Wikipedia:井戸端/subj/主張の中に他者の指摘を加えることは問題ないのでしょうか

主張の中に他者の指摘を加えることは問題ないのでしょうか[編集]

日本会議においてこちらの差分が情報の合成にあたるかという議論がおきております。WP:SYNにはこのような用例は無いのですが、出典Aの主張の中に出典Bの指摘が入ることで、AがBの指摘も含めた主張をしている形になり読み手に誤解を与えるものと思われます。またこの類の編集が容認されうると『誰某への批評』の誰某のところに批評ではふれられていない『何々の団体に所属している誰某』という表記を加える恣意的な編集を容認することとなる虞があると考えております(こーいう話自体がWP:BEANSになりかねないので嫌なのですが)。このような入れ子型の編集は容認できるのか避けるべきか、ご意見おねがいします。--203.148.113.183 2016年8月8日 (月) 14:25 (UTC)[返信]

コメント 情報の合成とは「出典Aと出典Bを使って書き下し文Cにする」ものをいいます。具体例としては・・・どちらも2次情報源として、
出典A「このリンゴは青森産です」
出典B「このリンゴは赤いです」
書き下し文C「このリンゴは青森産[出典A]で赤い[出典B]です。」
出典Aでは、リンゴが青森産であることは書いてありますが、赤いかどうかは書かれていません。出典Bでは、リンゴが赤いことは書いていますが、青森産かは書かれていません。つまり、出典Aと出典Bによって情報を合成し、あたかも「このリンゴは青森産で赤い」ことを述べているかのように見せかけている状態をいいます。
日本会議におけるものについては、発言者がどういう立場かの「情報の補強」を行っているように見えます。しかし、当の人物の立場が最初に書かれている出典にないのであればこれを書き加えるべきではありません。二次情報同士では補強は成り立たちにくいのが現状です。そもそも、指し止め要求を行ったのは、日本会議→著者および出版社ですので、何かに所属していたとかは本来「著者の人物ページ」で書かれていればよいといえます。ログインや登録をしなければ見れない情報源でわざわざ補強する必要性は薄いと言えます。--アルトクール会話2016年8月8日 (月) 15:06 (UTC)[返信]
コメント 宗教学者のだれだれが、政治評論家のだれだれが、などは無出典でも頻繁に行われる情報の補強です。これがダメだというなら、「統一協会系のなんとか新聞」や「共産党の誰々」などとして、記事本文の対象と対立関係にある人物・団体による情報源だと一見してわかるようにする工夫も全部除去で書かないことに統一すべきでしょうね。また、朝鮮日報に限らず、朝日新聞などのバックナンバーもネットではログインや登録をしなければ全文見られないので、紙媒体で発行されてる新聞はネットでログイン登録が必要かどうかを考慮する必要はないでしょう。--ぽてから会話2016年8月8日 (月) 16:00 (UTC)[返信]
  • コメント メディアでは大抵著者で済んでるとこをマイナーなとこを持ってくる必要はあるのでしょうか、それとも本人が元何々ですよと著書などで積極的に喧伝しておりますか?--203.148.113.183 2016年8月10日 (水) 12:46 (UTC)[返信]
コメント 団体AAAは、団体BBBに所属する(出典1)人物CCCの著書について、「・・・」と主張した(出典2)。という表現が出典の合成に当たるかということですね。 書き方によりますが、この差分の場合は「」で主張がくくられており、読者に誤解を与える恐れはないため問題ないと考えます。これを、団体AAAは、「団体BBBに所属する(出典1)人物CCCの著書は・・・だ」と主張した(出典2)。と書いたのならば明らかに問題があると思います。
ただし、別の問題として、「団体BBB」の部分は読者に余計な先入観を与える可能性があるため、十分注意して書くべきだと思います。菅野完氏の場合だと、「保守の立場から排外主義と戦う」「元部落解放同盟の」「元首都圏反原発連合の」「著述家の」「元レイシストをしばき隊メンバーの」など、様々な肩書が書けるわけです。どの肩書を選ぶかで読者の菅野完氏およびその著書に対する印象は変わってしまいます。「元しばき隊メンバー」という肩書を「ピックアップ」してあれば、意識的にせよ、無意識的にせよ、私は編集者の意図が入っていると考えます。
