Wikipedia:コメント依頼/AlexK

Alex K氏についてのコメント依頼です。--Kinno Angel 2009年12月31日 (木) 04:16 (UTC)[返信]

報告 類似した行動類型を持つ方のコメント依頼としてWikipedia:コメント依頼/121.111.125.182を提出しました。AlexKさんと同一人物ではないかという疑義を提出しておりますため、こちらにも報告します。--Kinno Angel会話2013年1月4日 (金) 13:22 (UTC)[返信]
報告 Wikipedia:投稿ブロック依頼/Alex Kを提出しました。--Kinno Angel会話2013年2月4日 (月) 11:24 (UTC)[返信]

AlexK氏の問題行動[編集]

依頼者からの報告[編集]

  • 別件の話の方が肥大化してしまって、本ページが本来の機能を果たさなくなっていること、また、問題行動欄の肥大化により論点がぼやけていること等を考慮し、一旦クローズする事を考えております。正式なクローズについては一両日中に行います。また論点を整理して、改めて提出させて頂こうと考えております。--Kinno Angel 2010年1月21日 (木) 03:52 (UTC)[返信]

一旦の終結宣言[編集]

一旦、当依頼についての終結を宣言させて頂きます。一旦の終結を宣言させて頂く理由は、

  • 別件の話の方が肥大化し(別のブロック依頼2件に発展するに至る)、本ページが本来の機能を果たさなくなっていること
  • 問題行動欄が予想外に肥大化したことにより論点がぼやけていること(これは、問題行動と思えるものが出るたびにチェックしようとした私の判断が誤っていたということです、コメント依頼の趣旨を自らぼやかした事を議論参加者・閲覧者の皆様にお詫び申し上げます)

以上二つです。しかし、AlexK氏の行動の問題点(と私が考えるもの)が改善された訳ではありません。いずれ論点を整理し、改めてコメント依頼もしくは別の手段を講じる事を考えております。その時期につきましては全く未定ですが、早くても、派生した別件ブロック依頼2件が終了して以降にすることを考えております。議論に参加して下さった皆様、ありがとうございました。--Kinno Angel 2010年1月21日 (木) 09:00 (UTC)[返信]

被依頼者のコメント[編集]

意見欄[編集]

以上の問題行動につき、憤懣やるかたないのですが、私が不当だと感じる事は間違っているのでしょうか。AlexK氏の問題行動についてもそうですが、私の感想の妥当性についても広く意見を求めたく存じます。--Kinno Angel 2009年12月31日 (木) 04:08 (UTC)[返信]

