Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス/ウィキペディウム

ローマに存在する、大ウィキペディウムの遺跡にある著名なウィキペタニア女神像
女神像の復元図

ウィキペディウムラテン語:Vikipedium, 英語:Wikipedium)は、古代ローマにおける都市に設置された一般民衆のための図書館設備のことである。同じような用途の物に「ムセイオン」があるが、ウィキペディウムの方がより大衆的であり、それゆえに正確性にはやや欠けていたとされている。大都市のフォルムには、必ずと言ってよいほど併設された。紀元前1世紀頃にはじめてその存在が確認され、5世紀頃のローマ帝国の混乱期には完全に消滅したと考えられている。後に、近代図書館の思想に影響を与えた。

ウィキペディウムは、言い換えるならば「民衆の手による百科事典的事業」であった。

名称[編集]

「ウィキペディウム」という名称自体の由来は不明である。一説には、ローマの女神のひとつであるウィキペタニア神に由来するという。

ウィキペディウムは、英語の「ウィキペディア」という名称でも著名である。また、以下のような表記方法もある。

  • ウィキペーディオ - イタリア語
  • ウィキペディオン - ギリシア語
  • 維基昺殿雲 - 中国語、漢書に登場する、「大秦国」に存在すとされた施設の名称。恐らくは音写である。

歴史[編集]

紀元前123年のローマ執政官であったジミウス・ウェルス(英語:ジミー・ウェールズ)とラリウス・サンガリアヌス(ラリー・サンガー)らが構想し、民衆の支持を得るために元老院に後にウィキペディウムとなる民衆図書館の構想を提出した。元老院はこれを認め、直ちに「ウェルス=サンガリアヌス法」が発布され、支配下の各都市にウィキペディウムの建設が認められた。

仕組みとしては、一般市民たちが原稿をもちより、それらが即効で書庫にしまわれ、大衆の目にするところとなるものであった。このシステムは、地元の知識人階層にゆたかな知識を公衆に還元する場として受け入れられ、驚くべきスピードでウィキペディウム内の知識量を増やしたが、一方で信憑性のないでたらめな記事も出回った。なお、「一般市民」には奴隷階層以外のすべての人民が含まれた。

ローマが帝国となると、皇帝の支配を印象付けるための施設として、皇帝崇拝と共に帝国全土に広がった。ローマ人が新たに植民市を拓いたり、征服した都市の中心地にも、ほとんどの場合において建設され、地元の民衆に解放された。また、神殿と併設する場合もあり、その場合はフォルム(古代ローマの中央広場)に建設された。

3世紀、帝国は軍人皇帝時代をいう最大の危機を迎えるが、ウィキペディウムはなおも発達し続けた。各地の僭称皇帝らがこぞって建設したり、このころには土着の民衆によって建設された小規模なウィキペディウムも登場したからである。ウィキペディウムは驚くべき勢いを以て帝国に広まり、その文化や「ローマの市民」たる民族意識の醸成にも大いに寄与した。

4世紀頃、内乱が終息した後、ウィキペディウムの建設活動は衰退する。もはや建設する場所がなくなったためである。

さらに、キリスト教がローマ帝国で国教となると、「異教的」であるとされたウィキペディウムは略奪と破壊の対象となり、5世紀頃にはほとんどのウィキペディウムは壊滅した。最後のウィキペディウムは、コンスタンティノポリスのウィキペディウムとされており、これはキリスト教の国教化以前に最後に建設された大都市だったためである。また、その内部にあった記事はその後の混乱によって各地に散逸し、蛮族はその価値をよく理解できなかったがために歴史の闇へと消えていった。

その後、ルネサンス時代となっても、ウィキペディウム自体は再認識されるようになるが、復活は君主たちの無関心さから行われることはなかった。

しかし、18世紀以降、啓蒙思想が広がると、野蛮で迷信的なキリスト教による偉大な古代ローマのシステムの内の一つとされた。一時ではあるが復活論も登場するほどで、実際には「ウィキペディウム」の名前では復活しなかったが、近代図書館の根本的な思想の形成には寄与したとされている。

ウィキペディウムの遺跡[編集]

ウィキペディウムの遺跡は、ローマ帝国の滅亡後、廃墟と化したが、今でもヨーロッパをはじめとする旧ローマ帝国支配領域で遺跡を見ることができる。ここでは、それらの遺跡の中でも特に著名なものを選別してリスト化した。

リスト[編集]

ギャラリー[編集]

関連項目[編集]