Wikipedia:井戸端/subj/特筆性の基準

特筆性の基準[編集]

今更な話題ですいません。始めたばかりの者です。 先日、「ディベート」という記事の中の「ディベートを扱った書籍」という項目の中で3つの書籍を 列記したところ、特筆性が無いということでタグを張られました。そこで質問です。

1 ウィキの特筆性(書籍)の判断基準に、、、

「その書籍が、その書籍自体とは無関係な発信元から公開された、複数の、瑣末でない[1]情報源において主題となっている[2]場合」

とあり、瑣末の定義とは、、、

「ここで言う「瑣末」な情報源とは、私人のウェブサイトやブログ、掲示板、動画投稿サイト、ウィキなど、信頼できる情報源に当てはまらないものを指します。」

とあります。自分が記事にした書籍には「新刊JP」という新刊を紹介するサイトがあるのですが、そこで紹介された(一記事として) ディベートに関する本というのは、基準を満たしているのではないでしょうか?(私人の定義も分かりませんが。企業も私人の集まりですから)

2 次に、今回の当方のケースは、ディベートのページの「ディベートを扱った書籍」の項目にある特定の書籍を載せるかどうか? が論点でしたが、では「ディベートを扱った書籍」などの項目を新しくつくる際には、それがいるかどうか?はどのような基準で 判断されるのでしょうか? --以上の署名のないコメントは、だいちやすお会話投稿記録)さんが 2011年11月11日 (金) 08:33 (UTC) に投稿したものです。[返信]

  • コメント 1.の項目についてはある書籍が独立項目として存在し得るかについてですから、直接の関係はありません。例えば我が闘争アンネの日記は問題なく存在し得る項目ですが、例えば今私の手元にある「かんたん指編みレッスン」的なものについてはいちいち記事は作りません。従って○○と言う項目の中で、○○を扱った作品一覧、として掲載するに足るかどうかには直接関係はありませんが、根底に流れている精神は同一です。Wikipedia:利用案内で既に紹介致しましたWikipedia:ウィキペディアは何ではないかでも示されておりますとおり、紹介する価値(特記性、特筆性、著名性、その他)のあるものだけ、紹介してください。全世界の、未来の、読者のことを一番に考えて下さい。紹介についてその必要性に異を唱えられたのであれば、その価値を出来るだけ理論的に説明してください。ある年度のベストセラートップ10に入っていた、社会現象となり新聞や雑誌で何度も些末でないかたちで紹介された、映像作品ならVTRとDVDが何度も再版されている名作である、興行収入何億円、コミカライズまでされた、続編がパート3まで作られている、などです。ぶっちゃけ申し上げますが、ディベートを主に扱った書籍など古今東西何百冊あるか、まあ私は解りませんが、まさか全て紹介する訳にも参りませんでしょう。これはどの項目にも言えます。ここはウィキペディア日本版ではなくウィキペディア日本語版だと言う点もご承知置き下さい。情報は全世界に紹介するに足るものであるべきです。2.につきましては、私と致しましては順序が逆と考えています。是非とも紹介が必要である特筆すべき作品が有った場合に、それを紹介すると同時に「○○を題材とした作品一覧」が、自動的かつ必然的に作成されるものであると考えます。器だけあって中身が空っぽでは仕方ないではありませんか!逆に、その記事の題材と深く関わる作品や書籍が特に無い場合、無理矢理このセクションを作る様なことはしません。実際に、無理矢理作られている記事も無いではないですが、必要に応じて作られており、多くの記事ではこのセクションは存在していません。まあ、まだ始めたばかりだと言うことで、この辺りはお暇な時にサーフィンや誤字訂正やリンク修正でも行ないながら、確認して頂けますとよろしいかと存じます。実際にあまり有用でないリストも多数ありますのがこのウィキペディアですが、その辺りは徐々に改善していくよりありません。加筆することもあれば、削減することもあります。よいものを目指して、皆さんが切磋琢磨しています--Hman 2011年11月11日 (金) 08:51 (UTC)[返信]
すいません。また文意不明瞭です。
>ある書籍が独立項目として存在し得るかについてですから、直接の関係はありません。
つまり特筆性の判断基準である「その書籍が、その書籍自体とは無関係な発信元〜」とは、単独の記事のことを指しており、ある記事内についての一項目の判断基準はそれはそれで別という意味でしょうか?
その表現に対する具体的な説明がなぜ、、、
例えば我が闘争アンネの日記は問題なく存在し得る項目ですが、例えば今私の手元にある「かんたん指編みレッスン」的なものについてはいちいち記事は作りません
これに繋がるのか分かりません。それといきなり再販やら名作やらベスト10やら社会現象やら基準が出現してきましたが、その基準は明文化されているのでしょうか?——以上の署名の無いコメントは、だいちやすおノート履歴)さんが 2011年11月11日 (金) 09:32 (UTC) に投稿したものです(森藍亭による付記)。[返信]
  • 1.に関して。すいません、私の書き方がどうも悪かったですね。はっきり申し上げます。「新刊JP」その他それに類するサイトや雑誌で一度や二度紹介されただけでは、特記性は全くと言って良いほど無いと判断するのがウィキペディアです。「ディベート」のいち節で紹介するだけの価値も認められません。少なくとも現時点では歴史的価値も社会的影響も発生していませんから(将来的に発生する可能性がありますが、発生してから記述してください)。もの凄く一般化して申し上げます。
  1. 「なんとかかんとか」と言う単行本の記事が立項されるには、著しく高い特筆性が必要です。我が闘争戦藻録クラスとまでは言いませんが、相当です。
  2. 「ほにゃらら」という記事内の「ほにゃららを扱った記事一覧」に含まれるには、相当に高い特筆性と関連性が必要です(今回のディベートはこれに当たりますが、除去されるべきです)。
  3. A山B雄という人物が単独記事として成立している場合、多くの場合、その記事内において著作の紹介は許されます。ただし余りにも多作な場合には省略を余儀なくされる場合があります。
相当な特記性・特筆性・著名性を持つ単行本は、非常に限られています。具体的な判断基準については何度も申し上げますが、ケースバイケースです。ノートで個別に議論し、対応してください。もちろん問題があれば、井戸端やコメント依頼でいつでも相談ができます。上記の一般化は私の経験と解釈に根ざした一般的なアドバイスであり、適用でいないケースも多いです。方針文書だって全てに対応したものなど出来るわけがありません。成立までの議論に何十年かかることやら・・・。という訳でウィキペディアでは「方針の文面ではなく方針の精神を尊重してください」ということになっています。まあ、もっとのんびりいきましょう。その内、ウィキペディアの流儀にも慣れてくると思いますよ。--Hman 2011年11月11日 (金) 10:47 (UTC)[返信]

