ジム・クレイトン
基本情報 | |
---|---|
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニューヨーク州 ニューヨーク |
生年月日 | 1841年4月15日 |
没年月日 | 1862年10月18日(21歳没) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
ジム・クレイトン(James Creighton, Jr., 1841年4月15日 - 1862年10月18日)は、19世紀のアメリカ合衆国で活躍していた野球選手。ニューヨーク生まれ。主なポジションは投手。右投げ。プロの規定がまだなかった1850 - 1860年代に密かに報酬をもらってプレーしていた一人で、一部資料では『野球史における最初のプロ選手』とされている。
来歴・人物
生い立ち
1841年にニューヨークで生まれたが、少年期のことは殆どわかっていない。16歳の時には既にクリケットのルールをマスターしていたという。クレイトンは近所の友人とともに、1857年に「ヤングアメリカ」と呼ばれるジュニアの野球クラブを結成したが、このクラブは数試合を行った後すぐ解散する。その後クレイトンはブルックリンで活動していたナイアガラ・クラブに参加し、チームの二塁手となった。
プロ選手の誕生
1859年、ナイアガラ・クラブはブルックリンのスター・クラブと野球の試合を行い、クレイトンは5回からリリーフとして登板したが、彼の投げる球のあまりの速さに、スター・クラブの打者たちは、クレイトンが手首のスナップを使うなどの不正(当時のルールでは、『投球は下手から、肘と手首をまっすぐ伸ばして投げなければならない』と定められていた)をしていると抗議した。しかしこの試合の後すぐ、スター・クラブはクレイトンとチームメイトのジョージ・フランリー(George Flanly)をナイアガラ・クラブから引き抜いた。
翌1860年、クレイトンとフランリーはスター・クラブから離れ、ブルックリンでも著名なクラブだったエクセルシアーに所属する。この二人の選手の移籍については、当時ライバルだったブルックリンのアトランティック・クラブに対抗するために、エクセルシアーが二人に内密に『報酬』を渡していたことによるものと考えられている。この年クレイトンは、エクセルシアーズのアメリカ各都市への巡業に参加し、投打に活躍を見せた。1860年11月8日の試合ではクレイトンが登板し、記録に残っている野球の試合における最初の『完封試合』を達成した。またこの頃、エクセルシアーは野球の巡業試合を行う一方でクリケットの試合もこなしており、クレイトンもイギリスからの遠征チームとの対戦などに参加している。クリケットの試合においても、クレイトンは下手投げで投球していたそうである。1861年、クレイトンはアメリカン・クリケット・クラブのチームメイトだったエイサ・ブレイナードとともに、エクセルシアーのライバルであったアトランティック・クラブの一員として試合に出たこともあった。これも内密の報酬が絡んでいたと考えられている。
突然の死
野球におけるスター選手となりつつあったクレイトンだが、1862年10月14日のエクセルシアーとユニオンズ・オブ・モリサニアの試合中に悲劇が襲う。この試合はブレイナードが投手をつとめ、クレイトンは野手として出場して4打席で4本の二塁打を放つ活躍をしていた。5打席目にクレイトンはホームランを放ったが、思い切りバットを振った時の衝撃で内臓破裂を起こしてしまった(当時は膀胱の破裂と報告されたが、後の医学的な知見から鼠蹊部ヘルニアの損傷と解釈されている)。出血が止まらないまま、クレイトンは4日後の10月18日に、わずか21歳と6ヶ月で他界した。