Wikipedia:秀逸な記事の選考/吾妻鏡 20081102

吾妻鏡[編集]

賛成/条件付賛成/保留/反対 0/1/1/0 この項目の選考期間は、2009年2月2日 (月) 18:16 (UTC)(2009年2月3日 (月) 3:16(JST))までです。

(ノート) 《推薦理由》鎌倉幕府編纂の歴史書についての記事です。時の権力者による編纂史料であるために、信頼性の判断が難しい史料について、その複雑な成立の背景が研究史を踏まえて突き詰められています。「歴史史料」記事の指針にもなる記事として推薦いたします。 Gokenin 2008年11月2日 (日) 18:16 (UTC)[返信]

  • (条件付賛成)極めて詳細で、丁寧にまとめられた「歴史記事の一つの完成形」を見せてくれる記事だと思います。以下、本当に重箱の隅をつつくような指摘で申し訳ないのですが改めていただければ幸いです。なお些細な点であるので私自身で修正も可能ですが、この指摘自体が的外れである可能性もあるので、それは止めておきます。
    1. 冒頭:「鎌倉時代に成立した歴史書」に「日本の」を補っていただけると良いかと。「編纂された当時に・・・『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。 分量の面からいえば六国史最大の『日本三代実録』の約2倍におよぶ。」の文章は冒頭ではなく概要に移したほうが良いと思います。
    2. 吾妻鏡の研究史:近代の研究の出発が『吾妻鏡考』であるとのことですが、それ以前江戸時代などに研究は無かったのでしょうか。吾妻鏡がどのような受け止められ方をしていたかがあると嬉しいです。「しかしその態度は無批判にそれを信用する傾向が強く見られた」の文章のそれは『吾妻鏡』のことでしょうが、ちょっと意味が取りにくいかなと思います。
    3. 編纂時期:八代説の説明に付いて、「3点に注目」し、「以上から『吾妻鏡』の編纂は1290年から1304年の間と見るか、あるいは宗尊将軍記だけが1290年以降であり、それ以前は1242年以降1304年までのどこか、という事になる」というのは八代氏がその後の「編纂二段階説」を述べる前置きとして『吾妻鏡の研究』にて述べられていたということなのでしょうか?
    4. 後世の編纂物と伝承の利用:「刷り込み」とありますが「思い込み」が適切かと。
    5. 歴史資料としての価値:この節を思い切って前の方に概要の後ろくらいに持ってきたほうが良いのではないかなと思います。この記事を見に来た人がまず知りたいことはいつ誰がこの書物を書いたかということで、その次に「この史料がどのくらい信頼できるのか」を知りたいのではないかと思います。
(コメント)ご意見有り難う御座います。的外れなどありません。1点目はその方が良いかもしれないと思います。またかなり背伸びして書いているので、言い回しなどでのご指摘の点は、自分で読んでも「息切れしれるなぁ」と思います。仰るとおり改善は必要かと。まずその点は先に修正しようかと思います。「江戸時代の研究」と「歴史資料としての価値」の位置は暫く時間を下さい。「江戸時代の研究」はもちろんあるのですが、それを要領良くコンパクトにまとめられるのかどうか、自分の能力にちょっと不安が。しばらくしたら「ノート」の方に悩ましい点など書き込むかもしれません。それも含めてしばらくお待ちください。
追伸:3点目のご質問は即答出来ますのでノート:吾妻鏡の方に書いておきました。--Ktmchi 2008年11月14日 (金) 13:50 (UTC)[返信]
  • (コメント)記事を読んで気になった点が1つありましたので指摘します(残念ながら投票ができるほど記事を熟読する時間がありませんので、あくまでも指摘に留めたいと思います)。「歴史資料としての価値」の節の八代国治のところに『八代国治は『吾妻鏡』に恨みでもあるのだろうか、と思いたくなるぐらい『吾妻鏡』を語気強くこき下ろす』という記述がありますが、これは他の研究者による八代国治評でしょうか?そうであれば誰の発言であるかということと出典を明記すべきだと思います。現状の表記では執筆者の主観を述べていると受け取られかねないと思います。佐藤進一のところの、『佐藤進一らが慎重になったのも頷ける。』も同様です。-- 2008年11月14日 (金) 16:31 (UTC)[返信]
(コメント)ご指摘の通りだと思いますのでまとめて整理しようと思います。有り難う御座いました。--Ktmchi 2008年11月15日 (土) 04:44 (UTC)[返信]
