Wikipedia:井戸端/subj/独自研究を見つけましたが黙認します

独自研究を見つけましたが黙認します[編集]

出典の無いページを見つけました。このページは、非Wikipedia的な独自研究でルール違反です。視聴率が低く再放送されないテレビ番組に関するページで、雑誌に載らないので検証不可能です。特筆性も乏しいでしょう。従って、このページは削除されなければいけません。

しかし、私は「要出典」のタグを貼ったり削除したり執筆者を脅したりしません。このページの存続を、私は支持します。Wikipediaユーザとして、私は品質向上の姿勢に欠けますか?私はWikipediaの基本方針を軽視してますか?私はWikipediaを破壊してますか?

私がこのページを黙認するのは何故か、その理由はいくつか有ります。 1.Wikipediaは執筆者を攻撃する場ではない。 自分が執筆した記事を削除されたり品質が劣るとイチャモン付けられたりすると、誰でも悲しくなります。イチャモンが正当でも、それを理由に執筆者が悲しませるような事なんて私にはできません。正当性を振り翳して非Wikipedia的記事を削除しても、私は楽しくないです。執筆者を攻撃する為の口実に、出典の有無を使うのは嫌です。そして、どことなくカッコ悪い。

2.Wikipediaは勝負の場でない もし問題のページにネガティブな対応を私がすると、私を敵だと執筆者は考えるでしょう。すると、私と執筆者の間で行われる議論は、存続vs削除のバトルになります。Wikipediaの議論は合意形成の場ですが、これは水掛け論の戦いになるのが火を見るより明らかです。議論の結果が削除になり私の持論が採用されたとしても、私は勝者じゃないです。そして、執筆者は負け犬なんかでは決してないのに、執筆意志を削がれてしまうでしょう。

3.記事が面白い 出典の無い記事ですが、テレビ好き人間を魅了する事実が百科事典的体裁で書かれています。マニアックな番組で、テレビ雑誌のネタにすると売れないでしょう。しかし、世の中には経済効果が小さいが価値の高いモノが沢山あるのです。Wikipediaでは、マニアックな記事も重要です。マニアックな記事が除外された百科事典なら本屋さんに売ってますし図書館で閲覧できます。このページが削除されるのは惜しい。そもそも、出典は閲覧者の益の為に存在すべきです。削除正当性の口実に出典の有無を使うのは、本来の出典のあり方でない気がします。

4.検証不可能で良い このページを見て、閲覧者は記事の真偽を検証したいとは思わないでしょう。面白い記事を見て素直に笑顔になる、それだけの話です。ステキじゃないですか。架空のウソ番組(番組名は新聞のラテ欄で検証可能)でいいのです。記事内容が面白いので、それだけで十分なのです。また、記事を読めば内容が真実である事は常識的に分かります。例え出典が有っても、検証する為に国会図書館に足を運ぼうとは誰も考えないでしょう。

5.非アンサイクロペディア的記事である 出典が無いので、このページはアンサイクロペディアに書かれるべきかもしれません。しかし、このページは真実です。国会図書館内の資料で検証不可能かもしれませんが、番組を録画している人は私を含め検証可能です。そもそも、国会図書館に有れば万人が検証可能という考え方に、イマイチ私は理解できない。嘘を前提としていない百科事典的体裁の記事なので、ウィキペディアorアンサイクロペディアの2択なら、ウィキペディアだと私は思います。

最後に、私はページ存続を支持するので、ページ名を断固守秘します。また、このページ存続はWikipediaの価値を維持するものだと、私は考えています。--ニッタユカ 2010年2月14日 (日) 00:16 (UTC)[返信]

