Wikipedia‐ノート:良質な記事/良質な記事の選考/ノルマン・コンクエスト 20240130

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コメントの詳細[編集]

表のコメントの補足です。長くなるのでノートに書いておきます。

ノース人、ノルマン人の名称について
  • (補記)ここは根拠を示さないと単なるいいがかりみたいになってしまうので、補足します。
  • 熊野聰による『世界大百科事典』の記事「ノルマン人」によると、(1)古北欧語で「norð」(北)+「menn」(人=maðrの複数形)、(2)これをラテン語表記したのが「Nortmanni」(ノルトマンニ)ないし「Normanni」(ノルマンニ)、(3-A)これがフランス語化したのが「Normans」(ノルマン)・「Normands」、(3-B)英語化したのが「Northmen」(ノースメン)。
  • これに従うなら派生の順序が違う。(熊野と、Crouch Normans のどちらが分野の権威なのかはわかりません。)
  • ただそもそも、英語版の原文「the Vikings in the region became known as the "Northmen" from which "Normandy" and "Normans" are derived.」と照らし合わせると、これは「ノルマン人という言葉はノース人という言葉から派生」という趣旨とは違うのでは・・・?「“”」をどう捉えるかかな。人種/民族/部族的な意味で同系統だよってことと解釈できないでしょうか。ヴァイキングが、英国島ではNorthmenと呼ばれる人々の祖になり、大陸ではNormansと呼ばれる人々の祖になった、的な。deriveには「語源になる」的なニュアンスと「由来となる・派生する」的なニュアンスがあり、うーん。自信はない。
  • 歴史学的には、「viking」≒「northmen」と呼ばれた人々は単一民族ではなく、イングランド島の人々はフィンランド・ノルウェー・スウェーデンなど、北方から船で来た人々を区別なく「viking」「northmen」と呼んだ、ということになっています。(さらに、ここで「ノルウェー」といっても、当時はまだノルウェー国があったわけではなく、のちにノルウェー国を作ることになる民族が別の場所に住んでいた的な話も組み合わさって、ややこしい)「○○人」と呼ばれた民族が実際には○○に住んでいない、というの世界史でよくある話。--柒月例祭会話2024年2月10日 (土) 09:55 (UTC)[返信]
ネット情報なんで正確かどうか断言はできませんが、en:Normans#Etymologyによれば、
英語のノルマン人(Normans)
フランス語のノルマン人(normand)
低地フランク語のノース人(Nortmann)
又は古ノルド語のノース人(Norðmaðr)
=ノースマン、ヴァイキング
という流れだと記述されていると思います。
また、en:Northmen#History of the terms Norseman and Northmanにも、ラテン語化したノースマンがノルマン人、ノルマンディーの由来になっていると書いてあると思います。また、Norsemenという呼称はイングランドでは19世紀に初めて記載されたものだと書いてありました。
大元はノース人で、そこからノルマン人が由来したのではないかなというふうに感じました。
どうなんでしょうね。—安息香酸会話2024年2月10日 (土) 15:23 (UTC)[返信]

20240213の件[編集]

基本的なこととして、私が指摘した内容は翻訳だけでは解決できないでしょう。適切な情報源にあたり調査や加筆を伴うと思います。

私は個人的にここらへんの分野に関心があって、英語版で用いられている文献を何冊か(ちゃんと数えていませんがたぶん5冊程度)所有しています。そのほか同分野の和書がいろいろ。

文献の選択は悩ましいです。古い文献は、高次言及によってその情報源の信頼性が評価できるけども、内容が古い。新しい文献は、最新の説を書けるけどもその説の評価が未定。いま2020年代なので、2000年頃の文献は期待値として「そこそこ新しく、それでいて一世代を経て一応の評価が下されている」という感じにはなるでしょう。個人的には新旧揃えるのがよいと思います。--柒月例祭会話2024年2月15日 (木) 09:22 (UTC)[返信]

文量・バランスの件[編集]

