徐羨之
徐 羨之(じょ せんし、364年 - 426年)は、中国南朝宋の政治家。字は宗文。本貫は東海郡郯県。兄の徐欽之の子は徐逵之(劉裕の長女の会稽長公主劉興弟の夫で、徐湛之の父)。南朝宋の建国者である劉裕に従い、少帝の補佐を託されるが、傅亮と謀り、文帝を即位させた。
経歴
上虞県令の徐祚之の子として生まれた。若くして東晋の太子少傅主簿となっていたが、劉裕が桓玄討伐の軍を起こした際に従軍し、戦後、鎮軍参軍となった。416年、後秦討伐のため、劉裕が関中に攻め入ると、劉裕の腹心である劉穆之とともに建康の留守居を勤めた。劉穆之の死後、吏部尚書・丹陽尹となり、劉穆之に代わり職務を遂行した。
劉裕の下、寒門出身でありながら、東晋には尚書僕射、南朝宋には南昌県侯となる。やがて、司空や揚州刺史などの職を兼任し、権勢の中枢に至った。
422年の劉裕の死に際し、後事を託されるが、跡を継いだ少帝が政治に不得手であったことから、424年にこれを廃し殺害する。代わりに文帝を即位させ、自らは司徒にとなった。しかし、426年に徐羨之らの専横を嫌った文帝により、少帝殺害の罪を問われ、自殺を命じられる。
伝記資料
- 『宋書』巻43 列伝第3