拓跋雲
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拓跋 雲(たくばつ うん、447年 - 481年)は、北魏の皇族。任城康王。
経歴
[編集]拓跋晃と孟椒房のあいだの子として生まれた。451年(太平真君12年)に父が死去すると、5歳の拓跋雲は号哭してやまなかったので、祖父の太武帝は拓跋雲を抱きかかえて「汝何ぞ成人の意有るを知るや」と言って泣いた[1][2]。464年(和平5年)1月、任城王に封じられた[1]。使持節・侍中・征東大将軍・和龍鎮都大将に任じられた[1][2]。献文帝のとき、都督中外諸軍事・中都大官に任じられ、民衆の訴訟を聞いて判断は理にかなっていたため、当時の名声を得た[1][2]。
470年(皇興4年)、柔然の予成が北魏の北辺を侵犯すると、拓跋雲は魏軍を率いて東道に進出した[3][4]。471年(皇興5年)8月、献文帝が群臣を集め、京兆王拓跋子推に帝位を譲る内意を示した。拓跋雲は源賀や東陽公拓跋丕とともに反対論を唱え、献文帝も翻意して皇太子の拓跋宏(孝文帝)に帝位を譲った[1][2]。
472年(延興2年)、柔然が北魏の北辺を侵犯すると、拓跋雲は太上皇帝(献文帝)に従って中軍大都督となって出征した[1][2]。473年(延興3年)、仇池が北魏に叛くと、拓跋雲は征西大将軍となって仇池を討った。都督徐兗二州縁淮諸軍事・征東大将軍・開府・徐州刺史に任じられた[1][2]。。太妃の蓋氏が死去したため解任を求めたが、太上皇帝に許されず、拓跋雲は悲号のあまり病となり、ようやく辞任が許された[1][2]。。服喪を終えると、再び侍中・中都大官となった。冀州刺史として出向した。使持節・都督陝西諸軍事・征南大将軍・長安鎮都大将・雍州刺史に転じた。481年(太和5年)4月、雍州で死去した。諡は康といった。雲中の金陵に陪葬された[1][2]。
妻子
[編集]妻
[編集]- 孟氏(任城国太妃)
男子
[編集]女子
[編集]- 元純陀(五女、邢巒の妻)