山本朗
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山本 朗(やまもと あきら、1919年〈大正8年〉8月20日 - 1998年〈平成10年〉1月11日[1])は日本の新聞記者、実業家。中国新聞社第4代社長。
来歴物
広島県広島市出身。中国新聞創業家に生まれる。子供時代から優等生で広島高等師範学校附属小学校5年修了で広島県立広島第一中学校に入学、旧制中学4年修了で旧制広島高等学校に進学。自転車通学で3年間無遅刻、無欠席を続け卒業時には皆勤賞を受領している。同期に永野厳雄(広島県知事)、1年後輩に松谷健一郎(中国電力会長)等。
旧制高校を卒業後は東京帝国大学経済学部に進学、卒業後は実父の山本實一が社長を務める中国新聞社に入社、県政記者などを担当していたが、1944年(昭和19年)3月召集令状が来て呉海兵団へ入隊、主計兵教育が終わって挑戦した短現(短期現役士官)に合格、第12期の海軍主計科見習士官として海軍経理学校へ入校。旧広島総合銀行頭取の篠原康次郎は同期生。1945年(昭和20年)3月木更津の第二海軍航空隊に配属され、佐貫町(現富津市)の横穴で終戦を迎えている。同年9月2日に復員、9月12日付で中国新聞社総務局長事務取扱となり父とともに会社再興に没頭、その過程で激しい労働攻勢にも耐える一幕もあった。1958年(昭和33年)9月専務取締役、1969年(昭和44年)社長に就任。広島経済界の有力企業11社で構成する「二葉会」の一員としても幅広く活躍した。1991年(平成3年)、勲一等瑞宝章を受章。1998年(平成10年)、急性心筋梗塞のため死去[1]。
親族
父の實一も同じく中国新聞社社長を務め、二男の山本治朗も同じく中国新聞社社長を務めた。