  • 東ヨーロッパ関係の編集者達は、これまでの協力関係からか(?)穏便に済ませようとしているように思えます。私の怒りは間違っているのでしょうか?ウィキペディアでは以上のような行為が「善意にとる」で許されるのでしょうか?マナーも議論に対する誠意もウィキペディアにおいては求められないのですか?特に一般の方に上記の行動につき広く見解を求めたく思います。--Kinno Angel 2009年12月31日 (木) 04:16 (UTC)[返信]
コメント分野が畑違いなんで編集内容に関する是非はできませんが、とりあえず被依頼者はWikipedia:説明責任を果たすよう努めてください。自身の編集に疑問を呈す者がいる以上、対話を怠ってはなりません。
(※以降は東欧やキリスト教系宗教に関する知識が高卒程度しかない私のテキトウな発言ですので、真に受けず聞いてください)被依頼者はウクライナ出身のようですし、少々編集に私的感情が入っているのではと思います。尚且つ、自身の先祖関連の編集、記事作成も行っているので、Wikipedia:中立的な観点から考えれば微妙なところです。ただ、現地出身の方の知識は日本国内で得られないものだったりするので、被依頼者のWikipediaへの貢献というのはかなり期待してますし、実際貢献していると感じられます。中立的観点で編集してくださる限り、被依頼者はWikipediaにおいて有用な利用者であるはずでしょう。--Mkhcan487(Talk/Contributions) 2009年12月31日 (木) 05:28 (UTC)[返信]
  • コメント Mkhcan487さん、コメントをありがとうございます。なお念のため申しますが、私が問題にしておりますのは編集傾向・内容ではありません。(私も含めまして)偏っていない人間はいない以上、多くの編集者が話し合う事でしか中立的観点は究極的には達成出来ないと考えております。AlexKさんにも御自身の信念・思想がある筈であり、それが編集に反映される事自体は、一つの見方が導入されるだけの事で、むしろ歓迎します。後は対話・議論の中で折り合いをつけていけば良いだけの事です。私が問題にしておりますのは「大量除去」「指摘無視」「指摘をスルーした上で管理者権限の行使を個人ページにて依頼」「会話ページへの意味不明な警告」「(思想の違いではなく)明らかに事実と異なる偏向編集」であります。--Kinno Angel 2009年12月31日 (木) 06:46 (UTC)[返信]
  • コメント …ここに至って、内容の偏向も問題にしなければならなくなってきたかもしれません。彼によれば日本正教会は記事名を構成するのには「不必要な実体」だそうです。当事者の用いる正式表記(彼によれば「独自表記」)よりも、AlexK氏が提示する、正教徒ではない人間が書いた辞書が優先されるべきだそうです。…なぜこのような無茶が罷り通るのでしょう?ここまでの暴言を書いておいて、上記記事への返答は未だありません。ウクライナに関する記事は全て彼の御託宣が最高と看做されるのか?と、嫌味の一つも言いたくなります。なぜこのような彼の暴言・暴走がこれまで放置されてきているのか、理解に苦しみます。いつまで皆様、放置されるおつもりですか?
    そもそもAlexK氏は、日本にあるロシア関連の研究書に書かれているウクライナ関連の記述の大半の価値を否定し、ウクライナ専門の研究書に則って(つまり通用性よりも、専門性・当事者性を優先させて)記事を書く事を求めてきた筈です。なぜ正教会に限って、正教徒よりも、素人の書いた辞書を優先させなければならないのでしょうか。--Kinno Angel 2009年12月31日 (木) 12:31 (UTC)[返信]
  • コメント 私は長く依頼者のKinno Angelさん、そして被依頼者のAlex kさんのご活躍を拝見してきており、お2人とも東欧関連で多大な貢献をされてきている偉大な執筆者として尊敬申し上げております。また、お2人が何かと対立することを心苦しく思っており、どちらかがかけても大きな痛手となるだろうと感じています。Kinno Angelさんのご指摘の通り、穏便に済んで欲しいと思っているのは否定いたしません。
    • まず、依頼者のKinno Angelさんは、もうすこし落ち着かれたほうがよいかと思います。確かにKinno Angelさんに対してこれまで向けられ続けてきた敵意のようなものの存在は感じていますし、理不尽な現状に憤る気持ちは十分に理解しますが、その状態のまま熱情的にコメント依頼などを続けてしまうと、はたからは「たんなる敵対者に対する報復依頼」のように見えてしまい、結果的にKinno Angelさんにとっても良くないことになってしまうのではないかと危惧します。
    • そして、Alex kさんについてですが、ファンの一人として、ぜひこれからもウクライナと日本のためにご活躍いただきたいと思っていますし、いつも記事は興味深く拝読いたしております。しかし、価値のあると思われる記述を大量に除去する、というのは決して好ましい行為ではありません。一部、管理者の中にも価値のある記述を理不尽に大量除去するという行為が見られましたが、こうした行動は非建設的であり、また加筆した人の心情を悪化させ、多くの場合、良い結果を生み出しません。また、このほかにも、会話ページに「警告」を張られた「報復」として意味の通らない「警告」を相手の会話ページに貼り付けるなど、Alex kさんのWikipedia上での行動は、時として非文化的だと感じているのは事実です。こういうコメントをされた時もいかがなものかと思いました。できれば、もうすこし「和」の精神を重んじ、多くの人が納得できる建設的な解決を目指す姿勢を身に付けていただければと存じます。
  • 私からは以上です。--Peccafly 2010年1月1日 (金) 03:47 (UTC)[返信]
  • Peccaflyさん、コメントをありがとうございます。仰るとおり、少し冷静になろうと思います。ただ、問題行動の報告は続けます。まとめる事によって見えてくるものもあるでしょうし、ユーザー一般にも私にも客観視の手助けをして下さる方が複数出ていらっしゃると思います(現に出て来て下さっています)。後は、いずれ下されるであろう皆様のご判断を仰ぎます。--Kinno Angel 2010年1月2日 (土) 13:21 (UTC)[返信]
  • コメント 指摘されている事柄のうち幾つかは事実かも知れませんが、対応が拙過ぎます。依頼者が直接やる必要はないにせよ、個別にタグを付けて協力を要請すべきだと思います。Alex K氏の使っている文献の多くは信頼できるものであろうと思われます。翻訳に問題がある可能性は高いかも知れませんが、日本のウクライナ史家による翻訳や評価を待つべきで、中には信頼できぬものもあるでしょうが、利用者が一律に出典そのものを信頼できないと断じるのは多いに問題があります。johncapistrano 2010年1月3日 (日) 05:35 (UTC)[返信]
  • コメント
>対応が拙過ぎます。
もし「拙い」とお思いでしたら、どこがどのように事実ではないのか、あるいは「これは非難に値しない」とお考えなのか、具体的にご指摘下さい。それは私も歓迎するところです。そもそも「皆様のご指摘を仰ぎたい」と申しているのですから。もし「完全に」AlexK氏に非があると確信していれば、ブロック依頼を提出しています。そこまでの確信がないからこその問題提起であると御理解下さい(しかし「皆様にコメント依頼をしなければならない段階ではある」については確信があります)。
>Alex K氏の使っている文献の多くは信頼できるものであろうと思われます。
誤解して頂きたくないのですが、ウクライナ語文献一般の信頼性を否定した事は一度もありません。ギリシャ語・ロシア語出典を多用する私も、「英語・日本語以外の出典は不可」などと言われれば、とても困ります。別ページでIP氏に対し、同様の指摘をしました
文献は信用出来るでしょう。ウクライナ史についてウクライナ語文献を使うのも大変有用でしょう。が、私が申しているのは、「AlexK氏が信用出来ない」ということなのです。本の引用にしても、引用者への信頼がなければ、片言隻句の我田引水である懸念が払拭できないということは、johncapistranoさんにも一般論としてお判り頂けるのではありませんか?
なぜ信用出来ないのかについては、英語版を調べればすぐに分るような事実に反する編集などを既に挙げてあります。「日本にはウクライナ史の専門家はほとんどおらず視点が偏っている」というのがAlexK氏の一貫した主張です。では、英語版でも同じような傾向があるというのでしょうか?…極めて考えにくい…。どのページでも日本語版以上に英語版はウクライナ関連の記述を巡っては激しい応酬が行われています。まさかこの記事「だけ」はロシアに偏った記事が英語版で書かれている?まさか…ウクライナ史でも目立つ英雄の記事「だけ」で、事実無根の、それも多くの人が議論するテーマにおける記述が放置されている…そんな事は有り得ないと考えるのが自然ではありませんか。まあこれは英語版に私も質問を投げかけておきましたので結論を待ちましょう。
johncapistranoさんも冷静になって私の主張をきちんとチェックして下さい。--Kinno Angel 2010年1月3日 (日) 11:41 (UTC)[返信]
大体はWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト_キリスト教の方と重複しているんで省きます。ロシア正教へのウクライナ人の反発は地域研究者による言及もあります。実際に外部でも対立があるようです。適切な出典があれば併記可能と思われます。我田引水は本業の研究者でもウィキペディアの利用者にもままあります。johncapistrano 2010年1月3日 (日) 14:17 (UTC)[返信]
コメント
まず、以下のコメントはお読み頂きましたか?
私が問題にしておりますのは「大量除去」「指摘無視」「指摘をスルーした上で管理者権限の行使を個人ページにて依頼」「会話ページへの意味不明な警告」「(思想の違いではなく)明らかに事実と異なる偏向編集」であります。--Kinno Angel 2009年12月31日 (木) 06:46 (UTC)[返信]
内容について問題にしたのは二義的なものです。そもそも「問題行動」の具体例、ちゃんとチェックしておいでですか?内容への問題提起ではないのです、このコメント依頼のそもそもが。
>ロシア正教へのウクライナ人の反発は地域研究者による言及もあります。
すみません^^;、いやしくも正教の執筆に関わっている身、それ位は存じております。それが無ければキエフ総主教庁のような問題は起きていないでしょう。で、「ロシア正教へのウクライナ人の反発がある」という事実と、AlexK氏による一方的偏向編集と上記のような対話無視の間に、どのような関係があるのでしょうか。
>我田引水は本業の研究者でもウィキペディアの利用者にもままあります。
それが過ぎると申しているのです。--Kinno Angel 2010年1月3日 (日) 14:41 (UTC)[返信]