コメント 直せる人、直すべきと思った人が直すのがウィキペディアだと思います。ニッタユカさんはどちらでもない様ですので、直さなくても良いと思います。しかしルール違反であるとご存じなのですから、直したいという人が現れた場合は邪魔をしないであげて下さい。ウィキペディアのルールを守る事と皆が幸せに成る事を両立できる道を探して下さい。--長島左近 2010年2月14日 (日) 04:03 (UTC)[返信]
このひと(ニッタさんとやら)の相手をしないほうがいいと思いました。それより目的外利用者、もしくはプロジェクトの目的に対する不同意およびプロジェクト進行への妨害ということで退場していただくのが、ご本人と周囲のためだと思いました。--Watchdog daemon 2010年2月14日 (日) 04:20 (UTC)[返信]
ニッタユカ氏はWikipediaの方針を理解されていないことはわかりました。閲覧者はWikipediaの方針を理解しなくてもかまいませんが、投稿者はWikipediaの方針を理解し、且つ方針の範囲内で投稿する必要があると存じます。--あら金 2010年2月14日 (日) 05:05 (UTC)[返信]
テレビ番組系の記述の質の悪さにうんざりしている人間の一人として、問題の根深さを再認識させられた思いです。ウィキペディア的でなくても楽しい・有用性が高いコンテンツというものは確かに巷にたくさんありますよ。でもそれをウィキペディアの中に取り込む必要はまったくないですね。こういう人は外部にウィキテレビとかを立ち上げることを考えたらどうなんだろうと思います。テレビ番組系の記事の愛好者がテレビ番組系の記事の中だけで自己満足してくれている分にはまだいい。しかし、そういう記事の書き方がウィキペディア的に「あり」なんだと勘違いして、同じノリで他の記事での記述の粗製乱造に精を出されては困るのです。ウィキペディア内で記事を書くならウィキペディアの方針を理解しようと努め順守することは絶対条件であって、その姿勢が認められぬユーザに対しては、悲しく思われようが攻撃と勘違いされようが厳しく批判するのが当然です。どうやってその辺をわかってもらえばいいのでしょうね。ニッタユカさん一人をブロックすれば解決する問題ではないように思います。--Kojidoi 2010年2月14日 (日) 05:32 (UTC)[返信]
◆えーと、どう書き出したらいいか迷いますが…。とりあえずニッタユカさんのおっしゃっていることは、全体としては間違っているとは思います。とはいえ、そういう項目を目にしたとしても、私も削除依頼などは出さないでしょう。私は根本的には包摂主義(行動的には排他主義)だったりするということもありますが、他にもいつか誰かが適切な形に修正してくれるかもしれないと楽観的に考えているというようなこともその理由のひとつです(もちろん、自分自身で修正できるならばそうします)。
以前(といっても、もうだいぶ時間が経っていますが)、ある利用者さんと酒の席をともにする機会がありまして、そのときの話だったように記憶しているのですが、「あまり百科事典的でない(このときの意味合いは「大衆的な」というような意味だった)主題を、いかにしてウィキペディア内に、ウィキペディア的な形で取り込むのかということに、執筆の喜びを覚えることがある」というようなことを話したことがあります。テレビ番組、というのは確かに百科事典的ではない主題でしょうが、それをいかにしてウィキペディア内に、ウィキペディア的な形で取り込むのかということを考えたほうが、前向きでよいように思います。現時点での記述をまったく見ていませんから妥当かどうかはさっぱりわかりませんが、ぱっと思いついたものとして、例えばめちゃ×2イケてるッ!なんかは、うまく取り込むことのできそうな番組だろうと思います。
できれば(つまり、その労をかけるだけのリソースがあるならば)、ニッタユカさんには、その記事がどうしたらウィキペディア的になるのかを考えていただいて、その形に近づけるためには何をすればいいかを考えていただけると、非常によい結果になるのではないでしょうか?例えば、その記事を書いた利用者(IPだときついな)のかたと話をするとか(この試みをされている方もいます。個人的には「丁重にお願いする姿勢を崩さないこと」「慇懃無礼にならないこと」などが重要であるように思っていますが)、自分で修正にチャレンジしてみるとか、取れる手はいろいろあるように思います。いかがでしょうか?
