Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/英西戦争 (1727年-1729年) 20171212

英西戦争 (1727年-1729年) - ノート[編集]

選考終了日時:2017年12月26日 (火) 14:52 (UTC)2018年1月9日 (火) 14:52 (UTC)→2018年1月23日 (火) 14:52 (UTC)

  • (自薦)秀逸な記事となっているドイツ語版からの翻訳に出典を追加した記事です。四国同盟戦争と同じく、戦争自体がややマイナーのため内容量はそこまで多くありませんが、良質な記事に必要な基準の目安は満たしていると考えています。--ネイ会話2017年12月12日 (火) 14:52 (UTC)[返信]
  • 賛成 自薦票。--ネイ会話2017年12月12日 (火) 14:52 (UTC)[返信]
  • 賛成 ドイツ語の知識は皆無なので原文との対照はできませんが手持ちの書籍と比較した限り、問題のありそうな内容の齟齬はなく良質な記事として問題無いと思います。ただちょっと気になる点があります。本文中でカール6世がしばしば「皇帝」と呼ばれていますが、本文中でカール6世が神聖ローマ皇帝であることを明示している箇所は無く、やや不親切かと思います。特に初出時に「皇帝カール6世」ではなく「皇帝」とのみあり、しかも「ロシア皇帝エカチェリーナ1世は~」の文章の直後にあるので、一瞬戸惑いました。同じくスペインとオーストリアとの同盟が、セビリア条約の絡みではスペインと皇帝の同盟とも表記されています。欧州史において皇帝と言えば神聖ローマ皇帝であり、ハプスブルク帝国の君主、オーストリアの君主、神聖ローマ皇帝の関係は欧文であれば常識として取り扱えるのかもしれませんし、日本でもこの種のマイナーな戦争の記事を読む読者がその程度の事前知識を有していることは期待していいとは思いますが、敢えて「皇帝」とのみ書かなければならない理由がなければ、日本語の文章としてはこの皇帝という表現についてややわかりづらいかと思います。ただ人により意見がわかれそうではあるので、選考の賛成反対には考慮していません。--TEN会話2017年12月14日 (木) 21:42 (UTC)[返信]
  • コメント 選考終了時点で賛成2票、反対0票のため、選考期間が2週間自動延長となります。--まさふゆ会話2017年12月29日 (金) 09:15 (UTC)[返信]
  • コメント ほかの良質な記事になっている各記事と比べると、やや出典の提示が薄いかなという感があります。かなり長い文章にわたって出典の提示のない段落が結構あります。また、オーストリアはユトレヒト条約でスペイン王位継承権を放棄することに納得していなかったと「原因」節で説明されていますが、にもかかわらずウィーン条約でスペインと同盟を結んだということは、結局オーストリアはスペイン王位継承権を諦めたということで良いのでしょうか。「ヨーロッパの危機」節、「オランダ出身のスペイン官僚フアン・グリェルモ・リッペルダとの秘密交渉により両国は合意を形成」とありますが、フアン・グリェルモ・リッペルダはスペイン官僚ということなので、スペインを代表してオーストリアと交渉した、ということですよね。リッペルダ「との」秘密交渉となると、主語はオーストリアであるかのようにも見えますが、その前でスペインの意図を説明している文があるのでスペインが主語であるようにも見え、混乱します。「1724年以降、ホルシュタイン=ゴットルプ家とロマノフ家は姻戚関係を結んでおり、大北方戦争でデンマーク=ノルウェーに併合されたシュレースヴィヒ=ホルシュタインを請求していた」これも主語がないので混乱します。シュレースヴィヒ=ホルシュタインを請求していたのは、ロシア帝国ということで良いでしょうか? 「カリブ海の戦闘」の節、ホジアー艦隊はポルトベロを封鎖していたのに、それとベラクルスからのスペイン艦隊出港に何の関係があるのかわかりません。ホジアー艦隊がジャマイカに一時帰還した間隙に乗じて出港させた、というとポルトベロからの出港かと思えば、全然別な場所にあるベラクルスからの出港ということで、関係性がよくわかりませんでした。--Tam0031会話2018年1月6日 (土) 07:42 (UTC)[返信]