(コメント) 私は「仲良くしてください」などと言うつもりはありません。事実は一つですから、どちらかが正しく、どちらかは間違っています。とはいえ手が出せない分野が多いですが、ウクライナなら、国ですから頑張れば多少は判るだろうと思い、履歴を見て、「これは」と思ったコメントのある内容を幾つかチェックしてみました。Alex K さんの

  • 2010年1月2日 (土) 08:19(→近世: Wikipedia:信頼できる情報源を参照してウクライナ史に関する専門書を提出してください) ですが、差分を見ると消されたのは http://www.stranslation.com/Ukrainian_Translation/history_of_ukraine.htm のサイトを出典とした内容です。たしかにネット上の情報では、公式情報のような物でなければ、余程吟味しないと出典にはなり得ません。ですから、Alex K さんのこの編集は正しい、と判断しました。
  • 2010年1月2日 (土) 08:53(→歴史: ごまかさないでください。旅行ではなく、ウクライナ史の専門書を提出してください.) ですが、差分を見ると消されたのはISBN 8389243245のMy, szlachta ukraińska... というタイトルの本で Trzon swych poglądów stworzył w trakcie pobytu w Krakowie w latach 1903-1913. とあるので、「こりゃ、ダメだ」と判断できます。ですから、これも Alex K さんの編集は正しい、と判断しました。
  • 出典ごと消したとされる聖ソフィア大聖堂 (キエフ)この編集ですが、>「叡智」はソフィアの定着した訳語。出典:岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』432頁山本書店、2006年5月11日 増訂7版 ISBN 4841400303 とありますが、Софійський собор (Київ)を見ると Собор святої Софії とあって、Софії は御存知の通りΣόφιαの事です。これが聖書で使われている所を検索して調べると、Luke 7:35が見つかりました。これを日本聖書協会の新共同訳でルカによる福音書7章35節を見ると、「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 とあって、「叡智」とは訳されていません。よって、岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』432頁に「叡智」とある事を理由に「叡智」はソフィアの定着した訳語とするのがおかしい事になります。新共同訳の表現はWikipediaでは受け入れるべきです。これをもって直ちに「上智」と訳すべきかまではちょっと判りませんが、 「叡智」はソフィアの定着した訳語。出典:岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』432頁などを「出典」と呼ぶようであれば、出典の名に値しませんから、こんな勝手極まる一般化(一つの辞書の記述で「定着」などと、全てがそうであるかのような)した論法を根拠に記述しているようであれば、「出典」と称する辞書の記述もろとも削除されても仕方が無いでしょう。

以上、パッと見た感じでは、全てが Alex K さんの編集は「間違ってはいない」と判断します。正しい編集をしている以上、非難するのはおかしいです。正しい編集をしている人間にそこまで怒りを感じるなら、単純に考えれば、Kinno Angel さんがこれら一連の記事の編集から撤退していただくのが解決の道ではないかと感じます。 -- Tolena 2010年1月6日 (水) 15:30 (UTC)[返信]

コメント Tolenaさん
>事実は一つですから、どちらかが正しく、どちらかは間違っています。
「事実は一つ」なんて某漫画の決め台詞みたいな単純な話ではありませんよ(この点については一つ具体的に後述しますが)。私も皆さんに「Kinno Angelが全面的に正しい。AlexK氏は全面的に間違っている」と賛同して頂こうと考えている訳ではありません(何度も言いますがそう思っていたらコメント依頼ではなくブロック依頼を提出しています)。
>全てが Alex K さんの編集は「間違ってはいない」と判断します。
内容一つ一つ精査して「要出典」タグを貼ったり、部分的に内容を復帰するなどの手続きがとられたのであれば、問題とは思いません。私が問題にしているのは「全て一括して大量差し戻し」した事です。どうも都合の悪い事はお読みにならないでコメントする方が多いのですが、「カテゴリ」「ポータルへのリンク」まで一緒くたに戻されている事についても私は指摘しているのですが、カテゴリ付けにまで出典が必要なんですか?
>これを日本聖書協会の新共同訳でルカによる福音書7章35節を見ると、「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 とあって、「叡智」とは訳されていません。
それを言うなら「上智大聖堂」に差し戻したAlexK氏もおかしい、と言わなければスジが通りません。「知恵大聖堂」とでもしなければならないでしょう。その意味でも一般論として、貴方が「どちらかが正しく、どちらかは間違っている」と決め付け、片側に賛同しているかのように自己規定しているのは誤認です。貴方は第三の意見(「知恵」が一般的である)を提示しているのです。
>こんな勝手極まる一般化
私はそうは思いませんが、仮にそうだとしても、「定着している訳語」の表現部分だけをノートで議論提起の上で除去すればいいだけの事で、脚注欄・出典欄まで全部除去する理由にはなりません。
何度も言っているのですが、各種ノートページで提起する議論を無視し続けている彼の言動については、問題視されないのですか?都合の悪い指摘はスルーし続ければ良いのでしょうか?--Kinno Angel 2010年1月7日 (木) 08:59 (UTC)[返信]

(コメント) コメント依頼をすれば「Kinno Angelさんの言う通り」みたいに都合の良いコメントばかりが寄せられるわけではないのは予想しているべきで、「ありがとうございます。しかし…」と返す程度の叡智は持ち合わせて欲しいのですが、あれからずっと「叡智」はソフィアの定着した訳語というのを考えてて。おかしな事が多すぎるから。

  1. ウクライナ語のСофіїの訳語をギリシヤ語辞典を根拠に定着した訳語とする論法がそもそも無茶苦茶
  2. 「叡智」はソフィアの定着した訳語というのが、事実に全く即していない。上智大学はソフィア・ユニバーシティだそうですが、Kinno Angel さんのおっしゃる説が正しければ叡智大学になる筈ですから、あれから「叡智大学ねぇ。そんなの、聞いたことないや」と思うと、おかしくて笑いがこみ上げて。上智大学の校章と校名の由来を見てください。
このソフィアはギリシャ語のΣΟΦΙΑからとったものであり、その意味は「人を望ましい人間へと高める最上の叡智」である。