要は「バランス」なので、文章量の乏しい部分を加筆するでもいいです。加筆やあるいは本文量の減少(本文の一部を注釈化することも含む)によって、適切なバランス・文章量の調整を図ることになります。

これはこの記事固有の話というより一般論です。記事はWikipedia:中立的な観点に則って適当な重み付け(≒バランスのとれた文量)に配慮する必要があります。ここでいう「バランス」は、適切な情報源が根拠になります。瑣末な情報を長々と書くのはバランスを欠くことになり、重要な事柄を長く書き、瑣末な事柄はちょっぴりにとどめます。

たとえば鉛筆の記事なら『鉛筆のすべて』を底本とし、同書が「鉛筆の歴史を15%」「芯の構造を75%」「外側の構造を10%」の文量で解説しているならば、Wikipediaの記事内のバランスもそれに比例した文量となります。

問題は、じゃあ底本を具体的にどれにするのってところです。英語版では多数の文献が示されていますし、和書でも数多くの文献が見込めます。(有名な大きなテーマの場合、いつもこの問題が起きます。)現実的には1冊に絞るのは難しいですしその本が偏向している可能性もあるので、主要な文献複数を比較しておおよそのボリューム・割合を割り出すって感じでしょう。

Wikipediaでは色々な利用者が色々な情報源をもとに断片的に編集した結果、全体的なバランスがおかしくなっている、ということは「あるある」です。

底本選びは、(A)テーマを包括するより大きなテーマの文献、(B)テーマそのもの、(C)テーマ内のより細かい話題、に分けます。たとえば「ノルマン・コンクエスト」の場合には、(A)西洋史概説書や英国史概説書、(B)ノルマン・コンクエストそのものの解説書、(C)『ノルマン・コンクエストにおける兵の役割』みたいな本、という感じです。(今回は英国史だけでなく世界史・仏国史・北欧史も必要)

(A)~(B)では全体的な構成・テーマごとの文量割合を、(B)~(C)では節や小節ごとの構成・文量割合の目安を割り出す、という感じです。

たとえば「現状「ノルマン人の遠征準備」節では人数の諸説みたいなかなり細かい話に及んでいる割には、他の節はかなりガバっとしていて、ちょっとバランスに偏りがあるという感じ。他の節の現状に合わせて細かい話を注釈化するか、もしくは他の節を加筆するか、って感じです。--柒月例祭会話2024年2月15日 (木) 09:22 (UTC)[返信]

確かに後半は分量が少なかったですね。英語版では後半部分の内容はen:England in the High Middle Agesen:Government in Norman and Angevin Englandといった別記事で詳細に説明されているみたいですが、ここら辺の記事を移植するという形での本文増強という方法もありそうな気がしますが、どうなのでしょうか?
文章を理解できたらの話ではありますが…
(専門書を所有していなくて…)
分量比率という発想は全くありませんでした。ご指摘ありがとうございます。
—-安息香酸会話2024年2月16日 (金) 10:18 (UTC)[返信]

たとえば[編集]

ここまでは一般論・考え方の話で、ここからは個別具体的な話。

そもそも底本選びからなのですが、ひとまずアクセスしやすい和書を選ぶとすると、たとえばこんな感じ。(これ以外認めないみたいな話ではなく、あくまで「たとえば」)

(A~B群)
  • 『世界各国史 新版11 イギリス史』、山川、1998、ISBN 4634414104
  • 『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』3巻、慶應義塾大学出版、2015、ISBN 4766416430
  • 『オックスフォード ブリテン諸島の歴史』4巻、慶應義塾大学出版、2012、ISBN 4766416449
  • 『イギリス中世史』、ミネルヴァ書房、1988、ISBN 9784623018673

このあたりの文献はだいたい「ノルマン征服」(ノルマン・コンクエスト)周辺に10-20ページ程度を費やしている。で、そのぐらいの文量で語ろうとするときには、兵数の話は深くは出てきません。(たいてい、両陣営とも7-8000程度だった、ぐらい。そしてどちらかというと、数の上ではイーブンだけど、疲労度や装備に差があったという話になる。)