それにしても貴方の経験に基づくウィキ内の一般論(主観)と明文化されたルールで意味が離れてますね。 あなたが説明したように具体的な目安として〜〜クラスと明文化すればもっと分かり易いですよね。 なぜしないのでしょうか。特筆性>書籍とかなり限定されてますから、ケースバイケースといえども だいたいは状況は変わらないはず。

>方針の精神

これも抽象的です。憲法が抽象的でそれのみでは治安維持できないように 具体的な法は必要でしょう。当方も「情報として価値があり、関連性がある」と思ってることには 変わりないんですから。人間社会でいうところの個々の法律がウィキの明文化されたルールでしょう。 今までさんざん〜〜を見てくださいとリンクを張っておきながら、「文はそんなに大事じゃない。 経験としてお前の記事は特筆性は無いと思うからダ〜メ〜」では論理的説得力を感じません。

--だいちやすお 2011年11月11日 (金) 11:18 (UTC)[返信]

  • そう申されましても、私が決めたわけではありませんから・・・。あなた一人が気に入らないからと言って、既に何万人もの方がこれに沿って活動している方針や運用はそう簡単には変わりません。もしウィキペディアの方針とその運用が肌に合わないのであれば、他にもwikiはございますので、そちらでご活躍頂くと言うのもよろしいでしょう。ニコニコ大百科などは私もよく利用していますし、エンペディアもそろそろ本格的に始動します。ウィキペディアは恐らく最大手ではございますが、別段特別なものではありませんから、その辺りは柔軟に対応してください。私もウィキペディアで歓迎されない記述については、他の所で書いているんですよ。--Hman 2011年11月11日 (金) 11:35 (UTC)下線部追加。および他の箇所でインデント修正。--Hman 2011年11月11日 (金) 11:38 (UTC)[返信]

>あなた一人が気に入らない

極論です。納得していないのは自分だけとは限らないでしょう。 一部の偏った仕切り屋になくなく皆が従ってるのかもしれない。

>既に何万人もの方がこれに沿って活動している方針や運用はそう簡単には変わりません

そういう意識だから世の中が良い方向に進まない。「〜人に影響があるから変えない」という伝統主義は ものごとの整合性とは何の関係もない。

ところで今回、当方は特筆性の根拠(サイトのいくつかに紹介された)を示したが、否定されました。 もちろん、それは一般論でありその記事、作品がディベートに精通する者に質的な影響を いかに与えたかを説明すれば、話は別かもしれません。それはいいでしょう。

1 そこで質問です。あなたは「ディベート」という記事に関わるにふさわしい、 その世界に精通した人間ですか?

2 もう一つ。特筆性の根拠の立証責任は自分にあるとして、   今度は「それがウィキの慣習として特筆性はない」としたあなたが、   実際にそういう慣習なのか?一般化するほど住人のあいだでコンセンサスがとれているか?   特筆性(書籍)もケースバイケースというが、この場合はなぜ一般論に当てはまるのか?   レアケースでないのか?の証明できますか?法的な立証責任がどちらにあるか?   という問題は複雑です。〜だと訴えた側、証拠に近い側、悪魔の証明じゃないほう、   などが絡み合ってます。でもこれは法律じゃないですからその基準は除外しましょう。   この件に関しては、貴方のほうがwikiに詳しいです。上記の(?)について証明してもらえますか?--だいちやすお 2011年11月11日 (金) 21:02 (UTC)[返信]