従って、最も政治色が薄く中立的な「著述家の」とするか、アルトクールさんの言うようそもそも肩書を書かない(著者の人物ページで「ピックアップ」していない完全な情報を確認させる)のが望ましいと思います。--GodsGarden [Talk | Contribution] 2016年8月9日 (火) 07:20 (UTC)[返信]
コメント 日本会議の議論の一方の発端となったものです。お騒がせして恐縮です。さて、今回の件は、もしかしたらわたしの書き方が誤解を与えていた部分があったかもしれません。わたしは、「記事で人物名を出すとき、どのような場面でも肩書きはつけないべきだ」という主張はしていません。ただし、日本会議今回の差分は203.148.113.183さんがまとめてくれたような問題があると考えています。一般化していえば、肩書きをつけること自体には問題はないが、付け方によっては問題が発生するということになると考えています。--j8takagi会話2016年8月9日 (火) 23:52 (UTC)[返信]
コメント 個人記事が立項されていない人物の場合は、立場や所属、著作などがあれば読者の理解の一助になるので補足説明は有効かと考えます。今回の場合、「出典となっている記事に肩書は記されていない」「複数の肩書から編集者が恣意的に選択している」「個人記事が立項済み」という3点があり、記述は不要と考えます。--KoZ会話2016年8月10日 (水) 00:00 (UTC)[返信]
コメント 議題については、この編集[1]で「日本会議は2016年4月28日」を移動した事により解決したと判断しています。肩書きをつける事については、ケースbyケースで判断すべきだと思います。今回のケースについてはノート:日本会議#しばき隊でコメント済です。--JapaneseA会話2016年8月10日 (水) 04:07 (UTC)[返信]
  • コメント いや、そこを移動したところで『Kの著書について団体Nが出版停止の申し入れをした』という主張の中に『K氏は元何々である』という指摘が加えられることには違いが無いです。順番変えればそれでいいという考えですと順番変えて『団体NはKの著書について出版停止の申し入れをした』という主張に団体NとK氏についての指摘を加えて、『思想の方向性が違う人に対し、出版停止という手段を用いた』なる印象操作もできてしまうのですよ、よろしくないことに(あと『元しばき隊』と書いていてもK氏としばき隊との関係が良好なのか決裂してるのかで全く印象が逆になるというのも面倒なところです)。--203.148.113.183 2016年8月10日 (水) 12:46 (UTC)[返信]
まず、肩書き等をつけることは、無出典でも他の出典を使ったとしても、情報の合成にあたらないということは言えるでしょうね。その上で、ケースバイケースで肩書きをつけるかどうか判断するということになるんじゃないでしょうか。--ぽてから会話2016年8月10日 (水) 14:16 (UTC)[返信]
肩書を付けること自体は通常問題ないですよ、多くのメディアがその肩書で呼称していたり本人が自著で称していたりした場合、読みにくくなったり変に文脈を乱さない限り問題があるとも思いません。また今回の場合でも団体が相手の元肩書を持ち出して主張していればそれを付けるほうが団体の在り方がわかりやすいでしょうが、元の肩書を付けていないのに(編集者が自分の判断で適切と考えて)つけるとあんまりwikipediaに詳しくないひとが見れば下手すりゃ『某団体は相手のこと人身攻撃するような輩なんだな』って誤解を与えるような表現になってるかもしれんです、読み直して感じたことですがね。--203.148.113.183 2016年8月10日 (水) 15:11 (UTC)[返信]
コメント WP:SYNは「情報の合成」を一律に禁じているわけではありません。禁じられているのは「特定の観点を推進するような情報の合成」です。つまり、「元しばき隊」という新規に加えられた情報が他の情報と併記されることによって、読者に「特定の観点」を刷り込む結果になっていないかが問われなければなりません。問題になっている情報を関連付けて論じた「信頼できる情報源」が存在しないにもかかわらず、ウィキペディアの編集者がわざわざ並べて書いて、特定の観点・主張を仄めかす結果になっているなら(例えば、ある本の著者が「元しばき隊」であるという情報とその本の内容に批判があるという情報を併記することによって、しばき隊とその本の内容に何らかの関連性があるような印象を与えているとすれば)、それは独自研究ということになるわけです。--Dwy会話2016年8月11日 (木) 11:22 (UTC)[返信]