ヴィルヘルム・アウグスト (ザクセン=アイゼナハ公)
ヴィルヘルム・アウグスト Wilhelm August | |
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ザクセン=アイゼナハ公 | |
在位 | 1668年 - 1671年 |
出生 |
1668年11月30日 神聖ローマ帝国 ザクセン=アイゼナハ公領、アイゼナハ |
死去 |
1671年2月23日(2歳没) 神聖ローマ帝国 ザクセン=アイゼナハ公領、アイゼナハ |
家名 | ヴェッティン家エルンスト系 |
父親 | ザクセン=アイゼナハ公アドルフ・ヴィルヘルム |
母親 | マリー・エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル |
ヴィルヘルム・アウグスト(ドイツ語:Wilhelm August, 1668年11月30日 - 1671年2月23日)は、ザクセン=アイゼナハ公(在位:1668年 - 1671年)。
生涯
[編集]ヴィルヘルム・アウグストはザクセン=アイゼナハ公アドルフ・ヴィルヘルムとマリー・エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルの末子として生まれた。4人の兄たちはいずれも生後間もなく死去していた。
1662年の合意に従い、父アドルフ・ヴィルヘルムはアイゼナハの領地から収入を得て居を構えた[1]。しかし、ザクセン=ヴァイマル公領は長子ヨハン・エルンスト2世ら兄弟の共同統治であった。翌年、アドルフ・ヴィルヘルムはマリー・エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルと結婚し、後継者を得ようとした。カール・アウグスト(1664年 - 1665年)、フリードリッヒ・ヴィルヘルム(1665年)、アドルフ・ヴィルヘルム(1666年)、エルンスト・アウグスト・エルトマン(1667年 - 1668年)と、男子が毎年生まれたがいずれも早世した[1]。アドルフ・ヴィルヘルム自身も1668年11月21日に死去した[1]。
父アドルフ・ヴィルヘルムの死の9日後に、ヴィルヘルム・アウグストが五男として生まれた。このためヴィルヘルム・アウグストは誕生の瞬間からアイゼナハの名目上の君主となった。 未成年者であったため、父アドルフ・ヴィルヘルムの弟である叔父ヨハン・ゲオルクの後見下に置かれた[2]。5人の兄弟の中で2歳になったのはヴィルヘルム・アウグストだけであったが、1671年に病により死去し、ザクセン=アイゼナハはヨハン・ゲオルクと他の兄弟であるザクセン=ヴァイマル公ヨハン・エルンスト2世およびザクセン=イェーナ公ベルンハルトが共同統治することになった[1]。ザクセン=アイゼナハでは、1671年5月7日の昇天祭の日まで3か月以上にわたり追悼が行われた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- August Beck (1875). "Adolf Wilhelm". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 1. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 120–121.
- Ernst Wülcker (1881). "Johann Georg, Herzog zu Sachsen". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 14. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 365–366.
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