モヘンジョダロ

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世界遺産 モヘンジョダロの
考古遺跡
パキスタン
“大浴場”こと沐浴施設。 後方にクシャーナ朝時代の仏塔を臨む。
“大浴場”こと沐浴施設。
後方にクシャーナ朝時代の仏塔を臨む。
英名 Archaeological Ruins at Moenjodaro
仏名 Ruines archéologiques de Mohenjo Daro
登録区分 文化遺産
登録基準 (2) (3)
登録年 1980年
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
モヘンジョダロの位置
使用方法表示
神官王」と呼ばれる胸像
ソープストーンen)製、高さ17.5cm
踊り子の塑像
地図
地図

モエンジョ=ダーロウルドゥー語موئن جو دڑوシンド語موئن جو دڙو英語: Moenjodaro, Mohenjo-daro)は、インダス文明最大級の都市遺跡。モヘンジョダロ、モエンジョダロ、モエンジョダーロ、モヘンジョ・ダーロ、モヘンジョ・ダローなどの表記がある。

紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測されその後は短期間で衰退した。原因としてさまざまな説があげられたが、近年の研究では大規模な洪水で衰退したと考えられている。

呼称

モヘンジョ=ダーロは現地の言葉で 「死の丘」 を意味し、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、地元民は恐れて近よらない禁忌の領域であった。この都市の本来の呼び名、すなわち往時の名称については、インダス文字が解読されていないため、ヒントすら得られていない。

都市の特徴

遺跡は東西二つの遺丘からなる。東方に市街地が、西方に城塞が広がっている。規模としてはほぼ1.6キロメートル四方と推定されるが、今後の調査によってさらに大きなものに訂正される可能性がある。遺跡は整然とした都市計画を示し、道路は直角に交差し、碁盤の目のように細分されていた。水道、汚水の排水システム、個人用の浴室、公衆浴場などがすでに存在しており、水量の季節的変動を考慮して貯水池を十分に整備するまでに水利工学はおおきく進歩していた。また、建築には一定のサイズの煉瓦が使用されていた。以上のことは、この地に確固たる社会構造、強力な階級制度中央集権制度が存在していたことを意味する。

東丘の市街地

市街地は、東西2本、南北3本の幅10メートルの大路によって12区間に分かたれていたらしい。一つ一つの区間が、大通りに通ずる1.5~3メートルほどの小路でさらに分けられていた。市街地全体を囲むような市壁があったかどうかは不明である。ここでは、一般の家屋から隊商宿といわれる建物、労働者用の粗末な小屋など、さまざまな建物が見つかっている。家屋は大小さまざまだが、中庭を中心にしそれを囲んでいくつかの部屋を持つように作られ、出入口を大路に面した側には持たず、小路に面して戸口を開くスタイルが一般的だった。各戸は下水道を備え、汚水は小路の排水溝へ通じ、さらに大路の排水溝へ集められる仕組みになっていた。

西丘の城塞

モエンジョ=ダーロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれているが、城塞とは異なり、戦争用の遺物は見られない)は、ハラッパーの場合と同様、堅固な城壁をめぐらし、その内側に煉瓦を10メートルほど積み上げた人口の基壇を設け、東丘を見下ろすように一段高くつくられている。基壇の上には、問学所と呼ばれる建物や、会議場あるいは列柱広間と呼ばれる30メートル四方の建物など、おそらくは市制を司ったであろう公共的な[要出典]建造物が建ち並んでいる。

ほぼ中央には長辺12メートル、短辺7メートル、深さ2.4メートルの、内面を瀝青で耐水加工した焼成煉瓦造りの大浴場が存在し、これに接するように、長辺45メートル、短辺27.5メートルの範囲内に27ほどの穀物倉の基壇群が存在する。当初は、この構造は煉瓦造りの基壇の上に木造の建物が載っていたと推測された。しかし穀物倉と呼ばれる建物は湿気のある大浴場に近く、木製の建物の痕跡もなく、穀物を運び入れるスペースがなく、穀物の形跡も発見されていないため、現在では他の用途に使われたと考えられている[1]

大浴場はある種の祭儀の場であろう、と考えられていたが、近年ではさらに、この大浴場と穀物倉との位置関係が改めて注目されている。この二つが結びつくことで、再生・増殖の象徴として機能していたのではないか、という指摘がなされている。城塞は、政治センターとしての役割ばかりではなく、宗教センターの役割も果たしていたようである。[要出典]

農業

このインダス河流域の都市社会では、農業が重要な役割を果たしていた。人々は小麦を栽培し家畜牛を飼育して生計を立てていた。広い道路や傾斜路が整備されていたので、収穫物を載せた荷車が容易に往来できた。輸送手段とともに食物の保存技術も発達した。

遺跡を巡る現代史

文明遺跡としての発見は、1922年インド考古調査局員であった歴史学者R・D・ボンドパッダーエ(Rakhaldas Das Bandyopadhyayベンガル語রাখালদাস বন্দোপাধ্যায়、異名:Rakhaldas Banerji、Rakhaldas Banerjee [R・バネルジ、R・バナージー])の発掘調査によってなされた[2]

1980年パキスタンの申請で「英語名:Archaeological Ruins at Moenjodaro和訳名:モエンジョダーロの考古遺跡)」の名でユネスコ世界遺産文化遺産に登録された。

遺跡が属する地域一帯では地下水の上昇による塩害が進行し続けているが、モヘンジョ=ダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まらない。そうして土に還ってしまった遺構も少なくはなく、保存の問題が何十年も叫ばれ続けている。

ユネスコ世界遺産

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。

脚注・出典

  1. ^ 長田「新しいインダス文明像を求めて」(『インダス』 p405)
  2. ^ Early excavations at Mohenjo-daro” (英語). 2010年1月17日閲覧。

参考文献

  • アンリ・スティルラン『世界の古代遺跡』森山隆訳、創元社、2006年、3頁
  • 『古代文明と遺跡の謎・総解説』自由国民社、1993年、160-162頁
  • 木村重信『失われた文明を求めて』KBI出版、1994年、50頁
  • 長田俊樹編 『インダス 南アジア基層世界を探る』 京都大学学術出版会、2013年。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯27度19分45秒 東経68度08分20秒 / 北緯27.32917度 東経68.13889度 / 27.32917; 68.13889