  • コメント ほかのはこちらから対応できるとして、「カリブ海の戦闘」については、簡潔な書き方があまり思いつきませんでした。時系列としては下記の通りです。
  1. 1726年6月、ホジアー艦隊がポルトベロ近くのバスティメントス島(いずれもスペイン領)に到着。直後にイギリス船の護衛を口実にポルトベロ沖に留まる。
  2. 1726年8月、カスタネータ艦隊がハバナ(スペイン領)に到着。
  3. 1726年12月、ホジアー艦隊が疫病でジャマイカ(イギリス領)に帰還。
  4. 封鎖の間、ポルトベロの銀は陸路でベラクルス(スペイン領)へ運ばれた。大陸部は全てスペイン領なのでイギリスは妨害できなかった。
  5. 1727年1月、ポルトベロの銀を載せた艦隊がベラクルスからハバナに到着、カスタネータ艦隊と合流。直後にハバナを出港、3月にスペイン本国に到着。
  6. 1727年2月、ホジアー艦隊がジャマイカを出港、4月にハバナ沖に到着。すでに銀がスペイン本国に到着しており、封鎖は無駄に終わった。(ここからは推測ですが、ポルトベロを封鎖しようとしたのはこの時点で知れ渡っていたおり、ポルトベロに向かっても返り討ちにされそうなので、ハバナを選んだかもしれません。これは出典がなければ記事に書けませんが。)
箇条書きではなく簡潔にまとめたいところですが、Tam0031さんはどうお考えでしょうか。--ネイ会話2018年1月6日 (土) 15:46 (UTC)[返信]
断片的な情報から勝手にその間をつないでまとめていいのか自信がないので、詳細な検討はお願いしますが、「銀の積出港になっていたポルトベロをホジアー艦隊が封鎖したが、陸路でベラクルスへ輸送されてそこから銀が積み出された。疫病もあってホジアー艦隊はジャマイカへ帰還し、そこからハバナへ向かったが、そのころには既にスペイン本土に銀が運ばれており、封鎖は失敗に終わった」くらいでしょうか。ホジアー艦隊がハバナへ向かったのは、ベラクルスから積み出された銀がハバナを経由するという情報が入っていたのでしょうか? 「ポルトベロ封鎖」の記事で、カリブ海の一連の動きを詳細に記述するのだというのであれば、こちらはそれほど深く突っ込まなくてもよいかもしれません。--Tam0031会話2018年1月7日 (日) 04:32 (UTC)[返信]
ありがとうございます。では、選考を2週間延長して、編集に取り掛かります。--ネイ会話2018年1月11日 (木) 03:14 (UTC)[返信]
コメント Tam0031さんのコメントに基づきいくらか修正を行ったほか、1件だけながら出典を追加しました。
(下記は余談。詳しく説明した出典はまだ見つかっていないので加筆はできません)この時期のヨーロッパ外交では国のカドリーユ英語版という現象が起こっており、列強はいずれも「少しだけでも有利になる」よう同盟を目まぐるしく変えたことが特徴となっています。例えば、オーストリアが「英仏が国事詔書を承認しないのに対し、スペインが承認すると譲歩したので、スペインと結ぶ。スペイン王位は既成事実なので譲ってもいい」、スペインが「英仏がイタリアの回復を支持しなかったのに対し、オーストリアがパルマ、ピアチェンツァ、トスカーナのイタリア三公領を認めると譲歩したので、イタリアと結ぶ。ミラノ、ナポリ、ネーデルラントは既成事実なので譲る」と考えた結果、ウィーン条約が成立した。英仏はウィーン条約を警戒して、オーストリアとの紛争(ユーリヒ=ベルク公領の継承)を抱えるプロイセンとともにハノーファー条約(ヘレンハウゼン同盟)を締結した。すなわち、オーストリアは頑なにスペイン王位を要求して不利に陥るより、名を捨て国事詔書やオステンド会社といった実を取ることにしたのです。--ネイ会話2018年1月12日 (金) 13:19 (UTC)[返信]

賛成のみ3票の状態が48時間継続のため、早期終了・通過となります。--Tam0031会話2018年1月22日 (月) 15:06 (UTC)[返信]