いはでしのぶ

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いはでしのぶ』は、鎌倉時代擬古物語。作者未詳。


題名は作中歌「思ふこといはで忍ぶの奥ならば袖に涙のかからずもがな」による。全8巻の長編物語と見られるが、現存するのは第1巻・第2巻のみ[1]。成立年代は不詳だが、『無名草子』にはこの物語に関する記述がなく、一方『風葉和歌集』に33首の歌が収録されていることから、鎌倉時代前期、少なくとも文永8年(1271年)以前の成立と考えられる。『源氏物語』『狭衣物語』の影響が濃い。

内大臣関白の恋の鞘当て、そして右大将(関白の息子)の悲恋と出家を描く。

粗筋[編集]

内大臣は先帝一条院皇子で関白太政大臣の養子となっているが、一品宮(時の帝である白河帝の第二皇女)と結婚し、一男一女をもうけている。二位中将(後の関白)は母によく似た一品宮を恋慕し、「いはでしのぶ」嘆きに沈んでいた。

内大臣はある時、異母兄・伏見入道の二人の娘、大君・中君と知り合う。入道の希望で内大臣はの大君を妻にするが、白河帝によって大君を奪われてしまい、一品宮も誤解から父白河帝に連れ戻されてしまう。その後一品宮は出家し、最愛の一品宮を失った内大臣は悲嘆のうちに病死した。

一方、関白(二位中将)は一品宮の面影を求めて、大君・中君姉妹のみならず斎院(伏見入道の)とも密通する。大君は嵯峨帝(白河帝の子)に寵愛され皇后となり、中君は関白との間に若君をもうけて妻となった。また斎院も男子(後の右大将)を産んだが、一品宮に我が子を託して死去、関白を悲しませた。

その後、嵯峨帝に皇子がないことから、内大臣と一品宮の息子が嵯峨帝の養子となり、今上帝として即位する。母一品宮は女院となり、妹宮(二品宮)は関白の北の方となった。また関白と斎院の子・右大将も二品宮を恋慕していたが、思い叶わず失意のうちに出家した。

脚注[編集]

  1. ^ 第1巻と第2巻の一部、第2巻のみ、全編の情緒的場面の抜書き(三条西家旧蔵・現在所在不明)、の3種の伝本に加え、冷泉家で発見された第4巻の残欠巻がある。

参考文献[編集]