その「新刊」は日本や世界でどの程度の知名度があり、ディベートの普及や知名度、理解にどの程度の影響を与えたのでしょうか? 或いはその書籍が存在することで、どの程度のディベートの普及や知名度、理解があるのかを知ることが出来るのでしょうか?
貴方が誰かは知りませんが(署名もありませんでしたし)、恐らく貴方は被選挙権がある(=例えば現在禁固刑等に服役中ではない)と思いますので、国会議員となる基準を満たしていると思います。その貴方が国会議員ではないのは恐らく立候補していないからだと思いますが、何故に立候補していないのでしょうか。
貴方は被選挙権がある(=例えば現在禁固刑等に服役中ではない)という理由で件の「書籍」を立候補させました。それが落選しそうになっています。其処で為すべきことは被選挙権があることを示すことではなく、当選することでどれほど日本の為になるかを力説するところではないでしょうか。
例えばその書籍が女性向けファッション雑誌のコラムが単行本化されたものであるのなら、一見関連性の無さそうな「女性向けファッション」と「ディベート」との間に何かの共通した関わりがあることを示すものかも知れません。或いはそれが大ヒットしたハリウッド映画や、少年ジャンプに連載されていた人気漫画がディベートをテーマにしていたとかでも同様でしょう。それは未来の人類の為に遺すべき知識なのかも知れません。或いは歴史的にディベートという存在がまだ普及していなかった頃に、大衆にディベートを紹介した著名な書籍もまた、未来の人類の為に遺すべき知識で有り得ます。
Wikipediaは、誰にも知られず当然に未来の人類に何の影響も遺さないようなものを遺す為にあるのではありません。単に「扱っている」というだけの価値しか持たないのであれば、それが少なくとも充分に知られ世界に影響を及ぼしてから載せて下さい。そして可能なら二次資料が出た後で、それを出典にその書籍が如何に世界に影響を及ぼしたかを加筆して下さい。またもしも件の書籍にディベートに関する特殊な見解が載っているのであれば、それを出典としてディベートの記事本文への加筆を御願いします。
編集競合でチラ見してしまったので追加しますが、
それといきなり再販やら名作やら~~その基準は明文化されているのでしょうか?
されていません。その「文意」が理解出来るぐらいに百科事典やWikipediaの方針を理解出来るようになるまでは、今回のことは胸に収めておくと良いのではないかと思います。そして署名や段付けが出来るようになるぐらいまでは、誤字脱字等の些細な修正程度をしながら、たまに「これぐらいなら大丈夫だろう」と思う程度の些細な加筆や、或いはそうしようと思った頁のノートを眺めたりすることで色々と理解出来るようになってくると思います。時折激しい論争が繰り広げられている場合もありますが、そういう場所で紹介されているWikipediaの方針等を読めば、また理解が深まってくると思います。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年11月11日 (金) 09:55 (UTC)[返信]
>魔法使いさん
ん〜まず無駄に文量増やすのやめませんか。。。別に選挙に例えなくても。。。
>その文意が理解できるようになるまでは〜〜と思います
何の説明にもなってないですよね。ならばあなたの解釈を説明してくださいよ。無駄なことを書き込む余裕があるならば。
抽象的に「〜〜ができるくらいになるまではやらないほうがいい」
これって論理的な説得ですかwちょっと意外ですね。wikiってこういう偏った人が参加されてるんですね。本質とは何も関係がない--だいちやすお 2011年11月11日 (金) 10:36 (UTC)以上のコメントは、だいちやすお会話履歴)氏が[2011年11月11日 (金) 10:19 (UTC)]に投稿したものです。[返信]
wikiってこういう偏った人が参加されてるんですね
そうですよ。人間社会をはじめとする、ある程度長く続いているコミュニティーというものは、そういう偏った人が大多数を占めていることになっています。それは日本語で「大人」と呼ばれる人達であり、そういった偏った人以外の残りの人達とは、コミュニティーから理不尽に権限を制限されている「子供」と、「大人の一員となるべく大人の真似をして大人の振りをすることで権限を制限されることから逃れている子供」です。
大変残念なことに、それらの「偏った」内容を言語で表現する方法が人類の英知を以ってしても、未だに判明していません。それが判明すれば「子供」が存在しない社会やコミュニティーを形成することが可能になり、同時に「部外者」だとか「外国人」のような偏見や差別の無い世界が形成されるに相違無いと期待しています。今はまだ、偏った時代なのです。だいちやすお氏がこの「偏った内容」を理解し、それを未だ理解していない者に言語で理解させられる方法を確立して戴けたならば、それは人類の財産となることでしょう。
これって論理的な説得ですかw
何処をどう読んで論理的だと判断したのかは理解に苦しむところではありますが、特に説得しているつもりはありません。説得されていると感じるのは、何かの被害妄想と言えば言いすぎでしょうが、そういった類の強迫観念の一種なのでしょうかね。私も現実に「子供」だった頃にはそのように誤解したこともありましたので、被害妄想呼ばわりは流石に不当だとは思いますが。
本質とは何も関係がない
関係ありますよ。だいちやすお氏の言う「本質」とは即ち「無知識条件下で第三者が判定可能な客観的基準」であり、私はそれが「存在していない」ことを示すと共に「判定可能になる知識を入手する方法の一例」を提示したのです。欲しい物が手に入らなかったからって相手を罵っても、一時的な気晴らしになる以上のメリットは通常、何も無いものです。まぁ、世の中には「ゴネ得」というものもありますので、一概に「何もメリットが無い」とは言えないのですがね。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年11月11日 (金) 12:42 (UTC)[返信]

文章長いわりには大したこと書いてないですね。

>特に説得しているつもりはありません

アドバイスですから、一種の説得でしょう。アドバイス、提案するにも論理性は必要です。

>存在していない

客観性って相対的なものですから、(現状)より客観的(と人が思える)なものを求めているだけです--だいちやすお 2011年11月11日 (金) 21:11 (UTC)[返信]



だいちやすおさんへ。会話ページでも指摘されていますが議論をする前に最低限署名の仕方を学んでいただけませんか?--Aquamarin456 2011年11月11日 (金) 10:23 (UTC)[返信]

失敬--だいちやすお 2011年11月11日 (金) 10:36 (UTC)[返信]

コメント 大体私が言いたかったことは言われてしまっていますが……「特筆性」は取扱いが難しい方針ですし、ある程度柔軟に運用する必要があることもあり、その解釈に関して様々な意見が出されて、ウィキペディアがより良い方向に向かっていくのは良いことだと思います。
思いますが、ガイドラインや方針に粗があるからといって、そのことをもって『ウザい奴を言い負かす技術』(即時削除)に特筆性が発生するかというとそんなことは全く無く、だいちやすお氏が最終的にウィキペディアに前述の書籍の記事を作りたいと考えて議論を始めているなら、お互いにとって無駄な時間の浪費になりますよ、とは言っておいた方が良いと考えます。「新刊JP」の記事というのは「新刊JPニュース - 口ゲンカで負けないための7つの方法」かと思われますが、これだけで本に特筆性が生まれるかというと、かなり厳しい。
余談ですが、直前の記事「上司に必要な論語・3つの名言」を論語に載せるのも厳しいし、直後の記事「能動的に仕事ができるようになるメモのとり方」をメモに載せるのも厳しいと思います。少し前の記事「『ワンピース』ルフィに学ぶ、仲間に信頼されるコツ」をONE PIECEに載せたりなんかしたら、袋ですな。--Starchild1884 (LuckyStar Kid) 2011年11月11日 (金) 21:10 (UTC)[返信]

なるほど。ただそれもその記事の業界(世界)の大きさ、総情報量にもよりますよね。 たとえば「けん玉」のページに扱った書籍として「けん玉テクニック100」という本があっても不自然ではない。 ここがケースバイケースといわれるゆえんではないでしょうか?--だいちやすお 2011年11月11日 (金) 21:23 (UTC)[返信]

いや、「けん玉を扱った書籍」節が存在した場合にその本があったら不自然ですよ。日本で最初に紹介された際の本とかであれば別ですけれど(特筆性あり)。
前にも(履歴要約欄で)言いましたように、記事発展に繋がる有用な記載のされている本であれば、記事そのものの出典・参考文献として使用する分には問題ないと思います。ディベート#脚注 / 出典を参照して下さい。--Starchild1884 (LuckyStar Kid) 2011年11月11日 (金) 21:30 (UTC)[返信]

>日本で最初に〜

では日本初のけん玉テクニックを紹介した本ではどうですか?