とあります。イエズス会が開設したとありますから、キリスト教系の学校でしょ? 叡智よりは上智の方がソフィアの日本語訳としては遥かに定着していませんか? 上智大学(ソフィア・ユニバーシティ)って、有名ですからねぇ。Wikipediaにも記事がありますし、ソフィアが「上智」な理由も書いてありますが。それを考えると、「叡智」はソフィアの定着した訳語。出典:岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』432頁山本書店、2006年5月11日 増訂7版 ISBN 4841400303なんて書くというのが凄いですねぇ。この分野に素人の私ですら「なんだ、こりゃ?」と首を傾げました。やはりこちらの分野の執筆からは撤退していただくのが良いのではないでしょうか。 -- Tolena 2010年1月7日 (木) 12:58 (UTC)[返信]

で、「議論無視」の彼の態度などについてはスルーですか?英語版と明らかに異なる、どう考えても不自然な彼の編集についてもスルーですか?
>ありがとうございます。しかし…」と返す程度の叡智は持ち合わせて欲しいのですが
申し訳ありませんが自分の主張に都合の良いところだけ批判して「退場しろ」とまで仰る方にお礼を言えるほど、私も人間が出来ておりません。繰り返しましょう。仮にそうだとしても、「定着している訳語」の表現部分だけをノートで議論提起の上で除去すればいいだけの事で、脚注欄・出典欄まで全部除去する理由にはなりません。
>イエズス会が開設したとありますから、キリスト教系の学校でしょ? 叡智よりは上智の方がソフィアの日本語訳としては遥かに定着していませんか?
それについては既に色々なところで議論しているんですけれどね…基本的な知識位身に着けてから「退場」要求などは出して頂けませんか。当該聖堂は正教会もカトリック教会も、両方使っている聖堂です。正教会も使っている聖堂で、なぜ正教会で使われない用語が第一番目に持ってこられなければならないかという疑義を、既にAlexK氏に出しております。また、Tolenaさん、正教会も使っている聖堂で、なぜイエズス会が出てくるのでしょうか。--Kinno Angel 2010年1月7日 (木) 13:14 (UTC)[返信]
私は、編集合戦が起きているのであれば、どちらの利用者の記述内容が記事として正確性を高める編集だったか、にしか関心はありません。論点をバラけさせないで、問題はひとつづつ解決していきましょう。あなたはコメント依頼の理由として「出典を脚注欄ごと除去して編集を行い(これは合計で3回繰り返されました)、ノートでの問題提起も一切無視。」とうんと強調して書いていますよね。ですから、もしこれが事実、すなわち、「出典を脚注欄ごと除去」を三回やって、それで「上智大聖堂」に差し戻した行為が不当であれば、それをした AlexK さんへのブロック依頼も考えなければいけない所でしょう。ところが、「出典」と称しているものに書かれていた「叡智」はソフィアの定着した訳語というのは、出典偽装にも等しい内容であったわけで、このようなものを「出典」と呼び、それを元に記述をしたというのは、Wikipediaの記事信頼性に対する重大な行為だったと考えます。さらにこれがコメント依頼で編集合戦の相手を非難するのに用いられていますので、どうしても決着をつけるしかないでしょう。
私の地元の図書館には「叡智」はソフィアの定着した訳語とされるのに引き合いに出されたのと同じ辞典はありませんでしたが、
技術・技芸に秀でていること,巧みさ,熟練,術知;利口さ,利発さ,聡明さ;知恵,才知;知識,学識

『ギリシャ語辞典』古川晴風編著、大学書林、1989年


というのならありました。「叡智」なんて訳語はありませんでしたよ。古代ギリシャ語を中心に編纂されているようでしたが。
Kinno Angel さんにひとつお聞きしたいのですが、聖ソフィア大聖堂 (キエフ)ですが、Собор святої Софії の Софії は、この建築物の性格から考えて、人間に関して述べているのではなく、「神の知恵」という意味ではないかと思いました。どう思いますか。それに同意しますか、それとも、違う意味(このソフィアは「神の知恵」という意味ではない)と思いますか? -- Tolena 2010年1月9日 (土) 13:25 (UTC)[返信]
Tolenaさん、相手の指摘には答えずにスルーし、問い掛けだけは続けると言う態度は如何なものかと存じます。既に書いた以下の文章で回答済みとします。
仮にそうだとしても、「定着している訳語」の表現部分だけをノートで議論提起の上で除去すればいいだけの事で、脚注欄・出典欄まで全部除去する理由にはなりません。--Kinno Angel 2010年1月11日 (月) 02:54 (UTC)[返信]

段組がややこしくなるのでインデント戻します。やっと返事していただけましたか。ソフィアは「叡智」だと編集合戦しコメント依頼に書いた件は私が解決してあげましょう。「既に書いた以下の文章で回答済みとします」という事は、ここのソフィアは「神の知恵」という意味である事に異を唱えていないと見なします。そうであれば、この「叡智」対「上智」は、Kinno Angel さんの全面敗北です。根拠は以下。