◆ここからは非常に蛇足。この節にコメントされている方々への個人的な思いなのですが、ちょっとレスポンスが「寒い(おもしろくないという意味での「寒い」ではない)」です。切り捨てるのも好き好きですが、この冷たさにはやや寂しさを覚えました。別に「削除主義vs包摂主義」の宗教戦争をやらかそうとは思いませんが、もう少し言い方というものもあろうかと思うのです。無理に改善を要求する気もないですが、個人的にはものすごい違和感を感じました。-- いすか (talk/wikimail/contributions) 2010年2月14日 (日) 06:32 (UTC)[返信]
「削除主義vs包摂主義」などという高度な問題ではないと思います。「面白い記事を見て素直に笑顔になる、それだけの話です。ステキじゃないですか。架空のウソ番組(番組名は新聞のラテ欄で検証可能)でいいのです。記事内容が面白いので、それだけで十分なのです」、つまりは(エイプリルフールとかそういう留保なしに)“記事がウソでもいい”と言っているのです。別に包摂主義は“記事がウソでもいい”って話じゃないですよね?
というか、ウィキペディアの目的や方針に不理解・不同意などという生易しいものではなく、信頼性を破壊する行為を容認・促進する発言であって敵対(あえてこう書きます)宣言に等しいとさえ思う。そんな発言に「温かく」する必要がどこにあるのです? 依頼資格さえ充していれば、投稿ブロック依頼を提出するところです。--Watchdog daemon 2010年2月14日 (日) 06:41 (UTC)[返信]
◆嘘は困りますよ。それは当然です。が、ニッタユカさんはそういうことを言っているわけではないでしょう。その記事の内容が虚偽であるといっているわけじゃない。その記事の内容をウィキペディア的にするのは難しいというようなことはおっしゃっていますが、逆に、「録画している人は検証できる(自分を含め)」といっているのだから、その記事自体は別に嘘ではないんでしょう。だから、どうすればいいかを考えたほうがいいんじゃないですかという話をしています。
確かに、ニッタユカさんのおっしゃっていることは全体的には間違っていると思います。それは先に述べたとおりです。しかしながら、「百科事典的でない項目を賛美した」というだけで、投稿ブロックという最終手段を持ち出したWatchdog daemonさんの発言は、非常に冷たいものであると私は思います。ですから、「もう少し言い方というものもあろうかと思う」と申し上げた。それに、どのような発言に対してでも、すべてを切り捨てて良いということでもないでしょう。むしろ、どんな発言に対してでも、こういう場で発言をする以上は、「温かく」する必要があると私は考えますが、いかがですか。-- いすか (talk/wikimail/contributions) 2010年2月14日 (日) 07:03 (UTC)[返信]
「「録画している人は検証できる(自分を含め)」といっているのだから、その記事自体は別に嘘ではないんでしょう」とは言えないと思います。ファンから見れば真実でも、第三者から見たら問題がある。一方的な見方にすぎないと言うことは良くあります。それを上手く調整したのが、中立的な観点や検証可能性というウィキペディアのルールだと思います。個人的な信条同士は大事にしたいですが、信条同士が衝突した場合、収拾がつかなくなります。やはりルールが優先されるべきでしょう。温かく見守るのにも限度があります。現在、別件で数ヶ月粘っている人を説得しようとしているので、実感としてそう思います。--長島左近 2010年2月14日 (日) 09:06 (UTC)[返信]
「嘘」と「問題がある」はまったく異なります。「嘘」は排除されるべきですが「問題がある」のならば修正されるべきです。ファンの視点から執筆している人がいて辟易したこともありますから、そうした観点からの記述に問題があることは理解しますし確かなことだと思いますが、かといって一足飛びに叩き潰して構わないということにはならないでしょう。「温かく見守るのにも限度があります」とおっしゃいますが、今回の件はその限度からは程遠いように思います。そのケースと同様にすべてのケースを扱ってはいけないと思いますが。今回の件は、どのようなルールを守るべきなのか、そもそもどのようなルールがあるのかなどをきちんと把握してもらうように仕向けることが正答(のひとつ)だろうと思いますし、逆に、積極的な排除という考えにはついていけません。