  • (保留)あまり歴史書には詳しくない身で申し訳ないのですが、せっかくですのでコメント申します。
    • 「後世の編纂物と伝承の利用」節、個人的には具体的すぎ詳しすぎ、と感じます。しかし歴史好きの方々にはこのくらいほしいということでしたら考え直してみたいと思いますが。
    • その他、例えば「歴史資料としての価値」節ですが、原文の表記が残っているのかと思われる表現があり、もしそうだとしたら引用符で括る必要があるかと思います。その他の部分でもそうです。とりあえず間接話法と解釈して手を入れてみましたが、そうでないとしたら適宜修正して下さい。
    • 「と見られている」「とされる」のように、研究者の間で言われている周知の見解として述べる方法は好ましいのですが、そこが却って「多くの研究者がそう考えている」ということなのか、「そう述べている研究者は誰それであると明示できるのにそうしていない」のかが不明になっていると思います。後者でしたら極力注記してほしいです。その一方で、上に廉氏が指摘されているように、執筆者の主観的断言と思われる表現がしばしば見られるところが気になりました。「「源氏対平家」ではない。」など。
    • 変体漢文の代表例として、「東鑑体」という用語で呼ばれた時期もあり(今となっては別に典型的な文献というわけでもないように思いますが)、どこかに記述しておきたい気がします。何なら私が加筆してもよかったのですが、うまい場所が見つかりませんでした。
    • 参考文献は五十音順の方が引きやすいのですがいかがでしょうか。Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方でもそう推奨されています。
    • 「吾妻鏡の諸本」節の「流布している俗説」項は、別の節の方がよいかと思います。諸本の説明というより、編纂の過程に関わることかと思いますので。
    • 最後に細かい事柄ですが、概要部分、三大実録の2倍とありますが、後の記述を見ると完本が存在しないとのことですので、この分量は何を元に計算したものでしょうか。巻数は例えば「45巻」というのは「第45巻」の意味ですか。「きつかわ」は kitsukawa でいいのですか「きっかわ」ですか。--КОЛЯ 会話 2008年11月14日 (金) 17:26 (UTC)[返信]
КОЛЯさんアドバイス有り難う御座います。長くなりますのでノートの方に書かせて頂きます。--Ktmchi 2008年11月15日 (土) 04:48 (UTC)[返信]
やはりこちらにお答えします。
詳細にありがとうございました。まあこの記事の選考について、Ktmchiさんが責任を一手に引き受けることもないわけで、該当する執筆者の方々皆さんに向けて問いかけたことになります。
「和風漢文」については、当方国文出身ですが聞き慣れない言葉でした。ちなみに『国史大辞典』では「和風漢文」は立項されておらず、事項索引にもなく、「変体漢文」のみ立項されております。もっとも項目「変体漢文」執筆の峰岸明氏は国語学の方ですが。「変体」が気に障るようでしたら「和化漢文」「記録体」という用語も流通しております。
研究史として文献を年代順に挙げる意義は私もあると考えますが、その場合、本項目が「研究史」を記述することを主眼とする項目でなければいけないと思います。
「流布している俗説」は、「諸本」以外の相応しい所にあるのであればあってもいいかと思います。
「三大実録の2倍」は、私もなくてもいいかもしれないなと思います。--КОЛЯ 会話 2008年11月15日 (土) 16:44 (UTC)[返信]
高橋秀樹先生が‘「吾妻鏡体」とも称される変体漢文の文体’という言い方をされているのを見つけましたので、「変体漢文」に従いたいと思います。ついでに「吾妻鏡体(=東鑑体)」も上手く納まるかと。--Ktmchi 2008年11月16日 (日) 17:24 (UTC)[返信]
長くなりますので「ノート:吾妻鏡#「流布している俗説」について」の方に書かせて頂きました。お返事はこちらで結構です。よろしくお願いします。--Ktmchi 2008年12月27日 (土) 03:28 (UTC)[返信]
ノートに書いてしまいましたが、私の趣旨は、「流布している俗説」は「吾妻鏡の諸本」節に触れる内容ではないだろうというものです。但し「応永本」という写本の存在については「吾妻鏡の諸本」節に何らかの形で記述を残しておいたらいいと思います。また、前田本という零本がありますが、重要文化財でもあり、最古の写本らしいので、こちらも加筆されてはいかがかと思います。--КОЛЯ 会話 2008年12月27日 (土) 14:26 (UTC)[返信]
