテンブルク公(在位:1639年 - 1669年)。

生涯

[編集]

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、ザクセン=ヴァイマルフリードリヒ・ヴィルヘルム1世とその2番目の妃アンナ・マリア・フォン・プファルツ=ノイブルクの末息子である。父の死から8か月後に生まれた。

生後まもなく、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と兄たちはザクセン=アルテンブルクを継承した。1618年までザクセン選帝侯クリスティアン2世およびヨハン・ゲオルク1世が後見人をつとめ、その後は兄ヨハン・フィリップが公領の統治と弟たちの後見人をつとめた。

1632年までに2人の兄が死去し、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と兄ヨハン・フィリップが共同統治をおこなうこととなった。しかし実際にはヨハン・フィリップが事実上は単独の統治者であった。1639年にヨハン・フィリップが死去するまではフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は名目上の統治者であり[1]、兄の死後にフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は単独統治を開始した。

1660年、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はテマールおよびマイニンゲンの町を手に入れた。1664年にフンメルスハインに狩猟館(Jagdschloss)を建設し、1665年には2番目の妃マグダレーナ・ジビュレのため、アルテンブルクに「マグダレーネンシュティフト」と呼ばれる美しい寡婦館(Witwensitz)を建設した[2]

フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の死後、次男で唯一生存していた息子フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が公位を継承した。

結婚と子女

[編集]

1638年9月18日にアルテンブルク城において、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世はクリスティアン・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルクの一人娘ゾフィー・エリーザベトと結婚した[1]。ゾフィー・エリーザベトはその12年後に子女なく死去した。

1652年10月11日にドレスデンにおいて、かつて後見人をつとめたザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世の娘マグダレーナ・ジビュレと再婚した。2人の間には3子が生まれた[1]

  • クリスティアン(1654年2月27日 - 1663年6月5日)
  • ヨハンナ・マグダレナ(1656年1月14日 - 1686年4月14日) - 1671年10月25日にザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ1世と結婚
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(1657年7月12日 - 1672年4月14日) - ザクセン=アルテンブルク公

脚注

[編集]
  1. ^ a b c August Beck (1877). "Friedrich Wilhelm II. (Herzog von Sachsen-Altenburg)". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 7. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 792–794.
  2. ^ Evang.-Luth. Magdalenenstift Altenburg: Geschichte”. 2021年3月22日閲覧。

参考文献

[編集]
先代
ヨハン・フィリップ
ザクセン=アルテンブルク
1639年 - 1669年
次代
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世