>出典

前も聞きましたけど、出典だけに載せろって話ですか?出典にも書いてリンクつけろって話ですか?--だいちやすお 2011年11月11日 (金) 21:42 (UTC)[返信]

この辺は程度問題であり、流石に『論語』や「メモ」に対して前掲の書は瑣末過ぎて載せられないですが、『ONE PIECE』については、当該漫画作品の社会的影響力を示す論拠として、「『ワンピース』ルフィに学ぶ、仲間に信頼されるコツ」の存在について同種のコバンザメ本と共に軽く言及する程度であれば、差し支えないと思われます。--4行DA 2011年11月12日 (土) 02:24 (UTC)[返信]

4行DA様が仰られるように、私も『程度問題』だと考えます。広範な事物に関する記事であればそれについて書かれた本は無数に存在するために平凡な本を記載しようとしても特記すべき事情があるかと問われるでしょうが、特定・固有の物品に関する記事であってそれについて書かれた本がそれほど存在しない場合には、特記すべき事情が無い本でも記載してかまわないように思われます。結局は記事対象が世間でどれだけ用いられているかという範囲の広さに応じて変わってくるのでしょう。例えば「和食」や「戦争」、「機械」などはあまりに対象が広いのでそれを扱った書籍は無数に存在するのに対して、ご当地料理の「うどんぎょうざ」、特定の戦いである「仁川沖海戦」を主体的に扱ったもの、華々しい成功には縁遠いと思われる「あかつき (探査機)」などはそれほど多くの書籍が出版されているとは思えません。後者の例で、当該カテゴリの書籍の存在数が少ない、つまり稀有であるというのはある種の特記すべき点とも考えられますし、(参考図書節に入れなくとも)読者へ参考図書としての利便もあるかも知れず、そのような書籍類の記載が受容される可能性は高いと考えられます。逆に前者の例で、無数に存在する書籍の一部を記載しても、何とか全てを記載すべく努力しても、そのような情報が役に立つとは思えないので、記載が受容される可能性はあまり無いと考えられます。また、インターネットの普及によってネット通販サイトで書籍も容易に検索できます。ネット上の百科辞典であるWikipediaに、ネットにすでに存在する同じ情報をあえて記載しても利便性がそれほど高くなるとも思えず、記事に関係する本の情報を強いて個別記事内に載せる必要性は少なくなっているようにも思えます。一方では、他で代替できない情報は重要ですので、ネットなどでは容易に得られない古書などに関する記載は比較的価値があるとも思えます。--Shigeru23 2011年11月12日 (土) 07:01 (UTC

こうなってくると程度問題とはいいつつも、書き方の工夫によってどんな書籍も記事に含めることが可能な気がします。 例えば論語の記事で「論語をテーマにしたビジネス書はいまではたくさん出版されており(例えば「上司に必要な論語」)〜」 のような一例としての書き方ならば、特筆性の無い書籍も載せることは可能ですし、また本のちょっとした特徴に結びつけ、 ディベートの記事に「ディベートは今では一般的な言葉になっており、ビジネス層向けのはずの新書に「ザ ディベート」という書籍が 登場するほどである」(ちょっと厳しいか。。。)というこじつけも可能ですよね?つまり特筆性とは印象の問題であり、その印象とは表現によって どうとでもなるのではないでしょうか。--だいちやすお 2011年11月12日 (土) 09:21 (UTC)[返信]

コメントいやぁ…「書き方の工夫によってどんな書籍も記事に含めることが可能な気がします」ってのは、たぶん本当に気のせいでしょう。書き方如何とはいえ、汎的な概念を偏った書籍で説明するのはどうかと思うし、まして出典は論拠では無いのだからして、記事主体の説明に絡まない…というか、末の末にあるサブカルチャー的視点から、元概念の主体を説明するのはどうかと思うのです。まあ、程度問題とはいえボーダーギリギリのものをどっちに倒すかということと、完全にボーダーラインどころかボーダーから遥か彼方の水平線に望むような事柄を同列に扱うことはできませんし、ましてそれを同列に扱おうとすれば、そのような混同視点を平気で振り回す側の見識や理解度が疑われるだけで、目的の無いディベート合戦なら「相手に呆れられて放置される(=無視)」ことが期待できるながら、目的をもって進行するプロジェクト(これは「百科事典を作る」という目的をもったウィキペディアも含む)からはパージ(=排斥)されるだけになってしまい、双方に益がありません。こじつければ、それだけ「プロジェクトに関わるのは無理があるのではないか」という総合評価が与えられるだけかと存じます。--夜飛/ 2011年11月12日 (土) 10:21 (UTC)[返信]

ところである書籍の内容を載せる場合の特筆性の基準というのは、書籍自体の特筆性と同じですか? 例えば「〜氏は「ザ・ディベート」の中において「ディベートとは、知的な格闘技である」とディベートを定義付けている」という 一文を載せたい場合、その説明に必然性があるか?重要か?などが基準ですか?--だいちやすお 2011年11月12日 (土) 10:57 (UTC)[返信]

まあ、そうなるでしょうね。特筆性の観点から鑑みて、その人物の著名度・その分野への関係度や重要性・あるいはそれ(発言や行動)が他(そちらの重要度も考慮される)に及ぼした影響が特筆性に大きく影響すると思います。ただ、ここで「よくある問題事例」としては、記述者自身の立場やバイアスなどから、自身の関係している分野への影響があると過大評価して、結果中立的視点から問題視されるものがあります。汎社会的な事柄は俯瞰的な立場から判断すべきなのに、記述者の主観的視点に偏ってしまえば、それこそ「目前に突き付けられた団子は空の月より大きい(そのように見える)」という按配で…まあ子供が無邪気に縁側で言うなら微笑ましいのですが、百科事典に書き込めば「つまみ出される」水準の内容である次第。「何某かの一文を載せたい」から載せるという欲求は一切捨て、事物を説明する文章を構築する上での必然に沿って文脈に上るなら扱い、説明に絡まなければ全く載せないように心掛けることこそ百科事典記事の記述者に求められる態度かと存じます。--夜飛/ 2011年11月12日 (土) 11:23 (UTC)[返信]

この中立的視点も難しいですよね。その「業界の中にいる人の中立的視点」と「外野の中立的視点」では全然違います。 例えば、「ザ ディベート」が競技ディベートに携わってる人の間で実際に画期的な本、バイブルという位置づけであった場合、 外野の人には全然分かりませんから。そのような状況では今のwikiにおいてどう判断されるのですか? 記事を載せたい人が「業界内にいる人にとっては〜である」という立証をするのでしょうか?その証明ってなかなか難しいですよね?