ひとつお伺いしたいのですが、例えば、メインカルチャーの項目で「知識はあるがウィキペディアの方針に不慣れな人」が何らかの失敗していた場合、たいていの人は取り込もうとする(ウィキペディアの各種方針を理解してもらえるようにする)だろうというのはわかりますが、それがサブカルチャーになったとたんに今回のような排除傾向になるのはどうなんでしょうか。それ自体が専門的とは言いがたい(代筆者がごまんといる)から?それともしばしば低年齢者であるから?それとも粗製乱造されやすいから?どれも説得力に欠けるような気がします。おそらく、裾野が広い分全体的な(問題のある記述・項目の)数が多く、疲弊している(か疲弊しやすい)のだろうと想像しますが、それが「いきなりの排除」に向かってよい理由になるとは思えません。
だいぶ脱線してきてしまいましたが、「方針を理解していないユーザを排除」するのではなく「方針を理解していないユーザに方針を理解してもらうにはどうすればよいか」ということを考えたほうがよいのではないでしょうか、というのがここまでの私の論旨です(すべて蛇足ではありますが)。-- いすか (talk/wikimail/contributions) 2010年2月14日 (日) 09:24 (UTC)[返信]
コメント 可愛げの有無だと思います。問題のある記事を書いた人に”聞く耳があるみたいだし、色々と教えよう”と思わせるような可愛げがあれば、その人の為に「方針を理解していないユーザに方針を理解してもらう」という方向で頑張る気にもなれますが、”これは駄目だ。お引き取りを”と思えば、ウィキペディアの為を思って排除の方向に行くと思います。ウィキペディアにおいて、メインカルチャーとサブカルチャーで扱いに違いがあるのか分かりませんが、人格的に可愛げがない人が多いのかもしれません。--長島左近 2010年2月14日 (日) 09:58 (UTC)[返信]
コメント私は『長~ぃめで、見てあげる』必要はあるとは考えますが、『暖か~ぃめで、見てあげる』必要はないと考えます。『仏の顔も三度』とことわざにあるじゃないですか。三度目は指摘すべきです。--あら金 2010年2月14日 (日) 10:18 (UTC)[返信]
◆可愛げ、ですか…。言わんとすることはわからなくもないですが、あんまり適切な表現ではないような。可愛げがあるとかないとかというのはそれこそその人の主観によってしまうので。人情として理解はしますけれど、その部分を影響させてはいけない場面のほうが多いのでは?
◆個人的には「長い目」より「暖かい目」派(派?)です。長い目で見る前にその人がやる気をなくしたら意味がないので。やる気をなくそうが関係ないねという考え方もあるでしょうが、やっぱり受け入れ難い。3度目って言うのが具体的に何を指すのかピンときませんけど、3度目程度で切り捨てられるならば私はとっくの昔に切り捨てられているでしょうね。数度の失敗でそこそこのレベルに達するほどウィキペディアって単純ではないと思いますし。まあ、スタンスの違いといわれればそのとおりかもしれませんが。-- いすか (talk/wikimail/contributions) 2010年2月14日 (日) 11:16 (UTC)[返信]
コメント 1)「その部分を影響させてはいけない場面のほうが多いのでは?」の件ですが、人間関係とは主観的な物です。ウィキペディアの参加は自由で、職業的なものではありませんから、主観が影響大です。、
2) その状況下で助けて貰うのは大変です。私も色々な人に助けられていますが、助けを得るまでにスルーされたり、誤解されたり、捨てる神あれば拾う神ありだったり、ドラマがあります。定型的かつ自動的な救済はなかなかありませんね。逆に助ける側に回っても、良かれと思ってしたことが裏目に出たり、人間関係とはままならないものです。ウィキペディアは勉強になります。--長島左近 2010年2月14日 (日) 11:54 (UTC)[返信]
◆確かに、人間関係は主観的なものではあります。ですが、私自身はできるだけ(過去どのようなことがあった人に対しても)客観的に捕らえていたいと思う気持ちでいます。でないと、例えば以前対立したことがあるユーザさんが価値のある提案をされていたときなどに、素直に賛意を示すことができなくなったりします(心情的に)。でも、まあ、人間関係は時にドラマティックかも分かりません。個人的にはそういうのは嫌いではありません(苦笑)。定型的な救済はないかもしれませんが、「常に暖かい気持ちでいる」ことはできると思いますよ。一応、脱線はここまでにしておきましょうか。-- いすか (talk/wikimail/contributions) 2010年2月14日 (日) 15:50 (UTC)[返信]