じょう・ち【上智・上知】……(2) (sophia ギリシア) 英知。神の知恵
『広辞苑』第5版、新村出編、岩波書店、1998


ここの神の知恵というのがポイントですね。一方、

えい・ち【英知・叡知・叡智】深遠な道理をさとりうるすぐれた才知。
『広辞苑』第5版、新村出編、岩波書店、1998


とあって、叡智には神の知恵という意味は無いのですね。ここで「広辞苑が全てではない。叡智も神の知恵という意味がある!」などと言い出すのはやめてくださいね。『広辞苑』に書いてあるというのは、やはり日本語の意味としてひとつの判断基準になりますし、Wikipediaの出典とするには不足はないでしょう。
Alex K さんについては「この程度の事は知っていた」のか、Kinno Angel さんを対話する価値のある利用者と認識していたのかはわかりませんが、私がこの件で感じたのは「ソフィアの間違いひとつを説明するのにこれだけ手間がかかるのではたまらない」です。
私の怒りは間違っているのでしょうか
それは何とも言えませんが、私は調べないで書く人はあまり好きではありませんが、いずれにせよ、編集合戦をしてコメント依頼を出して、怒りを抱えたまま共同編集などは到底無理でしょう。だから、どちらか一人を執筆者として選択しなければいけないかな、と思いまして。それとも Alex K さんに「私が間違っていました。このような事で編集合戦して申し訳ありません。このような事は二度と致しませんので、この件で懲りずに一緒に編集させてください」とこの場で謝罪して仲直りできますか?
Kinno Angel さんがこういう間違いを平気でやれる理由に関して考えてみました。これは「ついうっかり」とか、「不幸な見落とし」とか、そういうレベルではないですから。良く調べずに書いているのか、根本的な所から解っていないのかですが、参考までこの分野の素人の私がコメント依頼の場に書くに際して何を調べたか説明しますね。白水社の『ニューエクスプレスウクライナ語』を借りてきて一夜漬け。 Софійський собор だと解らないのですが、Собор святої Софії だと、意味がわかります。 Софії はСофіяの変化形で、これは属格で、所有関係を表す。(『ニューエクスプレスウクライナ語』p. 68) それで Собор святої Софії のСофіїが大文字で始まる事や、意味的に言って、собор の「所有者」たりうるのは、叡智や知恵といった「概念」ではなく、固有の人名等である筈だと考えました。 しかしウクライナ語は一夜漬けで解釈に不安があるので、Wikipediaのウクライナ語版で同様の文法構造を持つ記事を調べ、冒頭を見てみました。例えば、 uk:Ярмарок святої Анниuk:Монастир Святої Катериниuk:Костел святої Марії Магдалини (Львів) uk:Монастир Святої Трійціです。どうやら間違っていなさそうです。святої は「聖」、英語では Saint の意味です。 соборは…ここでは説明の都合で「堂」としましょうか。聖堂とするとややこしいので。結局、Собор святої Софіїは、聖Софіяの所有する堂、 という意味で、Софіяは「叡智」でも「知恵」でもない、АннаやКатеринаのような「誰か」の意味であるはずです。 そこでもうちょっと調べると、fr:Sainte-Sophie (Constantinople)に行き着きます。フランス語では解らないので、en:Hagia Sophiaを調べ、 en:Holy Wisdomにたどり着きます。ここには

In relation to the Son of God as the Hypostatic Wisdom of God: "But we preach Christ crucified ... Christ the power of God, and the wisdom of God" (1 Cor. 1:23-24); "Who of God is made unto us wisdom" (1 Cor. 1:30). Most of the Eastern Orthodox Cathedrals called "Hagia Sophia" being dedicated to Jesus Christ.

これで「ビンゴ」だろうと思いつつ、念のために聖書の該当部分を調べてみます。

英語But we preach Christ crucified: a stumbling block to Jews and foolishness to Gentiles, but to those whom God has called, both Jews and Greeks, Christ the power of God and the wisdom of God.
Greek NT (Scrivener-1894) UTF81:23 ημεις δε κηρυσσομεν χριστον εσταυρωμενον ιουδαιοις μεν σκανδαλον ελλησιν δε μωριαν 1:24 αυτοις δε τοις κλητοις ιουδαιοις τε και ελλησιν χριστον θεου δυναμιν και θεου σοφιαν
日本聖書協会 新共同訳コリントの信徒への手紙一 / 1章 23節 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、24節 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
Ukrainian Bible1:23 а ми проповідуємо Христа розп'ятого, для юдеїв згіршення, а для греків безумство,1:24 а для самих покликаних юдеїв та греків Христа, Божу силу та Божую мудрість!

ギリシャ語は別にわからなくても Greek Interlinear Bible の 1Corinthians 1, PDF を見れば事足ります。大丈夫そうです。ウクライナ語は Божую мудрість になっていましたが、英語も wisdom of God になっていますので、Софія ではないが問題なしと考えました。結局、これらを総合すると「推測は間違っていない」と考えました。

結局Собор святої Софії というのは、意味としては”聖イエス・キリスト堂”という意味で、このсоборを所有できるсвятої Софіїとは「叡智」や熟練,術知ではあり得ず、ここに来るのは собор の所有者になれる立場、ここではイエス・キリストになります。 よってそれを意味し得る日本語としては、神の知恵である「上智」です。広辞苑を見た限りは、ですが、人間の知恵に関して述べているに過ぎない「叡智」と訳すのと、神の知恵、すなわちキリストの意味になりうる「上智」と訳すのでは、価値が全く違います。

とはいえ、Wikipediaの記事にこういう事を書くわけではなく、これはあくまでСобор святої Софіїを正確に和訳するための「背景知識」に過ぎず、書くのは「神の知恵であるキリスト」の意味として、広辞苑を出典に「上智」と書くまでですが。

この程度でしたら素人でも金曜の夜に『ニューエクスプレスウクライナ語』を途中まで読んで、ネットでパッと調べて、後は土曜に図書館でギリシア語の辞書を調べて、広辞苑を調べて(「上智」を見た時はしばらく笑いが止まりませんでしたが)それで「完了」ですよ。余力がありましたら広辞苑で「上」の意味も調べてください。私の場合、ウクライナ語ができなかろうが、ギリシャ語が出来なかろうが、関係ありません。「根性で調べる」だけです。今はネットの助けもありだいぶ楽になりましたしね。(でも書くのはちょっと時間がかかりましたが)
「知恵大聖堂」とでもしなければならないでしょう。とか正教会も使っている聖堂で、なぜイエズス会とか、それについては既に色々なところで議論しているんですけれどねとあるのでノートも見ましたが、Kinno Angel さんに、素人の私が短時間で調べたような事が理解できていたとは思えないフシがありますね。解っていれば、叡智がイエス・キリストを指しうるから、のような説明をしようと試みたはずです。
「叡智」はソフィアの定着した訳語というのは、履歴が追いきれていないのですが、

  • そもそも Kinno Angel さんとは別の利用者が書いた
  • それを Kinno Angel さんが出典に使ってしまった

ならば、「不注意」「過失」で済むので(私などは「そんなわけ無いだろう、と即座に思いましたが)事が重大という事もあり、一歩引いた聞き方をしたのですが、Kinno Angel さんからは「それは私が書いたのではありません」という返事では無かったですね。「定着している訳語」の表現部分だけをノートで議論提起の上で除去というのは、もしかして

  1. 「叡智」はソフィアの定着した訳語というのは Kinno Angel さんが書いた事
  2. 岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』には、定着した訳語、とは書かれていない