Wikipedia:出典を明記するWikipedia:信頼できる情報源あたりが参考になるかと。要するに、何の媒体がそう言っているのかが明記することで、記事全体としての中立性を、その記事ごとに考慮するということになるでしょう。外野の人にはわからないのであれば、それの情報源はやや中立性を欠くということになりかねません。基本的にはその項目に詳しい編集者が来るのを待つということになるでしょうが、それ以前にやはり外野の人でも解るような形を工夫して中立性を保持するようにころがけるべきです。最初っからルールの抜け穴を目指すようなことは慎まれねばなりません。
それはそうと、「その項目を設けるかどうか」ということで始まった議論が、随分と内容をそらしているようです。

このへんでいったんお開きにして、他に議題がある場合は改めてご提議いただくということではいかがでしょうか?--アイザール 2011年11月12日 (土) 12:22 (UTC)[返信]

ですのでタイトル変えました。

>外野の人にはわからないのであれば、それの情報源はやや中立性を欠くということになりかねません。

ん〜貴方の説明は分かりにくいですw詳しい編集者が来るのを待つのであれば、内野の意見重視では? 自分の質問を具体的にいうと例えば社交ダンスについて記事で「ダンスビュウ」に載ってたことを根拠に ある文言を載せようとします。ダンスやってる人しかダンスビュウの重み、価値は分からないですよね? 外野の人は「一雑誌じゃないか。それに載ってたからなんだってんだ」となりますよね? こういう場合どうしますか?という話です--だいちやすお 2011年11月12日 (土) 12:47 (UTC)[返信]

コメント その雑誌の重要性を誰にでもわかるように説明すればいい。--Calvero 2011年11月13日 (日) 05:38 (UTC)[返信]

コメント 基本的にはアイザールさんも書かれているWikipedia:出典を明記するWikipedia:信頼できる情報源で、どの程度のものを出典とすべきか書かれています。ただしWikipedia:方針とガイドライン全体に言えますが、方向性や例示はありますが、法律のように明確・具体的な判断基準は書かれていません。これはウィキペディアは規則主義ではありませんでも書かれていますが、よく言えばウィキペディアはコミュニティを信用して成り立っており、具体的な判断は編集を重ねて(時には議論し合意形成して)改善する、特筆性の無い記事(百科事典的でない記事)はWikipedia:削除依頼で審議して削除される、という事です。あまり明確・具体的な回答を期待しても無理だと思います。当然ながら、分野により、記事により、編集者により、かなり幅があるのが現実です。つまり、明確な基準があり管理されたような世界ではありません(ボランティアの集合体です)。参考にするならWikipedia:秀逸な記事などと思います。なお「月刊ダンスビュウ」のように出典の知名度が気になる場合は、知名度が高く専門性の低い出典と出典を併記するとか、「○○の調査では○○分野の専門誌とされている○○では、○○と記載している」などと(本文または脚注中に)「重み、価値」を書いてしまう、更には「月刊ダンスビュウ」の記事を先に作成してその中で「重み、価値」を(客観的な出典を付けて)書いてしまい、個々の記事では出典としてそれをリンクする、などでしょうか。--Rabit gti 2011年11月12日 (土) 13:34 (UTC)[返信]

規則主義じゃないのなら「〜に載ってます」という提示は何の意味もなさない。

>合意形成

ところで上のほうの議論でもまだ他の方から反論を頂いてない論点がいくつかあります。「合意」「合意」といいつつ、 結局ウィキは今まで議論に根負けしたほう、興味が無くなったほうの主張が却下されるのではないでしょうか。 議論なんて続けようと思えばいくらでも続けられます。このまま決着がつかなかった場合はどうなるのでしょうか? その議論を持ち込んだ人を厄介者扱いして制限をかけてきたのでしょうか?それって議論ですかね? そもそも合意って自分と誰との合意ですか?ボランティア全員の人と折り合いつけることなんてできるのですか?--だいちやすお 2011年11月12日 (土) 20:17 (UTC)[返信]

コメント だいちやすおさん、一般論として「ウィキペディアは不完全だ、各ガイドラインは曖昧で相互に矛盾するものも多い、これでは正確な運用はできない」という指摘であれば、全くその通りと思います。また「規則主義ではない」とは「全ての規則が無い」ではありません。まずはWikipedia:合意形成を含め各ガイドをちゃんと読んでから、仮に賛同できるなら参加する(各ガイドの具体的な改善提案もできます)、できないなら参加しない、との自由があります。仮に単純な言葉の遊び、または論理的矛盾の指摘を続けられるのであれば、この井戸端は適切ともおもえません。そもそも、ウィキペディアは制度・組織として完全だと言っている人はいません。多くの面で良くも悪くも理想主義(ボランティア同士でコミュニティで議論し合意すれば、発展するはずだという)と私は思っています。--Rabit gti 2011年11月13日 (日) 00:56 (UTC)[返信]

>また「規則主義ではない」〜〜

規則をかっちりつくらないという意味ですよね?それもまた同様に解釈しようが無いと受け取れると思います

>各ガイドをちゃんと読んでから

Wikipedia:合意形成も読みました。けどやはりどれも美しく書くことを意識し過ぎて、「ニュアンスの伝わりやすさ」 が失われてる気がします。どれも抽象的で説明が下手ですね。kiss原則といいつつ長いですし。例えば合意のレベルの段落で、、、

「コミュニティに対して十分な告知が行われる場合のみ、沈黙を同意とみなすことができます。」

とありますが、コミュニティとはここも当てはまりますか?そして当方が行った議論において 上のほうでも反論が返ってこないものについて沈黙と判断していいですか?

合意形成の段落において、、、

「その両方を連携させた作業による方が得られ易くなります」

というのはつまり今回の議論でいえば、ディベートの編集に関わったことのある人(自分)の 意見のほうが関わったことの無い人よりも合意されやすいということでしょうか。

「いくつかの処理があります」

と5つ例示しているが、どれを誰が選ぶのか?

コミュニティの議論の段落において、、、

「コミュニティの議論はお知らせ、コメント依頼などのページで起こされます。」

とあってコミュニティの意味が分かりました。でもこれはコミュニティという単語が出た時点で説明すべきでしょう。 それと多数決主義ではないのであれば、第三者の意見があったところで、納得できない人がいれば決着はつきません。 その場合はどうなるのでしょうか?

