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ロシアの農奴制」(ロシア の のうどせい、ロシア語: Крепостное право в России)では、モスクワ大公国の時代から帝政ロシアにかけてつづいたロシア農奴制の特徴と展開について説明する。

中世ロシア社会では、収穫を終えた「聖ユーリーの日」の前後に農民の移動の自由が認められていた。ただし、みずからの領主に対して負債のある場合には移動の権利を行使できなかったため、実際には、多数の農民が土地に拘束されていた。15世紀に入ると、富裕な領主が負債を肩代わりする代償として農民を自己の領地へ引きぬく行為が増加しており、このことは中小領主の農地経営をむしろ圧迫した。15世紀末、リューリク朝モスクワ大公で「全ルーシの君主」を称したイヴァン3世が農民の移動を制限する「1497年法典(スヂェブニク)」を定めた。これにより、農民の移動は「聖ユーリーの日」の前後それぞれ1週間(計2週間)に制限されることとなった。

イヴァン3世の孫で初めて「ツァーリ」の称号を公式に採用してロシア・ツァーリ国を建てたイヴァン4世(「イヴァン雷帝」)もまた1550年に同様の法典を定めた。これは、1497年法典に改正を加えたもので、中小領主である士族層の経済的安定を図る一方で修道院貴族層の土地所有制限条項をふくみ、また、代官への監督強化を盛り込んだ、全体としては中央集権化の方向性を示した法令であったが、農民の移動における「聖ユーリーの日」にかかわる規定については、前代をほぼ踏襲した。イヴァン4世統治下のロシアは、コサック(カザーク)の頭領イェルマークの遠征などにより、その版図をシベリアに広げたが、このような外的な発展は内的にはむしろ農奴制への傾斜をもたらした。

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