(インデント戻す)2010年2月14日 (日) 07:03 (UTC) 付のいすかさんの発言に応えて。

まず、ニッタユカさんに対し厳しく接するべきだと私が言うにあたって、「百科事典的でない項目を賛美した」ことを挙げていません(この点よく確認いただきたく。2010年2月14日 (日) 06:41 (UTC)付の発言でどこを問題にしているか、ご本人の発言を引用して明確にしてあるはずです)。「記事の内容をウィキペディア的にするのは難しい」ときに「どうすればいいかを考え」ることが大事であるということについても異論はありません。

私が問題にしているのは(繰り返しの引用になりますが)「面白い記事を見て素直に笑顔になる、それだけの話です。ステキじゃないですか。架空のウソ番組(番組名は新聞のラテ欄で検証可能)でいいのです。記事内容が面白いので、それだけで十分なのです」というニッタユカさん自身の発言です。記事の題材や「記事の内容をウィキペディア的にするのは難しい」ときに「どうすればいいかを考え」ることは、プロジェクトの目的に即したことだと思います。しかし、件の発言のどこに、いすかさんの言われるような思慮があるのでしょうか。

いわゆる百科事典的体裁に落とし込みにくい題材や、百科事典的体裁に外れた記事があることを単純に非難するつもりはありません。そうした記事や題材を容認することで包摂主義が孕む難点への問題意識があり、何とかしようと尽力されている方に対しては(いすかさん含め)敬意を払います。しかし、ニッタユカさんの発言はそうした問題意識や尽力を無にするもの、嘲笑するものだとお思いになりませんか。すくなくとも私はそう見ました。--Watchdog daemon 2010年2月14日 (日) 12:52 (UTC)[返信]