で、バトルの戦史的な詳細よりも、征服の結果なにが起きたかを長々と書いてある。大雑把に言うと(ア)イギリスの人種が変わったという話、(イ)イギリスの言語が変わったという話、(ウ)イギリスの文化が変わったという話、(エ)西洋文化圏の地図が変わったという話(≒イギリスとフランスノルマンが同一王朝のもとに一体的に支配され、以後は英仏関係が西洋の重要事項となった)

ここらへんと対照させると、記事の前半の戦史的な記述は細かいのに対して、後半(「イングランド統治」「コンクエストの結果」)がボリューム不足・掘り下げ不足かな、という感じです。(あくまで、仮に上に挙げた本を底本とするならば、ですよ。)--柒月例祭会話2024年2月15日 (木) 09:22 (UTC)[返信]

「モットアンドベーリー」云々について[編集]

これはたしかに私の書き方が悪いです。

  • 「イングランド統治」節を含め、記事では城砦建築様式の話はほとんど書かれていなくて、唐突に「これらの城塞の多くは当初モット・アンド・ベーリー型の砦であった」という一文だけがある。これでは読者にとって情報が少なすぎるということ。
    • たとえるならば「弥生時代になると当初は弥生式土器がつくられた」ぐらいしか情報がない。読者にとっては、専門用語が一つ増えただけで、意味がわからないし、「その前はどうだったのか」「その弥生式土器ってやつの特徴は」「なぜなのか」「当初は、ってことは、その後はどうなったのか」もわからない。

ひとまず出典を示さず雑ですが、要するに下記のようなことぐらいは書くべき、ということ。

    • コンクエスト以前のイングランドの城砦は、アングロサクソン風の簡素な木造・板づくりがほとんどで、軍事的な機能を持つ設備はせいぜい土塁や木柵ぐらいだった。
    • ノルマン貴族は、大陸風の土木工事を伴う城砦建造様式を持ち込み、これによってイングランドの築城が進化した。
    • ノルマン貴族は、土を掘って環状の空堀をつくり、その土砂を掘の内側に盛って築山とした。
    • これをラテン語風に「モット」と呼ぶ。
    • モットの中央には丸太を環状に打ち込んで円塔形の天守(キープ)を築いた。
    • これが城主の居館である。
    • この内堀・築山・天守の周囲に、より広い堀を築いて外郭とし、これを区画して郎党を住まわせた。
    • この区画をノルマン風に「ベーリー」という)
    • こうした築城形式を現代の学者はモットアンドべーリー型と分類する。
    • (その後の変化も書くとよいが、長くなる。当初木造だった築造物は、その後の合戦で火矢にやられることが判って石造に変わっていき、石造の本格化、丸塔が角塔に・城内の施設が変わる、を経て十字軍で中東を見てきた結果また大きく変わるナドナド)

ノルマン・コンクエストの結果として城砦建築様式が一変した、というのは確か。

問題は、この辺を加筆するには、それ相応の出典を追加しなければいけない!ということ。(正直、この辺りは、先に書いた「適当な重み付け」との兼ね合いもありますね。適切な情報源ではそもそも城砦建築の話題なんかほとんど出てこない、というのなら、詳述しなくてもいいと考えられます。)

  • (一例)富沢霊岸、『イングランド中世史』、ミネルヴァ書房、1988。p.85より引用
    • 「彼はヨーク、ドーヴァー、ヘイスティングズ、リンカン、ウォリックなどの各地に石造りのノルマン城を建設して軍事上の鎮台とし、かつ地方行政の拠点とすることにした。」
  • トレヴェリアン、『イギリス史1』、大野真弓監訳、みすず書房、1973(古い。英国史のうち先史から百年戦争までを250ページで語るうち、約30ページをノルマン征服にあてている。)。p.116-117
    • 「あらゆるところに巨大な円形の堡塁がサクソンの農民たちの強制労働によって積み上げられ、その頂きに最初は木造の最後には石造の王立あるいは私設の要塞が築造された(1)。堡塁の全面には、土塁の囲いによって保護されたベイリー bailey と呼ばれた外庭があった。」
    • 「注(1) 堡塁は motte として、そしてその上の木造あるいは石造の塔は turris , donjon, または keep として知られた。」--柒月例祭会話2024年2月15日 (木) 15:01 (UTC)[返信]
変化の前後を記して、流れをわかりやすくするということですね。この記事の翻訳だけではどうしようもないですね。
安息香酸会話2024年2月16日 (金) 10:20 (UTC)[返信]