>理想主義

理想主義とは「(最大的な)理想を追う主義」としてすでに概念があります。 幻想主義(勘違い)とまではいいませんが、ただの一つの考えでしょう。


--だいちやすお 2011年11月13日 (日) 19:44 (UTC)[返信]


コメント だいちやすおさんへ。「規則主義じゃないのなら「〜に載ってます」という提示は何の意味もなさない」とは意味がわかりません。「ところで」以下、Wikipedia:合意形成 を読んでみるといいんじゃないですか。屁理屈ばかり言う人、自分の意見を通すことしか考えない人は「厄介者」にほかなりません。そういう人は「議論なんて続けようと思えばいくらでも続けられ」ると思うものです。そういう人のために、ガイドライン Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しない があります。--Calvero 2011年11月13日 (日) 05:38 (UTC)[返信]

はい、読みました。以下引用です

「ときに悪意ある編集者や、自説を何とか通したい編集者は、自分の主張や観点が否定された後もぐだぐだと固執し、いつまでも言い続け、他者の言葉を受け入れたり自らの過ちを認めたりすることを拒否して、いつまでも論争を続けようとします。そして、しばしばこのような編集者は、要点をはっきりさせようとしてなされた、他者のささいな発言を根拠にして、次なる攻撃や妨害的編集を続けようとします。ウィキペディアは協力的で、善意に基づいた編集、そして合意の上に成り立っています。だからこそ、ある主張をしつづけることが常識的な程度を超え、方針ではこうであると明示されても、あるいは根拠に裏打ちされた意見を熟練した複数の編集者、管理者、調停者から示されても、「納得する」ことを意図的に拒否していることが明らかになった場合、納得の拒絶を継続することは、もはや正当性のある態度、方針に準拠している態度とはいえません。それは、自説を通したいがために合意形成の方針を悪用した、妨害行為です。」

これが多数決主義そのものでしょう。「常識的な程度を超え」とありますが、常識というのはベストではなく、所詮は平均値や多数の意見です。非常識でより良いものも存在します。なぜそこを目指さないのでしょうか?また屁理屈の定義を教えてください。

--だいちやすお 2011年11月13日 (日) 19:57 (UTC)[返信]

コメント 多数決主義そのもの、と断定できる根拠が提示されていません。合理性の採用に基づいて意図的な合意の拒否を排除することが、数の論理によるものとはいえません。また、だいちやすいおさんは、主張の方法が非常識であることと、主張の内容が非常識であることを混同しています。--Calvero 2011年11月14日 (月) 11:44 (UTC)[返信]

コメントごくごく簡単に言えば、載せるべきと思う人が削除すべきと思う人より有意に多い状態なら残ります。Wikipediaを見に来る人は百科事典を期待して見に来ているのですから、知らないし知りたいとも思わないような本の名前を載せられていたら、削除したほうがいいと思うでしょうね。そしてWikipediaは信頼できる出典がない記述は削除していいことになっています。削除されるのが不服なのならば出典、そうたとえば著名な賞を受賞したとか、ミリオンセラーになったとかの記事を探したほうがいいですね。もちろん多くの書籍はそんな記事は書かれません。それは万人に認められるような特筆性がないということです。世間では知られてなくても、その分野では有名という可能性はありますから、その項目のノートで「参考文献にのせていいか」ぐらい聞いてみるのは許されると思いますが、合意を得れないなら諦めましょう。何の問題もなく合意がえれるような本のことを特筆性があるというのです
そして現実問題として、Wikipediaを書籍の宣伝の場にしないためにやや厳しいぐらいになるのは致し方ないことなのです--Littlefox 2011年11月13日 (日) 10:59 (UTC)[返信]

その考えでいくと、その記事を読んだ人が知的好奇心をくすぐられる有用な書籍であり、出典があればいいわけですよね。 先ほど「ディベート」の中の「ディベートを扱った書籍」の段落にて、、、


   図解雑学ディベート/鈴木勉(ディベートの基本を抑えた本)
   ウザい奴を言い負かす技術/北野真事(反論法に特化した論法書)

と書き換えました。ディベートの本を探してる人からすれば、もの凄く有用で助かる情報といえます。 これで出典つければ OKでしょうか?--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 04:55 (UTC)[返信]


コメント 「新刊JP」は検証可能な二次資料ですが、Wikipedia:検証可能性にはある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかをご覧ください。と書いてあります。そこでWikipedia:ウィキペディアは何ではないかを見てみると、ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんと書いてあります。ウィキペディアは規則主義ではありませんが、検証可能性や何ではないかは編集で必要なルールです。

必要なら3冊とも脚注で出典として示したら問題ないと思います。3冊とも検証可能な資料で、出典として有効です。「ディベートを扱った書籍」では参考文献か解説本文か分かりません。--Wikiemon - Talk - History 2011年11月14日 (月) 00:00 (UTC)修正--Wikiemon - Talk - History 2011年11月14日 (月) 00:06 (UTC)[返信]

昔から「無学者、論に負けず」というように、相手のいうことなどまるでわからない(わかろうとしない?)石頭のほうが、えてして自分のいいたいことを押しとおしてしまったりするものである。 — 野崎昭弘「詭弁論理学」pp.3-4 中央公論 1976年
ウィキペディアの「規則主義ではない」というのは、とどのつまり、社会常識に照らすなどして「最後は自分の頭で考えろ」ってことです。いくら理屈を並べようと、ガイドライン文章の細かい部分を突っついて主張しようと、普通、社会常識に照らして、ただ話題が関連しているというだけで書籍の情報を載せることはありえません(あ、くれぐれも常識を証明しろなんて言わないでくださいね)。ここが理解できないなら、あなたは意図的に詭弁を弄しているか、社会常識が無いってだけの話です。そして後者の場合に、社会常識を一から教えてあげる義理もなし。というわけであと2つほど同書から引用。
(詭弁に対し)基本的な対策としては(中略)「健全な常識、健全な判断力を養う」ことが大切ではないかと思う。いかに力強い言葉で説得されようと、「だから、官憲も婦女子も無差別に殺せ」というのが結論であれば、断然はねつけるだけの理性は残されなければならない。「あなたの考え方には、ついていけません」反論はこれで十分である。 — 野崎昭弘「詭弁論理学」pp.116
正しい議論のための原則2:時間は惜しむな、打ち切るのを惜しむな。
議論は一歩一歩、お互いに一致できる点を確かめながら進めるとよい。(中略)そうかといって、ムダに時間を費やすことはない。相手が強弁・詭弁を弄してきたら、もはや正しい議論は望めないので、惜しまず議論を打ち切ればよい。』 — 野崎昭弘「詭弁論理学」pp.121-122

-EULE 2011年11月14日 (月) 03:13 (UTC)[返信]

野崎さんの詭弁論理学も逆説論理学も読んでます。でもそれらやよくネットに転がってる詭弁15か条と照らし合わせてもどのへんが詭弁であるのか分かりません。説明できますか?