Wikipedia:善意にとるを念頭に置きましょう。細かい点で挙げ足を取るのではなく、発言者の意図をくみとる必要があります。
「1.Wikipediaは執筆者を攻撃する場ではない。」はWikipedia:個人攻撃はしないと大きく矛盾しません。過去の編集に対して、遡及的に執筆者を攻撃するような態度は私も問題だと思います。
「2.Wikipediaは勝負の場でない」はWikipedia:腕ずくで解決しようとしないで解釈できます。真実がいつも一つであるとは限りません。結論が出るというのは、多かれ少なかれ、誰かが妥協したということを意味します。
「3.記事が面白い」に関して、誤解される表現をなさっているのが非常に残念ですが、「ウィキペディアが知の集積であると同時に、好奇心を満たしてくれる場でもあることが望ましい」というのは概ねほとんどの同意を得るところではないでしょうか?
「4.検証不可能で良い」の中の「ウソ番組でいい」という発言が今回、一番の火種になっているものと見受けられます。これは、「検証不可能な記述はウソと判断されても仕方ない」程度の偽悪的な表現に過ぎないと個人的には思います。確かに検証不可能な記述を雑多に集めるだけでは収拾がつきませんが、ときに「記事の整合性を得るために必要な記述」「常識的に考えて偽証がありえない表現」は気長に待っていれば出典は得られるものだと思っています。枕投げはウィキペディアにおいて有名な記事ですが、これでさえほとんどの記述が「現状で検証不可能」な状態です。ちなみに枕投げの主執筆者の方は優秀な方です。最終的にWikipedia:免責事項があるのですから、Wikipedia:ルールすべてを無視しなさいという態度は、必要悪だと思います。
「5.非アンサイクロペディア的記事である」について、発言した方には、いくらか検証可能性についての誤解が含まれているようですが、「嘘を前提としていない百科事典的体裁の記事」ならば「ウィキペディアorアンサイクロペディアの2択」で「ウィキペディア」を選ぶということに関して誰が異論があるでしょうか。
ニッタユカさんの最近の編集履歴を見て、破壊的活動がないことは明らかです。誤解を招くような発言もいくつかされてきたようですが、それこそいすかさんのおっしゃるように「あたたかい目」が必要なように思えます。「問題編集を憎んで、人を憎まず」です。長文失礼しました。--Damena 2010年2月14日 (日) 14:29 (UTC)[返信]
(追記)ニッタユカさんの発言は「赤信号は渡ってもよい」と言っているくらいのインパクトがあります。これを「ルールを完全に理解していない」ととるか「場合によっては青信号以外を渡らざるを得ないこともある」とるかは結局のところ自由です。ニッタユカさんも成人であるならば、場合によってWikipedia:説明責任にのっとり、誤解を解く必要があります。--Damena 2010年2月14日 (日) 15:10 (UTC)[返信]
◆Watchdog Daemonさんがニッタユカさんの発言をどう解釈したか、については了解しました(それが私の解釈とは異なっていたことも)。もちろん、その解釈を否定しません。そういう解釈が十二分にあり得る発言だったと、私も思います(Damenaさんの追記は非常に的確だと思います)。かなりとがった発言ですから。
私は、Damenaさん同様、自分の中でワンクッションを置いた解釈をおこないました。それを可能にしたのは、「とがった」文章と、冒頭の前置き(別にニッタユカさん自身のルール理解が致命的というわけではないだろうというように解釈できます)のふたつからです。私は、この文章を、何らかの意図を持ってわざわざこのように書いたものだと受け取っています。その方法論はBlogやmixiでは時に歓迎されるかもしれませんが、井戸端では不適でしょうね。それに、中身自体も本当は間違っている(Damenaさんの追記のとおりに)。もう少し詳しく述べるのであれば、特に「嘘だっていい」はストレートに解釈すればそのとおりに取れますが、この発言の真意は「この記述(番組の内容)は誰かにとっては嘘かもしれない(検証できないから)。でも、別にいいじゃないか。」というようなものでしょう。そしてニッタユカさんは「その番組を録画した人物は検証できる」ということと、「国会図書館で検証できればよいのか」ということに対する異議を述べていると。「検証できないけど別にいいじゃないか」は、明らかに間違いですが、しかしながらそうしたことは現状だとあり得てしまいます。それはとても残念なことですが、それは他者が何らかの形でフォローせねばならない部分でしょう(ただし、いずれは本人がそうできるようになるべきでもあります)。番組録画についてはこれも間違いだとは思いますが、しばしば話題に上ることですし、国会図書館のくだりについては私も同じようなことを考えるときがあります。
このようなことというのは、正直「普通にあるレベルの話題」だと思っていまして。現在私もいくつかサブカルチャー方面で改稿したい記事を抱えていますが、ニッタユカさんがおっしゃっているような「誤解」は、本当にそこら中に散らばっています。そうした事柄に対して、非常にスクエアに、厳然とした態度を貫こうとした時期もあったのですが、現在では「ひとつひとつを丁寧にやるほかない(急がば回れ)」と考えるようになりました。その点から考えて、私がこの節に書き込むまでのコメントは、ニッタユカさんの文面に引き込まれた、非常に固く冷たいコメントに映った、ということです。別に責めているわけでも押し付けるわけでもないんですが、少しだけ「暖かい目」を持っていただけると個人的には嬉しいなあ、という話です。
ちなみに、こう書いてはいますが、別にニッタユカさんを全フォローしているわけではないです。書き方とか、内容とか、いいものでは決してなかった(前述のとおりですね。全体的に間違ってます)。「赤信号みんなで渡れば恐くない」って大声で言ったら怒られますよ。言わなければいいのかとかそういう問題でもないんですけど、そういう教訓は(今回の話の流れとは別に)もっておいていただきたい部分ではあります。
こっからは完全に蛇足ですが。あるラジオ番組で、とある企画がおこなわれたとき、3人いるパーソナリティのうちひとりに「称号」が与えられたことがありました(2007年3月の話)。その企画中、メインとなるパーソナリティをはじめ、全員が「この称号はウィキペディアで永遠に語り継がれます!」なんてことを言っていたりするんですよ。現実問題としてそんなことはありえない(検証可能性を満たせませんからね)んですが、つい3ヶ月前まで、この称号、書いてあったんです。…そういうことが普通にある分野ではあるので、このくらいのことではなんでもないんです。普通のこと。それをどう変えていくのか、というのが課題なんでしょう。-- いすか (talk/wikimail/contributions) 2010年2月14日 (日) 15:50 (UTC)[返信]
コメント ルール適用の緩和・免除は、訴える側がルールに代わって、色々と(人情とか人間関係とか)配慮しなければなりません。上から目線であれこれ要求したり、一方的に宣言して終わらせる訳にはいきません。
ルールによる調整を放棄するなら、譲り合いなど日本古来の調整方法で理解を求めていくしかないです。しかしルールによる解決と比べると、結果は更に保証されません。人間関係はままならないものです。そこに全面的に頼ろうというのですから、訴えて駄目だったら、諦めて撤退する潔さが必要になります。
そこまで出来るなら、可愛げがあるとして協力も出来ますが、普通は一方的に勝手なことを言っているだけですので、ルールを厳格適用してお引き取りを願うことになります。
それでルール嫌いになって悪循環という人も居るのでしょうが、それを救済するのは難しいです。ルール適用の緩和が必要なサブカル記事は、ウィキペディア上級者向きなのかもしれません。温かい目で門戸を広げようというのは、罪作りな意見かもしれません。--長島左近 2010年2月14日 (日) 16:51 (UTC)[返信]

コメント Wikipedia:コメント依頼/ニッタユカで忠告を受けたり、Wikipedia:井戸端/subj/出典の意義は何か?を立てた上で尚本節のような意思表示をすることは、各種方針や他者の意見の軽視に過ぎます。- NEON 2010年2月14日 (日) 16:32 (UTC)[返信]