ノルマン人・ノース人[編集]

当座の結論を言うと、「私もまだ結論に至っていない」という感じです。一つ言えるのは、ここらへんの呼称の話はややこしいってこと。

現状、複数の情報源が、フランス語の「ノルマン」は古北欧語の「Norðmaðr」由来だと明記しています。一方で、フランス語の「ノルマン」は英語の「Northmen」由来だと明記した文献が見当たりません。

ややこしいのは、英語版は、英語もフランス語もまだ未成立の時代にフランスで起きた事柄を現代英語で叙述している、ってところ。

「Northmen」という単語は英語です。ですがノルマンディーはフランスです。そこへ土着したヴァイキングはフランス人からフランス語で「ノルマン人」と呼ばれたわけです(正確には「フランス」というより「古フランク」)。フランス人は英語風の「ノースマン」とは呼びません・・・

という話を、英語で記述すると「Northmen」という単語を用いてしまう。

  • だからこの話をフランス語で記述すると(fr:Conquête normande de l'Angleterre#Contexte
    • La région prend le nom de Normandie en référence à ces « Hommes du Nord », qui abjurent la religion nordique, se convertissent au christianisme et adoptent la langue d'oïl parlée dans la région.
    • となり、そこには「ノース人」という単語が出てきません。(Hommes du Nord=北の人を意味する語から「Normandie」になった)

現代の英語文献は、その時代のことを現代英語で解説するのでややこしくなる。同時代的記録は乏しく、バイキングが最初にイングランドを襲撃した頃のことを後世の聖職者がラテン語から古英語に翻訳したものが伝わってるけどホラが多いとか、彼らはヴァイキングのことを「デーン人」(単純な翻訳だとデンマーク人の意味)と総称していたけども実際はデンマーク人ではないし、そもそも現代のデンマークがある場所に当時住んでいた民族はデンマーク民族とは限らないとか、いろいろややこしい。

和書だと、「Northmen」という英語と「Norman」というフランス語はどちらも古北欧語から派生した、という情報源を2つ見つけました。一つは先に上げたもので、もう一つは山川『北欧史』p25-26。

話は少し逸れるのですが、行きがかり、この話以前の問題を見つけました。

ざっくばらんに言うと、そもそも原文の「Origins」節の和訳に難があるように思います。

  • 1文目、英語版は「In 911」で始まります。この部分は要するに、「911年にフランスのシャルルが、ヴァイキングの一派を率いるロロに対してノルマンディーへの入植を認めた」という話です。
    • 一方、訳文は「ノルマン人の起源は911年にまで遡る。」「許可したことがノルマン人の起源となっている。」となっています。これは原文にないもので、この2文がそもそもの誤りの発端です。
    • 原文は「ノルマン人の起源」を語っていません。和文で勝手に付け足しちゃってます。(実際、ロロの一団は、もっと前から絶え間なく英仏海岸に襲来していたヴァイキングたちのうちの一つ、に過ぎないです。)
  • その後
英語版 訳文
[1]Origins節 背景節の1段落目の真ん中らへん
Their settlement proved successful, and the Vikings in the region became known as the "Northmen" from which "Normandy" and "Normans" are derived.[2] 彼らはノルマンディーの文化などを取り込んで着実に定住活動を進めた。そしてノース人として知られるようになった。ノルマンディーやノルマン人という言葉はこのノース人から派生したものとされている[4]。
    • 対照比較すると、訳文のうち最初の一文は英語版にありません。この部分は、英語版に現れる次の文が、順序が入れ替わって挿入されちゃってます。
    • 「The Normans quickly adopted the indigenous culture as they became assimilated by the French, 」
    • この部分は、原文では出典[3](Bates Normandy Before 1066 p. 12)を基にしている部分であり、( Crouch Normans pp. 15–16)を出典としていません。
    • なお、ここも「ノルマンディーの文化を取り込んで」というのが変で、ロロらが取り込んだのは現地のフランク文化であって、のちにその一帯を「ノルマンディー」と呼ぶようになるという順番なのです。ロロらが入植した時点では、そこは「ネウストリアの一部」なので。英語版でも「ノルマンディーの文化」とは書いておらず、「indigenous culture」(先住民の文化)にすぎません。