ご意見に沿って再度修正を行いました。--Ktmchi 2008年12月28日 (日) 15:09 (UTC)[返信]
(コメント)かなり大幅に改訂いたしました。それについてはコメントが長くなりましたので、またノートの方にUP致しました。それに関するご意見はこちらでも結構です。--Ktmchi 2008年12月25日 (木) 16:24 (UTC)[返信]
  • (コメント)二度目の改訂、三度目の改訂と二回、この記事を読みました。大変面白かったです。わたしは、吾妻鏡自体についてはほとんど何も知りませんが、それで気づいた、細かいことを指摘します。
    • まづ、年の表示が、西暦(元号)となっている点。吾妻鏡は日記のような形式をとっているということで、何年の何月の何日の条と細かく分かるのだと思います。それで、西暦を頭にもってきて、何月何日とやるのは、旧暦なのかどうか分かりづらいし、混乱のもとではないでしょうか。
    • 「政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の節の二階堂行政の研究の出典が分かりづらいです。石母田正でしょうか。
    • 「得宗家の顕彰」の節は、ちょっと唐突です。それまでも曲筆のはなしをしていたので、その関係だと思いますが、節の冒頭になにか文をいれた方がいいでしょう。--Mobnoboka 2009年1月11日 (日) 10:50 (UTC)[返信]
Mobnobokaさん、有り難う御座います。面白いと言って頂けたのが何より嬉しいです。
さて、アドバイス頂いた点ですが。
  • 「8.2 政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の節の二階堂行政の研究の出典は、複数が混じっていますので出し方を少し考えてみます。石母田正の指摘は「守護地頭の献策」の部分にのみ掛かります。4.3 「守護地頭」の設置で述べた部分です。大江広元が書いたものが混じっていると指摘した最初の人は江戸初期の林羅山。明治以降で明示的に述べたのは八代国治が代表的で、その後もそれを踏襲して多くの研究者が触れています。二階堂行光の顕彰記事と『金槐和歌集』の関係については八代国治の指摘が最初で、戦後もそれについてどなたかの論文があったと思います。二階堂行政の『十訓抄』については五味文彦の指摘が最初かと思います。
  • 「得宗家の顕彰」の節はちょっと唐突というご指摘は少し考えてみます。自分の能力以上に長い記事になってしまいましたので、所々息切れしているのは確かかと。ただ節の冒頭にどう補ったらよいか、まだまとまりませんので少々お時間を下さい。
  • 年の表示が西暦(元号)となっている点は、おっしゃる通り「承元3年10月15日条」とかした方が『吾妻鏡』的には正しいのです。しかし鎌倉時代史の研究者は頭の中に既に和暦ベースの年表が出来上がっていて、和暦の方がすぐにポイント出来るでしょうが、史学を専攻していなかった私など、西暦年でないと「頼朝の頃だな」とか「泰時の時代だ、承久の乱の後か」なんてことすら解りません。ほとんどの人がそうなんじゃないでしょうか。『吾妻鏡』を引くにしても私など「承元3年10月15日条」では『国史大系吾妻鏡』普及版4巻、あるいは『全譯吾妻鏡』5巻のどれを開いてよいのか解らない。インターネットで「承元」を検索して西暦に直して、やっと1冊目だろうとか3冊目ぐらいかとかなる。そして和暦年を使うのは最後のページを捲って該当記事を捜すときだけというていたらくです。手元に『吾妻鏡』をお持ちでない方がこの記事を検証するときは、おそらくネット上の「吾妻鏡目次」を使われるでしょうが、そちらも西暦(元号)の目次となっています。従って西暦(元号)に統一した方が利用者の役にたつと思うのですが如何でしょうか。
(すいません、「編集内容の要約」を入力中に誤って更新してしまいました。)--Ktmchi 2009年1月12日 (月) 03:53 (UTC)[返信]