こういうことを言うと方針を理解していない、と言われそうですが、検証可能性を満たさない記述(テンプレートが貼られているもの)は全て即座に、またはできるだけ速やかに除去されなければならない、というような考えは、ちょっとどうかなと思うのです。英語版では、そういう方針があるのかどうかはちょっと分からないのですが、出典が付いていないおそらく全ての記事には、Template:出典の明記に相当するテンプレートが貼られているのです。日本語版もそうすべきなのかはこれから考えるべきところでしょうが(もう話が出ているかもしれませんが)、とにかく、Template:出典の明記には「文献や情報源を探しています」とは書いてありますが、出典が付いていないから除去・削除するぞ、というようなことは書かれていません。このテンプレートにより、「出典が無いから、もしかしたらここに書いてある事は嘘かもしれないよ」ということを暗に示していると思います。それでいいのだと思います。出典なんてそのうち出てくるかもしれないし、示せるようになるかもしれない。しかし、記述が除去されれば出典は出てきません。出典が無い状態というのは赤信号ではなくて、黄信号だと思います。--Widehawk 2010年2月14日 (日) 17:08 (UTC)[返信]

コメントこの節冒頭のニッタユカさんが書き込まれた内容に対する意見を述べます。

  1. 「要出典のタグ付け」やそれに続けて行われる可能性のある「削除」が執筆者への攻撃である、また、それをされた執筆者は悲しくなる、とお考えのようですが違うと思います。「出典はあると思うのだが今は見つけられないのでちょっと待って欲しい」、とか「自明であるので出典はいらないと思う」といった議論の余地はあるにしても、「無くてもいいじゃないか、悲しくさせないでくれ」を認めたらWikipediaの秩序はなくなってしまいませんか。
  2. ルールに従っている限りは、バトルや水掛け論にはならないと思います。議論当事者の双方または片方にルールの無理解か、誤った確信があるのではないでしょうか。
  3. 議論する気にもなりません。Wikipediaが、紙の百科事典よりお手軽に閲覧・編集できるものだとお考えなら、それはWikipediaの単なる一面に過ぎず、別の面を見ることができていないように思います。
  4. ある記事を立ち上げたり、既存記事を編集するのに際して、出典を確認するために書物を購入したり、図書館に通って調べたりしている人たちからすれば、「素直に笑顔になれる」などといった理由で、検証不可能だったり架空の出典が構わないとされたら、愉快ではないでしょうね。
  5. 何を仰りたいのかよく分かりません。記事内容の検証の方法であれば、Wikipedia:検証可能性で質問されてはいかがですか。

--JSBB 2010年2月15日 (月) 02:22 (UTC)[返信]

賛成 ニッタユカ さんに賛同。インターネット関連の記事については、速報性が検討されますね──編集合戦の種ですがまぁ、自治好きの人が適当に進行中の事案テンプレートを張るので大丈夫でしょう、またそういう人も必要かと思います。

コメント書籍出版は時間がかかるし技術的制約によって速報性が失われますし、編集者のバイアスがかかります、が書籍出版は一定の価値がある。Wikipediaのような金にならん仕事は無駄ですが崇高だと思います。無駄を維持できる余裕がある時は平和ということでしょう。残念ながら、今の日本政府にそんな余裕はありませんから一部の有識者は声を大にして事業を仕分ける事でしょう。結果が反映されなくて痛快です。--基 建吉(MOTOI Kenkichi) 2010年2月15日 (月) 15:52 (UTC)[返信]

コメント「要出典」のタグを貼ったり削除したりはしなくても構わないと思います。誰か他の人が貼ったり削除したりするでしょう。
自分が書いたものが、削除に相当する何らかの問題があるということ、正当に批判を受ける程度に品質が劣っているということを受け入れることができず、それらを自分に対する「攻撃」と受け取ったり、削除の可否が勝負だと受け取ったりするのであれば、共同作業で百科事典を作ろうとするウィキペディアは、愉快な場所ではないでしょう。自らの未熟をありのまま受け入れてくれる場所を探したほうがいいと思います。検証不可能で、面白い記事は、百科事典の項目としてはふさわしくありません。そのようなことを書きたいのであれば、ウィキペディアでもアンサイクロペディアでもないところで、自由に書くことができます。
ウィキペディアは百科事典を作ることを目的としていますし、削除も含め様々な指摘を受け止めて、自身の知識や執筆能力を向上させることを楽しみとしている人もいます。探すのが難しい情報源を探して優れた記事に仕立て上げる人もいます。残念ながら、攻撃的に削除や出典を求める作業をしているように見受けられる人もいますし、妥当ではない記事の批判をする人もいるけれど、なぜ情報源を示すことが必要なのか、どのような資料が得られると考えられるか、どのようなところに行けば資料が得られるか、ということを、丁寧に執筆者に伝えることで、記事の質と、執筆者の能力が向上することが望ましいと思います。それは攻撃ではないし、勝負ではないし、検証可能で非アンサイクロペディア的で面白い記事へと繋がります。--Ks aka 98 2010年2月15日 (月) 18:19 (UTC)[返信]