人を詭弁扱いするのは、、、

4、主観で決めつける 11、レッテル張りをする

ではないでしょうか。それと上の議論でもでてきましたが、「常識」といってもその書籍の重要度、貢献度がその記事に関する インサイダーの人と外野で意見が分かれるんですよ。あなたの主張は過去の論点です。上から全て読んでください--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 04:08 (UTC)[返信]

ここでいう「常識」は、その本が重要かどうかではなく、どのような本(の情報)なら載せられるか(載せるべきか)の規準です。例えば事典や論文、学術書等で参照される方法・基準なら何でも構わない。それがここでいう「通常」「一般」「常識」に照らしての基準です。もちろん「その分野で重要と考えられているから」は、社会常識に照らして十分特筆性があると見なされるでしょう。
だけど、既に上で何度も反論されているように、それが重要だというなら、重要だということを証明する必要がある。その論拠を持って相手を納得させる。それこそディベートじゃないですか。
その証明ができないというなら、残念ながらウィキペディアには載せられない。いたってシンプルな話です。それを「ガイドラインにはこう書いてある」とか「常識は人によって違う」とか言い出すのを詭弁といいます。--EULE 2011年11月14日 (月) 05:18 (UTC)[返信]

いやいや、流れを説明するとまず自分が「新刊JP」などの情報源や特筆性を主張し、「それでは特筆性があるとはいえない」という話になり、 定義や原則論に移ってるところですが?もちろん当方も色々な表現方法によっていかにその書籍が重要であるかを説得することも可能です。 が、それ以前に上の議論にて相手が議論を放棄、停滞してしまってます。--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 05:45 (UTC)[返信]


ってかグダグダ机上の論争続けてもしょうがないから、試しにノート:ディベートで、あなたが加筆しようとしている書籍がディベートの分野で重要なものだと考えられていることを論証してください。例えば、ディベートを扱った論文からの被引用数が多いとか、ディベート分野で著名な人物の書籍の参考図書に挙げられているとか(もっとも、ここで言ってるのは憲法 (芦部信喜)くらいのレベルです)。--EULE 2011年11月14日 (月) 05:36 (UTC)[返信]

論証の方法ってそれだけですか?説得の方法は他にいくらでもありますし、そもそも特筆性(書籍)の項でそんな基準は書いてなかったですけど?上でどなたか言ってましたけど、wikiは偏った人の集まりですね。いろいろな人がいろいろなことを言っている--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 06:07 (UTC)[返信]

>もちろん当方も色々な表現方法によっていかにその書籍が重要であるかを説得することも可能です
ええ、はいだから、早くそれをやってください。議論が停滞しているというなら尚更やってください。それで今回の話は終わりですから。それが妥当なものなら、あなたより賢い人が、あなたの論拠を使って無理なく事典にあなたが載せたい書籍の情報を載せますし。
>論証の方法はそれだけですか?
もちろん他にも良いですよ。100万部売れたとか、社会現象になったとか、何でもいい。芦部氏の憲法は、教科書的な(初心者向け)として紹介される場合にはこのくらいのレベルが欲しいという話です。むしろ、論証方法がたくさんあるからこそ可能と不可能な例を一々ガイドラインに記述してないんですから。
端的に言えば、社会常識に照らして特筆性があるとみなされる論拠なら何でも良いです。「常識」という言い方が嫌なら、ディベートっぽく、多くの第三者を納得させられる論拠なら良いと言い換えましょうか。--EULE 2011年11月14日 (月) 06:48 (UTC)[返信]

>100万部売れたとか、社会現象になったとか、何でもいい。

それは単純な数字の話でしょう。書籍の内容がすぐれ、実際に有用であれば載せる価値はあるでしょう。 ではおなじ数字を持ち出すのなら、、、 「ウザい奴を言い負かす技術」は日本ではじめて議論における論法(主観、一般論など)に特化した、 100個の論法集です。ディベートのルールや数えるくらいの論法を紹介した書籍の中において、 この書籍は突出しています。もちろん当方はほとんどのディベート関連の書籍に目を通しています。 --だいちやすお 2011年11月14日 (月) 07:40 (UTC)[返信]

別に50万部でも1000万部でもいいですよ。相手を説得できると考えられる数字ならいくらでも。要は客観的にみて納得しうるかどうかであって。書籍の内容を論拠にしたいなら、それを軸にすれば良い。
>ウザい奴を言い負かす技術」は日本ではじめて議論における論法(主観、一般論など)に特化した、100個の論法集です。ディベートのルールや数えるくらいの論法を紹介した書籍の中において、この書籍は突出しています。
それを第三者が納得するよう説明する必要があると言ってます。本当に日本で初めてなのか?本当に他と比べて突出しているのか?その根拠はどこにあるのか?それが重要なのです。
少なくとも現時点ではその論拠は「当方はほとんどのディベート関連の書籍に目を通しています。」だけのようですが、「私は専門家だから、この事象については詳しいんだ」で押し通そうとしたらディベートでは0点だって、ディベートに詳しいのならわかりますよね?--EULE 2011年11月14日 (月) 09:19 (UTC)[返信]

ならば発行部数だって基本的には出版社の自己申告ですよ? そして100万部はホントに凄い数字ですか?他にもっと売れたものがいっぱいあるんじゃないですか? それと比べたら大したこと無いんじゃないですか?世界的に見たら大したこと無いんじゃないですか? 100個の論法がはじめてかどうかはアマゾンなどで議論、ディベートで検索し、概要を調べればある程度分かりますよね? それも二次情報の中のあるライターの「他にこのような本は無い」という文言が無ければダメですか? その記事もライターの主観、推測でしょう。

それでは逆に憲法やらが載せるべき特筆性があることを論証してみてください--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 09:40 (UTC)[返信]

ほらほら。それが詭弁です。別にどんな論拠を用いても良いと言ってるでしょ。別にあなたが出版社の出す数字に価値は無いと考えようと勝手だけど、出版社の出す数字のみ根拠として認めるなんて私は言ってないでしょ?
数字に根拠が無いと思うならどうぞ好きなだけ主張してください。だからといってあなたの論述の説得力が上がるわけではない。--EULE 2011年11月14日 (月) 10:05 (UTC)[返信]