  • (コメント)二点について、考慮、対応してくださるとのことで、うれしく思います。さて、西暦(和暦)のはなしです。なにもわたしは、西暦を取っ払ってくれ、といってるわけではありません。わたしだって、西暦がなければ、有名な元号でなかったら、大体の時代の把握もできませんし。で、わたしが主張しているのは(すみません、説明が足りませんでした)、Ktmichi さんが例に挙げられた「承元三年十月十五日」でいえば、1209年(承元3年)10月15日ではなく、承元3年(1209年)10月15日にした方が、より親切ではないか、ということなのです。和暦を主にすることによって、その日付が、和暦のものか西暦のものか分かりづらい不便さを避けられると思います。他の日本史記事においても、明治六年以前では、和暦(西暦)で表記を統一すべし、というのが、わたしの立場でして。--Mobnoboka 2009年1月14日 (水) 11:20 (UTC)[返信]
Mobnobokaさん、お返事有り難う御座います。「8.2 政所・大江広元と二階堂行政の子孫」の節については書き直しておきましたのでご確認ください。「得宗家の顕彰」の節はいま、どう書こうか悩んでいるところです。
西暦(和暦)のはなしについては、おっしゃることを誤解はしていないつもりです。「歴史学においてどちらが正統か」ということならMobnobokaさんのおっしゃる通りでしょう。昔の学術論文や専門書は和暦でしか書いていませんでしたが、最近ではやっと和暦(西暦)という形で西暦も参考情報のような形で付けてくれつようになった程度です。
一方で、専門書よりはもう少し一般読者を意識した、といっても全20巻~30巻もある「日本の歴史」の類では、1965年頃に、つまりもう半世紀も前の中央公論「日本の歴史」全26巻(今でも文庫本になって書店に並んでいる名著ですが)でも西暦(和暦)の表記、それも1209年(承元3)10月15日の形(数字は漢字表記)です。それに比べればより専門書に近い1994年の岩波講座「日本通史」(全21巻+4巻)でも、1991年の集英社版「日本の歴史」(全21巻)も、日本史専門書の専門出版社みたいな吉川弘文館の2002年「日本の時代史」(全30巻)も同じです。もちろん全ての全集物がそうなのではなくて、1974年の小学館の「日本の歴史」(全32巻)、2001年の講談社「日本の歴史」(全25巻)を初め私の手元にあるものでは4種類がMobnobokaさんのおっしゃる和暦(西暦)、つまり半々です(8種類の全巻を持っている訳ではなくて守備範囲としている時代だけですが)。それから見ても、どちらでなければいけないということは無いのではないでしょうか。
  • 尚、それらの「日本の歴史」全集ではカッコ内は西暦であれ和暦であれ「年」はつけていないのが殆どです。私が書いた段階ではこの記事もそうなっていたのですが、現在カッコ内にも「年」がついているのはその後の他の方の修正です。
「和暦を主にすることによって、その日付が、和暦のものか西暦のものか分かりづらい不便さを避けられる」とのご意見ですが、日本史の本では年を西暦で書いても月日は全て旧暦です。ですから1205年(元久2)閏7月29日などというのが平気で出てきます。昔は「7月が2回あるのは何で?」とか思いましたが(笑)。「より親切では」という点では私は「日本の歴史」全何十巻の読者よりも、もっと一般的な読者を想定する必要のあるWikipediaの記事では、西暦(和暦)の方が読者に親切で、その方が利用者の利益に適うのでは、というのが前回述べた部分です。--Ktmchi 2009年1月15日 (木) 14:45 (UTC)[返信]
確認しました、ありがとうございます。それで、年の表記の話です。なるほど、わたしも好きで、難しめの日本史や周辺の分野のものを読むんですが、いつも、そこで悩んでいました。大体の通俗のものでも、日付が和暦のものか西暦のものか、明示してはくれませんから。Ktmichi さんの明言のおかげで、これからは安心して日付について扱えそうです。ただ一方で、歴史家の間でも元禄赤穂事件みたいな混乱も起こるのでしょうが。
正直、どの表記が一般的か、Ktmichi さんが推すものがいいのか、納得はしていません(どうでもいいですが、手元にあった寺社勢力論を扱った新書を見たら、ぼくの立場とは全然違う和暦なし西暦だけの表記で、ちょっとびっくりしました、かなり例外的だと思いますが)。けどまあ、多分、結局はただの好みなんでしょうね。べつに「なにがなんでも」なんて思ってないので(細かいことですし)、ちょっと残念ですが、これでこのことについての発言はやめにしておきます。--Mobnoboka 2009年1月15日 (木) 16:20 (UTC)[返信]