のでしょうか? もしそうなると、Kinno Angel さんに対する投稿ブロック依頼、という話にもなってしまいます。どうなんでしょうか。岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』には何と書かれているのでしょうか。私の方で調べてもいいですが、まずは Kinno Angel さんから上記2点をお聞きしましょうか。
私が申しているのは、「AlexK氏が信用出来ない」ということなのです。本の引用にしても、引用者への信頼がなければ、片言隻句の我田引水である懸念が払拭できない
でしたら、Kinno Angel さんは、AlexK さんはここでこういう引用をしているが、自分でその引用元の文献を調べた結果、これこれの理由で適切に理解した上での引用とは認められなかった。AlexK さんはここでもこういう引用をしているが…という風に、引用が信用できない根拠を幾つか例を挙げて客観的に説明し、AlexK さんが、「叡智」はソフィアの定着した訳語のような主張をする Kinno Angel さんよりも信用できない事を示すべきでしょう。
記事名は「ウクライナ」。「ウクライナ史」ではないと言って削除をさらに行う、の件ですが、その直前のKinno Angel さんの追記内容ですが、分量が長い割りに出典がひとつも書かれていないのはなぜなのでしょうか? Wikipedia だと出典が無いと消す人もいますので。 -- Tolena 2010年1月11日 (月) 14:34 (UTC)[返信]

何をなさりたいのか、何を勝ち誇っているのかよくわかりませんが、もう少しお言葉に気をつけられたほうがよろしいかと存じます。また、ここでする議論ではないと思います、議論するなら当該ページで行なうべきですし、ここでご高説をのたまう暇があれば利用者本来の作業である執筆に振り分けられたらいいかがでしょうか?トロフィム・ルイセンコについてならばいくらでも探せば資料があるはずです。精力的な執筆を続けておられるKinno Angelさんにお引取り願えるほどTolenaさんは聖人君子なのでしょうか?Tolenaさんが聖人君子で間違いを一つも起こしていないならば何も申しませんが。--Hideokun 2010年1月11日 (月) 16:31 (UTC)[返信]
対立を際限無く続けられても困りますので、単に思いつきでコメントするのではなく自分なりに調べてからにしました。「叡智」「上智」紛争だけでも決着をつけたくて。でも今回は、本当に金曜の夜にネットをパッと、そして土曜の午後に図書館でギリシャ語の辞書と広辞苑を調べて「おしまい」でしたから、この程度で対立しないでくれた方が良かったかと思います。でも前述の調査に間違いがあれば遠慮なくご指摘ください。(に書いてある事は正しいという前提ですが)
これは持論ですが「調査あるのみ。良く調べて書けば間違いの頻度・程度は低く出来る」と思っています。ウィキペディアに参加する人は誰でも良く調査してから書く事で間違いの少ない極力正確な記述をするように努力すべきと感じています。 -- Tolena 2010年1月15日 (金) 15:15 (UTC)[返信]
自分なりに調べることは素晴らしいことだと思いますが、結局、それは独自研究になってしまう恐れは感じないのでしょうか?「叡智」「上智」紛争の決着と言われますが学会等で日々研究されている方が居られるのに基本的に素人である我々が決着をつけようとする行為はおこがましいと私は考えます。特にTolenaさんはほんの少しの間調べて答えがでたように言われていますが、例えば、古代ギリシャ語と現代ギリシャ語の違いなどは理解されているのでしょうか?ギリシャ語がどういうものであるのか理解されているのでしょうか?先日の投稿を見るとそこらへんの考慮がないようです。そういう意味で内容の危うさを感じます。
「調査あるのみ。良く調べて書けば間違いの頻度・程度は低く出来る」、これは素晴らしいことです。ならば、さらに調査すべきです。もっと掘り下げるべきです。とことん突き詰めた上で答えを出すべきです。そういうことであれば先日のような言葉はでないはずです。さらにそうすことにより様々な分野に手を出す事ができなくなるはずで、ある一定の分野でしか動くことができなくなるはずです。私は常に限定された分野でしか動く事ができません。それはそこの分野のことで頭の中が一杯になってしまうからです。それ以外の分野を迂闊に触ると中途半端になるからです。そしてその分野を掘り下げてさらに開拓して、ネット上で一番、詳しく虚偽のないモノを作り上げたいと考えているからです。Tolenaさんはそこまでお考えですか?本当に「調査あるのみ。良く調べて書けば間違いの頻度・程度は低く出来る」と考えていますか?本当に考えているならばたった2日の調査であそこまで自信たっぷりな言葉はでないはずです。
私も過去に問題を何度も起こし人とぶつかりました。ですので態度について偉そうなことが言えない立場であることは重々承知しています。しかし、最初から挑発的態度を取る事がいかに無益なことかは経験でよく理解しているつもりです。上から目線でモノを言うということは如何に不毛なことかもよく理解しているつもりです。なぜ最初から上から目線なのでしょうか?論語には『己所不欲、勿施於人』とあります。「自分がされたら嫌なことは人にするな」が単純な訳でしょう。Tolenaさんに対してあのような居丈高な態度でモノを言う人がいたらTolenaさんはどう対応しますか?私ならば無視を前提にマトモに相手することはしないでしょうし、できないと思います。それともTolenaさんはあのような態度で議論を挑む人に対してマトモに対応できるのでしょうか?
自らが正しいと思うことは別段、おかしなことではありません。しかし、Tolenaさんは自意識過剰すぎるのではないでしょうか?私は議論が得意ではないし、色々問題を起こしている身の上ですので今まで自重してきましたが、この場では自重できませんでした、この点についてはお詫び申し上げます。また、もし私に対してムカついたのなら執筆で私をギャフンと言わせて下さい。ここで私のようなツマラン人間相手に議論するよりもよっぽどWikipediaに貢献する行為です。--Hideokun 2010年1月15日 (金) 19:17 (UTC)[返信]
コメント
Tolenaさん
やっと返事していただけましたか。
貴方は私ほか数人の指摘に全然返事していません。その上でこのような物言い、まことに失礼極まりない…。
これについてですが、単に消された部分を戻しただけです。私自身が執筆したものではありません。「rev.」「戻し」などと書かなかったのは私のミスです。お詫び申し上げます。
私は「ソフィアは『叡智』が適訳」と申した覚えはありません(だからこそ併記にした筈ですが)。一冊しか調べなかったのは私の手落ちでしょう。この手落ちについて否定した覚えは一回もありません。しかし「こっちの方が定着している!」と言われても困惑するばかり。「最も定着している」と言った覚えも無いからです。Tolenaさんが「こっちの方が定着しているぞ!」もしくは「適訳だぞ!」と仰るのなら「ああそう思われますか。でも正教会では一切使われません」と申し上げて反論するだけです。私は「正教会での定訳」と「一般的な辞書」で使われている事を以て「定着している」と申したのみです。「定着している」が不適当と仰るなら「定着した訳語の一つ」に変えてもよろしゅうございます。「最も定着している」などと最初から思ってなどいませんから。そもそも私は「上智大聖堂」を消してもいないのです。
どうも基本的な知識すら無いのに勝ち誇っておいでなので申し上げておきますが、当該聖堂は正教カトリック教会双方が使っている聖堂です。こういう聖堂において正教で一切使われていない術語を最初に持ってくるのは正当と思われますか?正教会の祈祷文集を検索してみてください。一箇所も「上智」は出てきません。それとも貴方もAlexK氏と同じで「広辞苑は信頼に足りるが日本正教会の独自表記など考慮に値しない!」とされる方ですか?(最もAlexK氏も最近は聖ヴォロディームィル大聖堂で「成聖」という用語を使っておいでだったので、態度に軟化がみられているのかと期待もしているのですが)。
この一点ばかり鬼のように一般の辞書を使った独自研究で粘着攻撃される姿勢には疑問を覚えますし、基本的な事情も知らないままに、独自研究を以てコメント依頼の趣旨から外れた内容ばかり書き散らかされ、さらには「退場要求」まで仰る姿勢には疑問を感じます。
Hideokunさん
ご指摘に感謝申し上げます。ありがとうございます。--Kinno Angel 2010年1月12日 (火) 07:00 (UTC)[返信]
「一冊しか調べなかった」とは、どの一冊でしょうか。