>出版社の〜

ですから出版社以外の媒体に載ってる数字もだいたいは自己申告を鵜呑みにしたものですよ。 そしてあなたの上述の理屈だとその数字がホントに凄い数字なのか?他に無いのか? も証明しないといけなくなります。そのお手本を見せてくださいと言っている--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 10:20 (UTC)[返信]

数字については既に詭弁だと指摘しているし、下に背番号9氏も指摘しているので何も言うことはないですが、お手本が欲しいなら今1時間ばかり、調べてきたので、それを。
  • 「憲法入門」 粕谷友介
  • 「憲法の要点」 布川光正
  • 「現代憲法論」 佐藤司
  • 「日本国憲法」 松井茂記
  • 「戦後教育と日本国憲法」 小山常実
  • 「憲法」粕谷友介・向井久子
  • 「学習憲法」森省三・金谷重樹
  • 「憲法入門」三志社
  • 「憲法問題(第一部)」全国憲法研究会
とりあえず時間が無いので入門書系統で、かつ巻末に参考図書が挙げられているものを調べて芦部氏の「憲法」があったものを挙げてます。参考図書中に無かったもの、例えば「憲法」(長谷部恭男)や「憲法」(辻村みよ子)などがそうですが、その場合でも芦部氏の書籍は挙げられています。芦部氏の「憲法学」は割と挙げられているのですが、その参考図書には自著として「憲法」が挙げられたりしています。
というような感じで論証します。調査時間もないし、これが実際に正しいかどうかは知りませんが、相手を納得させるための最低限のラインは超えているでしょう。これで納得しないのは(より正確には、あえて反発するのは)、憲法分野に詳しい人か、ひねくれ者かな。--EULE 2011年11月14日 (月) 11:21 (UTC)[返信]

>数字については既に詭弁だと指摘している

の意味が分かりません。貴方は最初に〜万部などの情報でいいから示せといい、かつ当方の情報量の数(論法数)を論拠にした 証明は無効とした。貴殿が否定した論法で発行部数を当方が否定した(矛盾指摘)という流れだが、結局数による論証はできないのですか? あなたが認めないというだけですよね?本来は行ってもいいのですよね?

そしてそれらの文献に参考図書として載ってるとのことですが、それが意味するのは「それだけ認知されてる」ということ。 では、主要ニュースサイト(ライブドア、ニコニコニュース、エキサイト、mixi)に載ったというのはどうですか? というか上記の本は有名な本なんですか?自費出版じゃないんですか?今や有名な出版社も自費出版行ってますよ? 見分けつきますか?

--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 11:53 (UTC)[返信]

    • コメント下記での終了提案に賛同された以上、無用の混乱を防ぐため、これ以上の発言はお控えください。だいちさん以外の方々も、本件のクローズにご協力ください。--アイザール 2011年11月14日 (月) 12:31 (UTC)[返信]
◆だいちやすおさん、はじめまして。Wikipedia日本語版は様々な考えの利用者の方々が参加されていますので、参加制限や記事の削除等を除き、確固とした規則を設けていないまま、おおよそのコンセンサスの下で運営されているということを、まずはご理解ください。おそらく、利用者の考えが多岐にわたっているために、貴方から見て極端に自分と異なる意見が「偏った」と見えてしまうのではないでしょうか。EULEさんのおっしゃっていることは簡単な話で、要は反対する者がグウの音も出ないほどの理由(通常は出典)を付けて加筆すれば誰も文句を言わない、ということに尽きます。そうでなければ、多用な意見の持ち主が集まる場での説得は難しいでしょう。--ろう(Law soma) D C 2011年11月14日 (月) 06:58 (UTC)[返信]
コメント資料を掲載したいならば、それが掲載に足る重要な資料だという立証を だいちやすお さんがすれば良いいだけの話。例えば発行部数でもいいですよ、というその立証方法の例示に対して、発行部数は大事ですか?ってその例示した立証方法に不満があるなら、じゃあ記載を求める だいちやすお さんが他の方が賛同できる立証方法を貴方が提示し、立証すればいいだけの話です。立証方法を他者に求めて、その立証方法は間違っていると指摘し、仮に論破できたとしても、貴方が本来やるべき、資料の重要性の立証は、何ら果たされませんよ。
そしてコメント2ですが、そもそものルール自体に不満があれば、いっそ だいちやすお さんが問題だと思っている箇所に対して、その問題点と改善策を各位が理解できるように、分かりやすく提示して頂いてはどうでしょうか?確かに特筆性の基準は、曖昧なまま運用されている部分もあると思います。
だいちやすお さんは初心者とのことですが、ルールは大枠で理解されているということですし、詳細は逐次調べる能力はあるでしょうから、できないことではないでしょう。--背番号9 2011年11月14日 (月) 10:17 (UTC)[返信]


本件の終了動議

当初の議論から逸脱して哲学論争の領域に入っていると思います。本議論の最初に提起された疑問は以下の2点でした。

  1. 『ウィキの特筆性(書籍)の判断基準に…』
  2. 『「ディベートを扱った書籍」などの項目を新しくつくる際には、それがいるかどうか?はどのような基準で判断されるのでしょうか?』

1.のWikipedia:特筆性 (書籍)の内容に関しての議論は、基本的にWikipedia‐ノート:特筆性 (書籍)で行われるべきでしょう。 2.に関して、多くの方が意見を述べており、私の目からはコミュニティとしての一応の回答が得られているように思えます。井戸端ではほとんど何でも疑問点を尋ねて良いとは思いますが、Wikipediaのコミュニティ運営に無関係と思われる話題まで長々と討論が続くのは、後ほど過去ログから類似トピックに関する意見を得る時の障害と成り得ますので、そろそろ終了することを提案します。--Shigeru23 2011年11月14日 (月) 11:11 (UTC)[返信]

了解致しました。ディベートのノートへ移動します。EULEさんはそちらにてご反論お待ちしております--だいちやすお 2011年11月14日 (月) 11:24 (UTC)[返信]

反論なんか無いです。あなたの論証の義務しかないです。どのみち論証すべき場所としてノート:ディベートと既に言ってます。--EULE 2011年11月14日 (月) 11:36 (UTC)[返信]