このトピを発てた者です。皆さん様々なコメントありがとうございました。誤解を解いて。議論を終えましょう。

出典に基づいた記事の投稿を、私は歓迎しています。記事の品質という観点から考えても、出典は無いより有る方が絶対良いと思っています。これだけはご理解下さい。

あと、皆さん分かってらっしゃると思いますが、独自研究の黙認は合法です。一応付け足しておきますが、独自研究を私は黙認しますが、個人攻撃の対処は現行よりも更に毅然と行うべきと考えています。

私の中に、「要出典」のタグを貼るという選択肢は常に無いです。正当な行為かもしれませんが、非常に勇気が要ります。私にそんな度胸は無いです。まして、低視聴率のテレビ番組をネタに採用した雑誌なんて無いでしょう。無いと推測している者が「出典を示せ」と言うなんて、悪質な借金取りの「金返せ」と同値に思います。

但し、出典に見込みが有れば、「私と一緒に出典を探して更に良い記事にしよう」と執筆者に声を掛ける事なら出来るかもしれません。ですが、私はヤボ用の多い人間なので、忙しければ黙認せざる得ません。

最後にこれだけ。 出典は、品質60点の記事を80点に向上させる為に付け加えるものだと、私は考えています。非常に有益な作業です。ポジティブな姿勢を感じます。しかし、100点の秀逸な記事から出典を差し引くと、0点(マイナスもあるのかな)になるとは到底思えません。--ニッタユカ 2010年2月20日 (土) 04:42 (UTC)[返信]

ニッタユカさんの主張は、俳句の句会に出かけて行って「なんで俳句に季語なんか求めるんだ、季語がなくても、良い詩はいい詩じゃないか!」と言い放っているようなものです。間違ってはいないかもしれませんが、それならここから出て行って自由詩の句会に行きなさいと言われるのが落ちでしょう。あなたはとても簡単に「100点の秀逸な記事」とおっしゃいますが、あなたにとって100点でも別の人々にとっては0点以下という内容はいくらでもあり得るわけです。2チャンネルなどでは、それはそれとしても全て受け入れようというスタンスだと思います。一方、プロの研究者が研究成果を発表する雑誌では、専門家同士の相互査読によるふるい落としで内容をある程度そろえるということをやっています。ウィキペディアはそのどちらとも異なる独自の手法で良質な辞典を作ろうと模索しています。それが「出典」に依拠するという手法です。これには他のすべての手法と同様長所と短所がありますが、とにかくウィキペディアではその手法を使うことになっているわけです。そこに挑戦するとすればそれなりの大きなハードルを越えなければならないということは理解してほしいと思います。確かに、本当に検証可能性を厳密に適用すると、ほとんど何も書き出せないという事態に陥りかねません。後年の補足・修正を期待して長い目で見るという姿勢を否定するつもりはありませんが、「独自研究の黙認は合法です。」とか言い放ってしまってはお終いです。--Kojidoi 2010年2月20日 (土) 13:14 (UTC)[返信]
コメント下のほうで「ウィクショナリーは必要か」などと新たに節を立ち上げられていますが、議論を分散化させるようなことをする前に、こちらの節をきちんと片付けるお気持ちは有りませんか。Wikipedia:コメント依頼/ニッタユカWikipedia:井戸端/subj/出典の意義は何か?でも、いろいろな人たちが意見してくれていますが、すべてが徒労のよう思えて脱力感を感じるのはわたしだけでしょうか。「わかりました」とか「ありがとうございました」とかいって、しかも自分から「もうこのような議論はやめましょう」と仰るので、少しは判っていただけたかと思っていると、しばらくするとこれらの議論など何もなかったかのように同じことを再開しているように思えてなりません。--JSBB 2010年2月21日 (日) 07:42 (UTC)[返信]