ところでここは日本語版のウィキペディアであって、正教会の正教会による正教会のためのウィキペディアではない事をご理解願います。次第に議論というより宗教対立のように感じられ「始めに叡智ありき」な感じもしてまいりました。「中立的な観点」から執筆するのは Kinno Angel さんには難しいでしょうか? -- Tolena 2010年1月15日 (金) 15:15 (UTC)[返信]
コメント私のような問題の多い利用者が言うのはどうかなと思いつつ少しだけ。ウクライナ語を理解できない人が多いわけですから義務とまでは言いませんが、丁寧な説明が必要だと思いますし、査読を受けている文献を否定するのは独自研究だと思います。議論に関しては・・・私、あまり得意でないのでえらそうなことは言えませんが、議論を行なわずに自らが望む形にするために強硬手段を取るのは下の下策だと思います。国に関する事は事実は一つとは限らず、どうしても相手が居る事から自国では良い事が相手の国の不利益になることは当たり前に存在しますから、もし互いに相反することが書かれた文献がある場合、都合の悪い事をバッサリ削除ではなく、お互いに歩み寄り両論併記して読者に判断を任せるのが良いかと存じます。--Hideokun 2010年1月7日 (木) 09:19 (UTC)[返信]
Hideokunさん、ありがとうございます。…なんだか色々な思い込みで「批判」というより「中傷」され始め、少し疲れて参りました。都合の悪いところは一切スルーなんて文化がウィキペディアにも広がり始めたのが、残念でなりません。--Kinno Angel 2010年1月7日 (木) 13:14 (UTC)[返信]

Tolenaさん: IPの方による加筆に使われた出典の信頼性はともかく、「記事のバランス」等を理由にして単に記述を全面的に除去する、というやり方はやはり好ましいものではないでしょう。記述内容に疑義があるならば、タグを使って指摘し、ノートで議論すればよいのであって、Alex kさんも後になってノート:ウクライナ#複数のIPによる編集・出典・荒らしについてにてご自身の考える問題点を指摘しておられますが、記述除去をする前からこのようにすればよかったはずです。問題のないものまで含めて記述を完全に除去し、差し戻してしまうというのは「荒らし」への対応でもない限りは野蛮な破壊行為とみなされても仕方ないでしょう。それと、「やはりこちらの分野の執筆からは撤退していただくのが良いのではないでしょうか。」はさすがに勘弁して欲しいです。Kinno Angelさんがこれまで正教会はじめキリスト教関連で多大な貢献をしてこられたことについて、私は強い敬意を抱いております。Kinno Angelさんも完璧ではありませんし、それは誰しもが認めるところだと思いますが、この程度の理由で撤退を求められるいわれはないはずと確信しております。--Peccafly 2010年1月7日 (木) 21:38 (UTC)[返信]

Peccaflyさん、ありがとうございます。--Kinno Angel 2010年1月11日 (月) 02:54 (UTC)[返信]

Peccafly さん、それは因果関係の取り違えではないでしょうか。時系列的には、編集合戦→コメント依頼→IPによる荒らし→保護依頼のための行動、となっていますが、このコメント依頼が保護依頼のための行動につながったのではなく、コメント依頼中にIPによる荒らしまで起きて保護依頼をせざるをえなくなったように思います。編集履歴を少し見た限りでは、ですが。 -- Tolena 2010年1月11日 (月) 14:34 (UTC)[返信]

出典捏造の疑いに関する報告[編集]

聖ソフィア大聖堂 (キエフ)で出典とされていた

<ref>「叡智」はソフィアの定着した訳語。出典:岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』432頁山本書店、2006年5月11日 増訂7版 ISBN 4841400303 / 日本正教会出典:『奉事経』34頁ほか(ただし当出典においては「叡智」ではなく「睿智」の漢字が用いられている)</ref>

ですが、私が確認した所、

σοφια, -ας,η:[< σοφος]【巧みさ,上手】知恵,叡智;(人間の,この世の)行722(学問の意).(神よりの)同610.(キリストの)ルカ240,コロ23. (神の)ロマ1133.(異端教師の)コロ223.(擬人化されて)マタ1119.(知恵の源泉の意で)Ⅰコリ130
『新約ギリシヤ語辞典』岩隈直、山本書店、1989年、p. 432

とあって、

  • 定着した訳語などとは全く書かれていない。
  • 叡智以外にも訳語がある(むしろ辞書の順番的には「叡智」は最後に書かれている訳語)

ことから、

「叡智」はソフィアの定着した訳語。出典:岩隈直著『新約ギリシヤ語辞典』432頁山本書店

というのは出典捏造の疑いが高いと判断しました。 「疑い」とした理由ですが、私が見たのは1989年8月20日の増訂3版であるためです。出典で用いられた増訂7版は、目にしていないからです。しかしながら、ページ数まで 432 と一致するので、内容が変化しているかどうかは分りませんが、現時点であっても、このコメント依頼にある「出典を脚注欄ごと除去して編集を行い(これは合計で3回繰り返されました)」という主張ですが、その出典は捏造の疑いが極めて高い以上、Alex K さんの編集は、結果として「荒らしへの対処」と同等であった事は明らかです。
時間が取れるかどうか分りませんが、定着した訳語が「出典」として書かれた経緯に関し過去に遡って調べたく思います。 -- Tolena 2010年1月15日 (金) 15:15 (UTC)[返信]