この「 known as the "Northmen"」っていうのは、「誰によって知られたんですか?」て思います。当時のアングロサクソンイギリス人が、フランスノルマンディーに土着した「ノルマン人」のことを「ノース人」として認識したということ?たぶんここらへんは、フランスの出来事を英語で叙述するから「Northmen」という語が登場しちゃった、ていう感じでは・・・

なお、英語版の「[2]」=“Crouch Normans”を私は持ってます。そのp15-16を読んでも語源みたいな話は出てきません。

    • 近いのはこの辺。
    • p.16の下から10行目 When Richard died in 996 Neustria was long forgotten and the land he ruled was beginning to be called 'Northmannia', 'Normannia' or 'Normandy' ( although the first occurrences of the name in written sources belong to the second decade of the eleventh century).
    • (かつて「ネウストリア」(西の地方)と呼ばれていた一帯が、(英語の本なので、ここでいう「Richard」はリシャール1世 (ノルマンディー公)のこと)996年にリシャール1世が没した後は、「北方から来た人たちの土地」を意味する「Northmannia」などと呼ばれるようになった、ということ。)
    • もう一箇所、p15の下から17行目から The name 'Normandy' does not yet appear, but there is a vague entity here recognised as ' the land of the Northmen' which is a step towards a new geopolitical term for the lands formerly held by Count William.
    • 英語文献だから「the land of the Northmen」と書いてますけど、フランスで起きている事象の解説です。フランス人は「Northmen」という語を使いません。当時は英語が存在しませんから、ここは当時の言葉を現代英語に置き換えて書いているわけです。
  • 英語版でも示されていませんが「Northmen」という語に関係がある言及は、同書Introduction(ページ番号はⅸ)の一番下に次のような一文があります。
    • But the Franks did not forget that this new lord in the old province of Neustria was an outsider or that his people were northerners : they were the 'Northmen'(Northmanni)
    • この最後の部分なんかも、そもそも当時は英語が存在していない時代の言葉を現代英語で解説しているくだりなので、「‘’」とかイタリックの用法はなんなんだ、って感じ。(北方人(northerners)をNortmanniと呼んだ(Northmenの意味)、みたいなニュアンス)

要は、北方からきたヴァイキングのことを、フランス人は「北の人」を意味する「ノルマン」と呼んだし、イギリス人は「北の人」を意味する「ノースマン」と呼んだ、って話。和書2文献がその裏付けになる。(ノルマンディー#由来も参照。)--柒月例祭会話2024年2月15日 (木) 15:01 (UTC)[返信]

身も蓋もないまとめ[編集]

ジョーシキ的にいって、私の長文は読む気もしないと思うんですよね。それが普通の感覚と思います。

なんというか要は、心情的なこととして、「こういう記事は、翻訳じゃなくて、しっかり調べてしっかり書いてほしい」という願望があるんですよ。

私は趣味者として、関連文献を、和書で大小100冊、英書で30冊ほど、仏書で10冊ほど持ってるわけです。(フランス語の本は買ったは良いけど読破は無理)

だから細部にあれこれ口を出したくなるんですけど、「だったらじゃああなたがその手元の文献使って書けよ」と言われると、「資料が多すぎてまとめられないから無理」なんです。だったらじゃあ口出すなよ、って思われるのは当然と思います・・・--柒月例祭会話2024年2月15日 (木) 15:41 (UTC)[返信]