Mobnobokaさん、有り難う御座います。「和暦なし西暦だけの表記」ですか?そんな本があったんですか。それはそれでちょっとビックリしました。気が付かなかっただけかもしれないけど、私も記憶に無いですね。おっしゃる通りかなり例外的なんじゃないでしょうかね。--Ktmchi 2009年1月17日 (土) 21:50 (UTC)[返信]
ごぶさたです。遅くなりましたが、Ktmchiさん改稿ありがとうございました。残るは参考文献の配列について、Ktmchiさん以外にこのままでいいじゃないかという意見も特にないし、どうしたらいいものかと思っております。
さて年号についてですが、推敲しているうちに議論が終わってしまったようですが、せっかく書いたので書いておきます。私はKtmchiさんの感覚と同じです。よくよく考えてみるとMobnobokaさんの方が理屈の通っている気もするのですが、にもかかわらず、西暦前置方式を支持します。「欽明天皇13年(552年)」とあったとして、多くの読者にとって必要な情報は「552年」の方であって「欽明天皇13年」の方ではないからです。更に、時刻によっては欧州と日付がずれる可能性もありますが、そこまで考えず、大抵の日本列島での出来事は日本の暦、日本の時刻であろうと解釈する(してもらう)わけです。同じ西暦でもヨーロッパと新大陸、オセアニア、時刻によって日付が異なる可能性がありますが、同様に、特に断ってなければ現地時間であろうと見なしてもらうのです。注意が必要なところだけ注記すればよいわけです(2月革命 (1917年)の月・日なんかがありますが)。--КОЛЯ 会話 2009年1月15日 (木) 17:19 (UTC)[返信]
КОЛЯさんどうもです。参考文献の配列は悩んでらっしゃる? ではちょっと背中を(笑)。・・・などと言うおちゃらけは置いておいて、3点にまとめてみます。
  • 以前にКОЛЯさんは、研究史ならともかくとしてというようなコメントをお書きになりましたが、この吾妻鏡の記事は明治から現在までも研究史をまとめる形で説明をしています。なぜ明治時代の星野恒と原勝郎の研究なんかから語り出すのかということについてここで釈明をしておきたいと思います。「ノート:吾妻鏡」のやりとりの中で教えてもらったのですが、2005年11月30日 (水) の編集で「史書としては不審な部分もあり、その記述内容全般を信頼することはできない。」という書き込みに対して「←吾妻鏡は根本史料と認められており、信頼できないというのはやや拙速ではないか」というコメントが付けられていたそうです。そのどちらの意見も世間一般ではごく普通の意見です。研究者以外の吾妻鏡に対する理解、あるいは意見はその2つのどちらかに分かれて、真ん中はほとんど居ないんじゃないでしょうか。実はこの2つの見方にきちんと答えるというのが、当初よりのこの記事の任務(大げさな・笑)です。そこで争われている問題は、どちらかが正しいというようなものではないことは既に明治時代から明らかにされていると思います。つまり「根本史料だけどその記述内容全般を信頼することはできない」と。そんなことを言うと、どちらからも「なんじゃそりゃ!」と言われるでしょうが、それは明治以降の研究史の流れを丁寧に、かつ簡潔に(一番自信の無いところですが)説明するしかないと思いました。大正時代以降の研究は「何がどこまで信用出来るのか」を繰り返し繰り返し自問してきた過程と言えると思います。研究はかなり進んで来たとは思いますが「何をどこまで」は確定した訳ではありません。最後まで確定されることは無いと思います。
  • 次ぎに、個人の著作物でない吾妻鏡の解説で、最も権威がありそうに見えるのが『国史大系書目解題』下巻にある「吾妻鏡」の項です。全部で30ページ弱、本文は15ページぐらいのものですが、そこにも「吾妻鏡に関する研究論文」の一覧がありますが、そこでも発表年順に編集されています。これってかなり強力な根拠に見えません? もっとも書き始めた頃はまだ読んでいなかったんですけどね。(笑)
  • Wikipedia:出典の示し方」はノートの方も読みましたが、何でそう決めるのかという部分を見つけられませんでした。以前は誰かの「論文の書き方」みたいな本にそうあるから、と言った感じの記述を見たような気がしたのですが。何ら積極的な理由もなく単に不統一というなら著者・発表年のソート順に統一しておくというのは意味があると思いますが、そうしないことに積極的な意図のある場合には「Wikipedia:ルールすべてを無視しなさい」のルールの出番だと私は思います。もちろん「Wikipedia:出典の示し方」のノートで修正提案をするのが本筋でしょうが。--Ktmchi 2009年1月17日 (土) 22:08 (UTC)[返信]