Tolena氏への疑問(皆様への提案つき)[編集]

  • Tolena氏もしつこいですね。既に「日本正教会で用いられている事実」「辞書で調べたが一冊しか見なかったのはこちらの手落ち」と申しています。「定着している」だけを外すのなら別に異存ない旨も申しています。「定着している」という言葉が辞書に載っているなどと主張した覚えもありません。私がここで問題にしているのはAlexK氏による「全面削除」と、AlexK氏がカトリックで最も使われると思われる「上智」を「出典無しで」トップに持ってきた事。以上です。一体何をここで争いたいのか皆目分りません。カトリックに偏ったAlexK氏の問題行動については他にも指摘済みです。上で「日本正教会のサイトではない」云々を仰っておいでですが、それを言うならばウィキペディアは「ウクライナのサイトでもない」し「ウクライナ東方カトリック教会のサイトでもない」のです。ましてや正教会に正教用語を当て嵌めるのは資料の優先順位から言えば当然の事です(カトリック用語か、プロテスタント用語か、はたまた通用性などと言い出したら、どれを採用するかで際限が無い論点になります)。「観点」「事実」と、「用語の選定」は全然違うレヴェルの問題です。ちなみに日本正教会自治教会位が全地総主教庁から認められていない事など、日本正教会は公式媒体で殆ど触れませんが、それについて私は修正していません。それこそ「観点」の問題であり、「事実」の問題だからです。「中立的観点」まで攻撃されるとは聊か心外であります。一体何がなさりたいのか。「退場要求」まで出したいのであれば、私へのコメント依頼でも出して、そこで決着をつけて下さい。以降、貴方へのコメントは(無視はしませんが)頻度を落とします。--Kinno Angel 2010年1月15日 (金) 15:39 (UTC)[返信]
  • Tolena氏のコメントを正確に引用の上で反論しておきます(また「捏造」だの言われてはたまらない…)。
>ところでここは日本語版のウィキペディアであって、正教会の正教会による正教会のためのウィキペディアではない事をご理解願います。次第に議論というより宗教対立のように感じられ「始めに叡智ありき」な感じもしてまいりました。「中立的な観点」から執筆するのは Kinno Angel さんには難しいでしょうか?
  • その台詞、そっくりそのままAlexK氏に(ウクライナ人のウクライナ人によるウクライナのためのウィキペディアではない)返ります。いやそれ以上です。AlexK氏の偏向は無視して、私の偏向(?当事者資料尊重のどこが偏向なのか皆目分りませんが)ばかり精力的に叩くというのは、何か貴方の恨みでも買ったのでしょうか。私の履歴を精査すれば誰しもお判り頂けるかと思いますが、私は正教以外の他教派についても(自分で言うのも何ですが)精力的に編集しています。勿論、カトリック教会に関連する用語はカトリック教会で最も使われると思われる用語を使い、聖公会、プロテスタントに対しても同様の姿勢をとっております。カテゴリ分けの整理は特に慎重かつ念入りにやっております。--Kinno Angel 2010年1月15日 (金) 15:55 (UTC)[返信]
  • 正直、論点が膨大な書き込みによってぼやかされている事、荒らしの一歩手前ではないかとも思います。ここでやる議論ではないでしょう。何度も私は「【定着している】については外せば良い」と言っているのですが(ここで話は終わりの筈ですよ)、Tolena氏は執拗に「捏造!捏造!捏造!」と言い募っている。ここは、AlexK氏へのコメント依頼のページですよね?私の錯誤(捏造とまで言われては心外です)について粘りに粘った御批判が続いていますので、Kinno Angelへのコメント依頼でも出してそこに議論を移されてはいかがかとも思います。何なら私へのブロック依頼でも何でも提出してそこで議論して頂いてもよろしゅうございます。
  • 皆様への提案)まだ粘りが続くようであれば、私自身についてのコメント依頼ページを私自身が作ってもよろしゅうございます。この点につき、皆様いかがお考えでしょうか。--Kinno Angel 2010年1月15日 (金) 15:47 (UTC)[返信]

ええと、Kinno Angel さん、申し訳ない、以下なんですが、

私は「正教会での定訳」と「一般的な辞書」で使われている事を以て「定着している」と申したのみです。

やはり前記の「出典」を最初にウィキペディアに書いたのは Kinno Angel さんですか? -- Tolena 2010年1月15日 (金) 16:27 (UTC)[返信]

そうですが、何か。「手落ちだ」「錯誤だ」これ以上何が必要ですか?何か必要だとお感じでしたら、私に対するコメント依頼でもブロック依頼でもご自由にどうぞ。これ以上ここで続けられるのであれば、他人からの指摘に一切耳を貸さない貴方の行為に対するコメント依頼を行います。--Kinno Angel 2010年1月15日 (金) 16:33 (UTC)[返信]
まず、ここは利用者の行為についてのコメント依頼であって、記事の内容について議論する場所ではないと考えます。何度も言うようですがTolenaさんにはこの場での議論を自重していただき、当該ページで問題提起してプロジェクトページ等へ議論提起を行なうべきでしょう。また、Tolenaさんがここで議論を行う限り、コメント依頼本来の主旨から逸脱させている行為に過ぎず、Kinno Angelさんに問題行為があるとは思いません。よってKinno Angelさんのコメント依頼は必要ないと考えます。--Hideokun 2010年1月15日 (金) 19:17 (UTC)[返信]


はい。ここではこれ以上の議論は致しません。また、Kinno Angel さんのコメント依頼も私は必要とは思いません。出典捏造を理由にWikipedia:投稿ブロック依頼/Kinno Angel を提出させていただいた事を報告致します。 -- Tolena 2010年1月17日 (日) 15:42 (UTC)[返信]

私の質問に対して答えることなく下策中の下策を選ばれたように感じます。Tolenaさんも過去にブロック依頼を出されて色々と言われているようですが、他人の痛みがわからないということなのでしょう。なんか名を上げるために拙速されたように感じるのは私だけなのでしょうか。政治的な話題を私は好みませんのでこれ以上は何も言いません。--Hideokun 2010年1月18日 (月) 14:53 (UTC)[返信]