アルフレッド・パーティケル
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アルフレート・パーティケル Alfred Partikel | |
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誕生日 | 1888年10月7日 |
出生地 | ゴウダプ(Gołdap) |
死没年 | 1945年10月20日 |
死没地 | ベルリン=シャルロッテンブルク |
エルンスト・フリッツ・アルフレッド・パーティケル(ドイツ語:Ernst Fritz Alfred Partikel、1888年10月7日 - 1945年10月20日失踪) は、ドイツの芸術家。
経歴[編集]
東プロイセンのゴウダプ郡で生まれた。インステルブルクの学校に通い、1905年から07年にかけてケーニヒスベルクの芸術アカデミーで学んだ。1908年にはミュンヘンに、1910年にはヴァイマルに移り、ヴァイマル芸術学校で学んだ[1][2]。
1911年から1921年までベルリンで活動し、第一次世界大戦ではドイツ軍に従軍した。
1929年にケーニヒスベルク芸術学校の風景画の教授となり、1930〜31年にはローマのヴィラ・マッシモの客員となった。また、マックス・ペヒシュタインがニダに設立した「アーティスト・コロニー」のメンバーでもあった[3]。
1937年にナチスが政権を取った後、彼の作品は 「退廃芸術」に指定され、いくつかの美術館から没収された。
1945年2月、第二次世界大戦下の東プロイセン攻勢の影響により、ケーニヒスベルクからアーレンショープまで自転車で避難したが、その後消息不明となった。
失踪[編集]
1945年10月20日にアーレンショープの近くの森でキノコ狩りをしていたが、そのまま消息不明となった。遺体は発見されなかった[4][5]。
作品[編集]
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アーレンスホープ近くの風景
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赤い家の前で
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冬の風景
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ Biography at Deutsche Fotothek (ドイツ語)
- ^ Biography at University of Mainz (ドイツ語)
- ^ Ostpreussen.net (ドイツ語)
- ^ Malerei und Arbeiten auf Papier von Alfred Partikel Archived 2012-07-23 at the Wayback Machine. Ostsee-Zeitung, 23 January 2010 (ドイツ語)
- ^ Ostdeutsche Biographie Archived 2011-10-02 at the Wayback Machine. (ドイツ語)