「根本史料だけどその記述内容全般を信頼することはできない」というのはとても大事なことで、本記事を読んでそれが具体的に理解できたのはとても収穫だったと思います。しかし、どうももやもやした感が実はあったのでありまして、それは次の点だったのかとわかりました。Ktmchiさんはこの記事を、「研究史をまとめる形で説明をしています」とのことですが、私はそうすべきではないと思っていたのでした。つまり、吾妻鏡という記事はまず『吾妻鏡』とはどういうものかということについて説明すべきものであり、それに付随して研究史が述べられることはあってもよいだろう(秀逸な記事を目指すのであれば研究史や専門論文の提示はむしろ必須であろう)とは思いますが、主たる目的が研究史をまとめることであるというのは、転倒した考え方であろうと思うのです。それであれば、むしろ分割して吾妻鏡の研究史のような記事を目指すべきではないかと思うのです。--КОЛЯ 会話 2009年1月18日 (日) 13:13 (UTC)[返信]
言い方がまずかったかもしれません。研究史をまとめることが目的なのではなくて、吾妻鏡とは何であるかを考えることが目的ですが、ただそれを私はこれまでの研究の流れを見ていきながら考えた、あるいは説明しようとしたということになると思います。そうでない説明の仕方ももちろんあると思います。例えば五味文彦先生の「口語訳吾妻鏡」や「国史大系書目解題」での説明です。ただしあれは五味先生だから出来ることであって、この長さで私がそれをやったら「ウィキペディアはあなたの考えを発表する場ではありません」と言われてしまうでしょう。
すでに選考期間の残りは2週間を切り、この項目が「秀逸」となる可能性はほとんど無くなったようで、推薦下さったGokeninさんには申し訳なく思いますが、らりたさん、КОЛЯさんはじめ皆さんのアドバイスを頂き、記事としてはひとりよがりな部分はだいぶ減ったかと思います。また色々と意見交換も出来て、得るところは多かったし楽しかったですね。これは現在進行形ですが。あっ、ここに書き込める内にMobnobokaさんの宿題提出報告はちゃんと出しますので。m(_ _)m--Ktmchi 2009年1月20日 (火) 08:53 (UTC)[返信]
文意を取り違えていたかもしれません。ご主旨、理解いたしました。それにしても、賛成票がなかなかつかないのですね。力作だとは思うのですが。--КОЛЯ 会話 2009年1月20日 (火) 16:16 (UTC)[返信]
Mobnobokaさんのご指摘について、「5 吾妻鏡の曲筆」と「6 得宗家の顕彰」の章をまとめて「5 吾妻鏡の曲筆と顕彰」とし、両者はその下位レベルの節として、章の頭書きと、節にも簡単な頭書きを追加して、それぞれの位置を明らかにしました(まだ付け焼き刃みたいな文章ですが)。正直に言うと「そんなに唐突かなぁ、いったいこの冒頭に何を書けば良いんだろう」と悩んでいたんですが、謎が解けました。Mobnobokaさんは「それまでも曲筆のはなしをしていたので、その関係だと思いますが」とお書になりましたが、おっしゃる通りです。
元は「4 吾妻鏡の顕彰と曲筆」という章だったものを「4 後世の編纂物と伝承の利用」「5 吾妻鏡の曲筆」「6 得宗家の顕彰」の3つの章に分解してたんですね。「4 後世の編纂物と伝承の利用」を独立させたのは「吾妻鏡編纂者自身が行った曲筆は実はそれほど多くなく、編纂時点で掻き集めた原史料に既にそうあったのではないか(意訳)」というある研究者の発言と、それを裏付けるような二人の大家の記述に気がついたからで、このあたりが 2008年5月25日の最初のリライト時点と、2008年11月3日の2回目のリライトの一番大きな相違点です。ところが残りの「曲筆と顕彰」は私の頭の中ではワンセットだったんですね。にも関わらず、一番上のレベルの章として分解してしまったのが敗因、他の方には「何これ?」というような変な流れになってしまったということかと思います。Mobnobokaさん、ご指摘本当に有難う御座いました。他にも気になる点がありましたら、選考期間に関わりなく、ノートの方ででもご指摘頂ければありがたいです。--Ktmchi 2009年1月23日 (金) 17:49 (UTC)[返信]

(選考終了)最後の発言から2週間も過ぎ、選考終了、この選考は見送りってことでいいんですよね。冒頭の日付ちょっと間違ってましたが。--КОЛЯ 会話 2009年2月9日 (月) 15:14 (UTC)[返信]